5-3
店員が珊瑚の椅子を引き、西野の斜向かいの席へ促す。慣れない珊瑚は一度ごく浅く腰かけてしまい、一度中腰になって中ほどに座り直した。店員は慣れたもので、珊瑚の失敗などなかったかのようにスムーズな動作だ。陽一はその隣で、西野の向かいに座る。
それぞれの前にメニューを置いた店員は、「お決まりの際はそちらのスイッチを押してお呼びください」と、テーブルの端にあるボタンを手で示した。その後、綺麗なお辞儀の後に音も立てずに退室した。
店員がいなくなると、ゴツンと鈍い音が響いた。珊瑚は目の前で突然テーブルに突っ伏した西野に目を丸くした。どうやらさっきの音は、西野がテーブルに額を打ち付けたもののようだ。
「西野さん、何してるんですかっ?」
陽一が慌てた声を出すが、西野はそのままの姿勢で答えた。
「陽一君、すまんっ。弘樹から預かった魔石をまた盗まれてしまった。私の落ち度だ」
「いや、西野さんのせいじゃないですよ。顔を上げてください」
「いいや、私のせいだ。しっかり手元で管理しておけばこんな事には……」
困り顔の陽一が、ちらりと珊瑚に視線を向けた。珊瑚は驚きで西野に目が釘付けになっている。陽一は珊瑚の様子に目を瞬き、半分笑いながら西野に答えた。
「西野さん、珊瑚君がビックリしてますよ。早く顔を上げてください」
その言葉に、西野が勢いよく顔を上げた。その瞬間目が合ってしまった珊瑚は、思わず身体を引いた。
「あっ、す、すみません」
失礼なことをしてしまったと、慌てて眼鏡を弄りながら俯いた。
「いや、こちらこそ驚かせしまったようですまない」
西野は頭を掻きながら決まり悪そうにしている。
「せっかくのディナーですから、まずはゆっくり楽しみませんか?」
「ああ、そうだな。陽一君も、神崎さん……でよかったかな? 君も好きなものを頼んでくれ。お詫びも兼ねて私の驕りだから」
そう言われて興味深くメニューを開くが、珊瑚にはさっぱり分からなかった。文字は読めるが、意味が分からない。考えてみれば、陽一と食事に行くと、いつもどんな食べ物なのか教えて貰っていた。お陰で大体のものはわかるつもりでいたが、このレストランのメニューはさっぱりだ。
どうしたものかと首を捻っていると、横に座った陽一がパタリとメニューを閉じた。
「何にするか迷ってる?」
「は、はい」
そうは答えたものの、迷うも何もないのだが。メニューから目を離さず焦る珊瑚に、陽一は軽く笑って頷いた。
「珊瑚君は、肉と魚どっちが食べたい?」
そう聞かれた珊瑚は、陽一を見上げて答えた。
「お魚が食べたいです」
「わかった」
頷いた陽一は、西野へ視線を向けた。
「西野さん、僕はメインを肉で、珊瑚君は魚で。本日のディナーをお願いします。あと、カトラリーに箸をつけてください」
珊瑚はメニューを閉じながら、頬を緩めた。いつもなら気遣いを申し訳なく思うのだが、今日は違う。初めて見るであろう料理に胸が躍る。
「じゃあ、給仕を呼ぶよ」
そう言ってテーブル端に設置されたボタンを押すと、ほどなくして給仕の男がやってきた。
「お決まりでしょうか」
「本日のディナーを三つ。メインは魚を一つと肉を二つで」
「かしこまりました。食前、食後のお飲み物は如何いたしましょうか」
「ああ、二人は何にする?」
珊瑚は何も思いつかずにあたふたとする。どうせ見ても分からないと思えば、メニューを再び開く勇気もない。急な事にどうしたら良いのか分からず、思わず陽一を見上げた。再び頷いた陽一は、給仕に話しかけた。
「ノンアルコールでおすすめはありますか?」
給仕は穏やかにほほ笑み頷くと、滑らかに答えた。
「はい。フレッシュジュースやノンアルコールカクテルをご用意しております。本日のメニューですとノンアルコールカクテルの、シャリーテンプルかモクテル・モヒートがお勧めとなっております」
珊瑚は何が何やらさっぱり分からず目を回す。気付いた給仕が、微笑みながら続けた。
「シャリーテンプルは、ザクロの果汁とジンジャーエール、レモンを使った甘くさっぱりした味わいとなっております。モクテル・モヒートは、ミント、ライムジュース、ソーダを使った爽やかな味わいでございます」
「珊瑚君は甘くてさっぱりと爽やかなのどっちがいい?」
「甘くてさっぱりがいいです」
顔を上げた珊瑚がしっかり答えた。その様子に柔らかな表情を浮かべた陽一と、微笑みを湛えたままの給仕が視線を合わせる。
「かしこまりました。シャリーテンプルをお持ちします」
「僕も同じものを」
「かしこまりました」
「じゃあ、私はモクテル・モヒートにするよ」
「はい、かしこまりました」
食後の飲み物はすんなり紅茶に決まり、給仕がメニューを回収して静かに退室した。
「西野さん、ワインじゃなくて良かったんですか?」
「ああ。私は浮かれていい身分じゃないよ」
西野は肩を落としてため息を吐いた。
食前の飲み物が運ばれ、他愛ない話をしながら前菜を待つ。珊瑚の目の前には、氷の入ったグラスが置かれていた。それは赤く透き通り、クルクルとらせん状に剥かれたレモンが入っている。じっくり眺めてから一口飲めば、炭酸の刺激と初めて飲む味わいに珊瑚は目を瞬いた。
「アミューズは、燻製サーモンのムースとハーブクリームのカナッペと、トリュフ香るチーズグジェールでございます」
給仕がメニューの説明をしながら配膳する。
珊瑚は何がなんだか分からず、料理の名前はさっぱり覚えられそうもない。丸いクラッカーの上に白いクリームが載せられ、その上にあるのはサーモンなのだろう。もう一つは小さなシュークリームのようだが、半分に切られており、こちらも白いペーストが載せられている。
二人の様子を窺うと、手で摘まんでいるので珊瑚もそれに倣って口に運んだ。
クラッカーの方はカリッとした食感で、上に載っているサーモンとムースのクリーミーさとよく合う。サーモンは味わったことのない、いい香りがする。焼き鮭とは全くの別物だ。サーモンの風味とハーブの爽やかな香りが絶妙だった。
「珊瑚君、どう? 気に入った?」
陽一に尋ねられた珊瑚は、「はいっ」と興奮気味に答えた。
一方の小さなシュークリームの方は、外側はカリッと、中はふわっとした食感で、チーズの塩気と旨味が濃厚に口の中で広がる。ほのかに土っぽい香りが混じり、珊瑚は眉を顰めた。
「こっちは微妙だったかな?」
「えっ、いえ、おいしいですっ」
そう答える珊瑚に陽一と西野は顔を合わせて、小さく噴き出した。
「神崎さん、トリュフは好き嫌いがあるし、初めて食べた時は私も微妙だと思ったよ。だから、正直に言って大丈夫」
「そうだよ、珊瑚君。実は僕もそんなに好きじゃないんだよね」
珊瑚は正直に、初めての味に戸惑ったことを伝えた。二人は納得したように頷き、珊瑚はほっと胸をなでおろす。
次に給仕が運んできたのは、前菜だ。
「帆立のカルパッチョ 柑橘のヴィネグレットソースと、鴨のローストとイチジクのサラダ バルサミコソースでございます」
今度も給仕は料理の配膳を終えてから説明をして立ち去った。そのとき、小さな皿を珊瑚と陽一の間に二つ置いていく。
珊瑚は魚料理を選択したので、前菜はホタテのカルパッチョだ。一方陽一と西野の前には鴨とイチジクのサラダが置かれている。
「珊瑚君、折角だからお互いのを少しずつ分けて食べてみる?」
陽一に聞かれた珊瑚は、間に置かれた小皿を見て尋ねた。
「お行儀悪くありませんか?」
「大丈夫だよ、僕達しか居ないし。個室じゃなかったら出来ないけどね。お皿を置いてくれたのはそういう意味だと思うよ?」
「ああ、私も別に個室でまで堅苦しいマナーは気にしない。神崎さんは、初めて食べるものもあるだろう? 気にせず楽しんでほしい」
二人の言葉に珊瑚は頬を緩めた。早速まだ口を付けていない箸で、自分の皿から料理を小皿に盛り付ける。にこりと笑って陽一に差し出すと、陽一も同じように、しかし不器用に盛り付けて珊瑚に渡した。
「ごめん、僕は料理のセンスもないけど、盛り付けもダメみたいだ」
「ふふっ。おいしそうです。ありがとうございます」
二人を見る西野も笑みを浮かべる。さっきまでの気まずさも、一旦は忘れたようだ。
「あっ、西野さんの分が!」
西野に取り分ける皿が無い事に気付いた珊瑚が焦ってテーブルを見回した。西野は笑い声を立てて答える。
「神崎さん、大丈夫だよ。私は年に何度か来てるから、その前菜も以前食べた事があるんだ。私のことは気にせず、食事を楽しんでくれ」
年に何度もこんな豪華なところに来られるとは。やはり西野は神殿の雑用などではなく、それなりの役職なのだなと珊瑚は頷いた。
前菜の次は、スープが運ばれてきた。本日のスープはヴィシソワーズだ。珊瑚は普段肉じゃがやカレーに使うじゃがいもと玉ねぎが、こんなにまろやかにコクのあるスープになるとは想像もつかなかった。
いよいよメインが運ばれて来る。
「真鯛のポワレ 白ワインソースとサフランリゾット添えと、牛フィレ肉のグリル 赤ワインソースでございます」
珊瑚の前には真鯛のポワレが、陽一と西野の前には牛フィレ肉が置かれた。珊瑚が真鯛とリゾットを取り分け、陽一がナイフで切り分けた牛フィレ肉を載せてくれる。
ここで珊瑚は首を捻った。リゾットとは何だろう。おじやの変わり種だろうか。見た目は黄色いおじやの上に真鯛が乗っていて、その上には緑や赤の香草が散っている。
不思議に思いながら口に入れた珊瑚は、驚きで口元に手を当てた。真鯛は外はサクッと香ばしいが中はふっくらと柔らかい。おじやのようなだと思った物は全く予想外の味で、ほんのり苦味がありつつもクリーミーで、真鯛との相性が抜群だ。リゾットはおじやと味が違うのはもちろん、しっかりとした食感が残っている。口の中で広がる初めての香りが、真鯛の淡泊な旨味とよく調和している。
「珊瑚君は、メインも気に入ったみたいだね?」
陽一に問いかけられた珊瑚は、コクコクと頷き答えた。
「はい。変わったおじやだと思っていたら、全く違いました。初めての香りと食感でとても新鮮です。美味しいですっ」
西野も陽一同様、頬を緩めて珊瑚の様子を見つめた。
二人の様子を気に留める暇もなく、珊瑚は牛フィレ肉に箸を伸ばす。
しっとりとした柔らかさの肉は、噛めば噛むほど旨味が口の中に広がった。濃厚で少しの苦みと酸味のあるソースが肉の旨味を引き立てる。
「こちらのお肉もとってもおいしいです! こんなお肉、初めて食べました」
裕福な家で育ったはずの珊瑚は、本来なら食べていてもおかしくない食材だった。しかし、珊瑚の為に準備される食材は最低限だ。母だけなら豪華な食事だったのだろうが、母は珊瑚と共に同じ食事をしていた。使えるお金はあっても、家事がそこまで得意でない母は、特別な料理を作る事など思いつきもしなかっただろう。そもそも田舎のあの町では、こんな食材が手に入る訳もなかったが。
母が料理人に頼めば贅沢な食事も可能だったかもしれない。しかし、母は珊瑚が一人になった時、そんな暮らしに慣れていては生き辛いだろうとの考えもあったはずだ。今思い返せばそうだったのだろうと思う。けれど今日は特別だ。一生に一度くらいこんな贅沢をしても許されるはずだと言い聞かせ、目の前の料理を堪能した。
メインが終わると最後にデザートと食後の飲み物が運ばれてくる。
「ピスタチオのクレームブリュレ・ベリーソースと、自家製マカロンとミニガトーショコラでございます。お好きな方をお選びください」
給仕がデザートを載せた銀のプレートをよく見える位置に持ちながら珊瑚に尋ねた。
見たことも食べたこともないので、味の想像が全く付かない。クレームブリュレは上に焦げ目がついていて、ベリーソースが見当たらない。マカロンとガトーショコラは見るからにチョコレートとクリームで、何となく想像出来るように思うが、先ほどのリゾットの例もあるので興味が湧く。
どちらも捨てがたく、悩んだ珊瑚はマカロンとミニガトーショコラを選んだ。西野も同じ物を選び、陽一はピスタチオのクレームブリュレを選んだ。
給仕が紅茶を淹れて、静かに退室する。
珊瑚はわくわくしながらガトーショコラにフォークを入れようとした所で、陽一に声を掛けられた。
「珊瑚君、まだ口を付けてないから一口先に食べてみる?」
そう言って差し出したのは、陽一が選んだピスタチオのクレームブリュレだ。もしかしなくとも、珊瑚に味見させる為に違う方を選んだのだろう。
珊瑚は思わず満面の笑みで「いいんですか?」と答える。返事を聞くまでもなく食べるつもりだ。差し出された皿を引き寄せ、はっとして自分の皿を陽一の方へ寄せる。
「先生も良かったら先に一口どうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えていただきます」
「いただきますっ!」
答えた珊瑚は、さっそくクレームブリュレにスプーンを軽く入れ、パリッとした感覚に目を丸くした。更にスプーンを差し入れて、再び驚きが訪れる。見当たらなかったベリーソースは、焦げ目の下に隠れていた。いくつかの層を一緒に掬って口へ運ぶ。滑らかで濃厚なクリームと、ナッツに似た香ばしさが口に広がった。パリッとした表面はほろ苦さがあり、程よいアクセントになっている。酸味が強めのベリーソースは、甘いクリームとの相性が抜群だ。
あまりの美味しさに頬に手を当ててため息を吐く。
「気に入ったみたいだね。よかったら全部食べてもいいよ?」
「い、いえっ。先生も是非食べてみてくださいっ! とっても美味しいですから!」
目を爛々と輝かせた珊瑚は、皿を両手で持って陽一へと差し出した。行儀が悪いが、珊瑚はそんな事をすっかり忘れている。そもそも、こういった食事に慣れておらず、最近陽一に洋食店でのマナーを教わったばかりで、まだ身についている訳ではない。
そんな珊瑚に頬を緩めた陽一は、「ありがとう」と皿を受け取ると、珊瑚の皿と交換した。
「こっちもすごく美味しかったよ」
その言葉に珊瑚の期待が膨らむ。
ガトーショコラはしっとりとして濃厚なケーキだった。口の中でゆっくり蕩ける食感に目を細める。ただのチョコレートケーキではなかった。カカオの香りが普通のケーキよりずっと深く、甘すぎず程よいからいくらでも食べられそうだ。上に乗せられたマカロンは、外側がサクッと、中はしっとりしている。中のクリームはバニラで、甘くてこちらも濃厚だ。ほろ苦いガトーショコラと交互に口に運べば、手が止まらなくなりそうだ。
全ての料理を堪能して満足感に浸る珊瑚を、陽一と西野も満足そうに眺めていた。
明日は3話投稿になります。




