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5-1

「雅さんっ」


 涼介の声に、本を読んでいた女が顔を上げた。グレーの上品なワンピースは軽やかなウール素材で、膝下まで流れるように広がっている。腰の白いベルトが、その細さを引き立てていた。

 

 待ち合わせ場所は大学病院のロビーで、どうやら彼女が件の人物のようだ。


「ああ、涼介」


 本を読んでいる時には凛とした佇まいだった女は、涼介に気付くと淡く微笑んだ。


「待たせて悪い」

「大丈夫よ、本が面白くてあっという間だったから」


 女の元へと辿り着いた三人は、それぞれ挨拶を交わした。


「初めまして、平良陽一です」

「は、初めましてっ。か、神崎珊瑚と申します」

 

 初対面の人に対しては緊張が増して、珊瑚は眼鏡を何度も弄る。二人の顔を交互に見た女が口を開いた。


「初めまして。柴村雅です。この病院の医師をしています」

「陽一は前に話した俺の親友で、弘樹さんの甥だ。珊瑚ちゃんは陽一の有能な助手で患者だ」

「そう。あなたが平良先生の……」


 そこで雅は少し間を空けてから続ける。


「私と会った後に平良先生が行方不明だって聞いて。私のせいだったらと思うと申し訳なくて」

「いいえ、柴村さんの事がきっかけかどうかも分かりませんし、柴村さんのせいって事は無いですよ」

「そうかしら。そうだったらいいのだけど」


 そう答えた雅の顔は浮かない様子だ。


「まあ、ここじゃなんだから、落ち着いて話せる場所に移動しようぜ」


 涼介の声に、ここがロビーであった事を思い出す。四人はそのまま空いている一室へと移動した。前もって涼介が使用許可を得ていたそうで、休日のこの時間は誰も来ないらしい。


「まず、弘樹さんを雅さんに会わせた理由から話すぞ」

「頼むよ」


 涼介の言葉に陽一はしっかりと頷く。珊瑚は喉を鳴らして、膝の上に置いた手を握り締めた。


「医師免許を取ってから、お前は弘樹さんの診療所へ、俺は大学病院へ進んだだろ。今、雅さんは俺の指導医なんだ」

「そうなのか。そう言えば、臨床実習でお世話になったような」

「あら、そうだった? ごめんなさい、私の方は記憶になくて……」

「いいえ、僕も今思い出した所です。実習の学生は沢山居ますからね」


陽一は何かを思い出すように、頷きながら答えた。


「それで、実は雅さんは前からの知り合いでな。だからこそ気付いたんだが、ある時から様子がおかしかったんだ」

「おかしいって?」


 聞かれた涼介は、苦い顔をして黙り込んだ。


「ここからは私が話すわね」


 沈黙を破った雅が続きを引き受ける。


「そうね、まずは少し昔の話から簡単に話すわ」


 雅が静かに語り始めた。


 雅は学生時代からの恋人がおり、いつか結婚しようと約束するような仲だった。相手は同じ医学生で、同志でもあった。

 

 ところが、二人が医師免許を取得した二十四歳の時、恋人が病を発症した。それは進行性のもので、恋人は医師の道を諦めるより他なかった。そして、雅が勤める大学病院に入院する事になった。


 その人は、涼介にとっては近所に住む兄のような存在で、幼い頃から可愛がってもらっていた。その関係で病院へ見舞いに行った時、涼介と雅は知り合っていた。

 

 雅は仕事の合間に許される限りの時間を恋人と過ごした。最初の内は悩みを打ち明けては患者側の視点を聞かされたりと、それなりに楽しい時間を過ごしていた。

 

 しかし、病が進行していくにつれて、雅は恋人と一緒に居ない時間を不安に感じるようになる。自分が居ない時間に苦しんでいないだろうか、あとどれくらいの時間を笑って共に過ごせるのだろうか。そんな考えがいつも頭を占めて、不安で不安で仕方なかった。

 

 優秀な女医と言われたのは、兎に角知識を詰め込み、技術を磨く事にひたすら時間を費やしていたからだ。そうしなければ恋人と離れて過ごす時間は不安で圧し潰されそうだったから。


 そんな不安な日を過ごしていたある日、重大な決断を迫られる事になる。


「彼が入院してから十年が経って、病気がかなり進んでしまって。もうあとどれくらいもつか分からない状態だった」


 そう言って俯いた雅はテーブルに肘をついた。両手を顔の前で握りしめて目を瞑る。その手はかすかに震えていた。


「その日、彼の容体が急変したって知らせを受けて、急いで病室に向かっていたの。でも、急患を知らせるアラームが鳴って」


 この病院の医師は、広い館内のどこに居ても急患を知らせる魔道具を持っている。アラームで呼び出された医師は、必ず急患の処置に向かわなければならない仕組みだ。


「彼の所に行きたかった。不安で不安でたまらなくて。だけど、急患を放っておく事も出来ない」


 雅は青ざめたままで、握る両手は真っ白になっている。


「運び込まれた患者は、事故で内臓の損傷が激しくて、その日は私じゃなければ手術不可能な状態だった。だから、医師として急患を選んだ」


 みな口を閉ざし、雅の様子を見守った。雅は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。それから握りしめた両手を机にそっと降ろした。震えは止まっておらず、指先も白いままだ。


「無事手術は成功したけど、私は不安で心臓が壊れてしまいそうなほどだった。急いで彼の部屋に向かったけど」


 そこで一旦言葉を区切ると、両手で顔を覆った。


「彼の意識はもう無かった。私が不安な気持ちのまま彼の枕元に辿り着いた時、息を引き取ったの」


 顔を覆ったままの雅は、大きくため息をつく。それと同時にその場の空気が酷く重くなった。


「ここからは俺が話す」

 

 そう言って涼介が続きを引き受ける。


 恋人を失う前の雅は、兎に角仕事に没頭していて張りつめていた。周囲の人間から見ると、大きな不安を常に抱えていた事にまでは気付かなかったが。

 

 それが、恋人を失ってから急に緊張が解けた。しかし、誰もがそれは大きな喪失感のせいだろうと考えていたし、雅自身もそうだった。

 

 しかし、涼介から見た雅には違和感があり、半年過ぎても変わらなかった。一年近く経って、次第に涼介以外にも違和感を持つ者が出てきて、やはり雅はどこかおかしいのだと確信した。


 以前の雅は患者に寄り添い、医師としての範疇を逸脱しない程度に適度に親身だった。それがあの日以来、患者に対してやけに冷静な対応をするようになった。病気の進行に対して抱く不安の相談には、以前と違って表情を変えない。家族が不安に思い相談をしても、会話が微妙に嚙み合わない。

 

 次第に患者やその家族から、雅の対応が冷たくなったと声があがるようになった。


「私自身もおかしいと思い始めたの。以前は夜一人になると、胸が締め付けられるような不安を感じた。それがあの日から、何故か一人を不安だと思わなくなった。もちろん、彼が居なくて悲しいし寂しいわ。でも、彼を思い出しても、あの頃抱えていたはずの不安な気持ちが、どうしても思い出せない。心の一部が彼と一緒に抜け落ちて、ぽっかり穴が空いてしまったみたいに失ってしまった」


 顔を上げた雅は続ける。


「それに、今まで私は手術前に不安を抱くのが普通だった」

「先生ほど優秀な方でもそういう物ですか」


 陽一のその言葉に雅は自嘲するような笑みを浮かべた。


「私が優秀な女医だなんて呼ばれるのは、それだけ知識と技術を磨く努力を積み上げたからよ。さっきも言った通り、恋人の事で不安だったから余計に没頭しただけなの」


 そこで言葉を切った雅は、一転深刻そうな顔をして続ける。


「手術の前はいつも不安だった。でも、患者さんにその不安を感じさせちゃいけないし、手術も成功させなきゃならない。その不安を払拭する為に毎回術前の準備を怠らず、最悪の事態にも対応出来るようにしてきただけよ」


「でも」そう続けようとした雅は、自分の両掌を見つめて握りしめる。


「彼を失ってから、どんな手術にも不安を覚えなくなった。それが怖くてたまらないの。初めての術式でも不安がない。それは自信があるからじゃないわ。不安を感じそうになると、突然胸の中が空虚になる。不安を感じない事がとても怖いのよ。このまま自分は医師として患者に向き合ってもいいのか、わからなくなるの」


 場の空気が重くなり、沈黙が流れた。その重い空気の中で、珊瑚は勇気を振り絞って声を上げる。


「あ、あのっ、し、柴村先生っ」


 注目が集まったことで落ち着かない気持ちが大きくなった珊瑚は、カチャカチャと眼鏡を弄りながら、少し早口で続けた。


「わ、私の個人的な思いですけど。わ私ならっ、柴村先生のような方に診て欲しいって思います」


 その言葉に雅は首を傾げて「どうして?」と不思議そうな顔をする。珊瑚は息をゆっくり吐きだして、眼鏡をしっかり直しながら答えた。


「し、柴村先生がそんな風に思うのは、患者さんの事をちゃんと考えてるからですよね。た、ただ手術が成功すればいいとかじゃなくて、患者さんの気持ちも大事にしてるってことです。私なら、そんな風に自分の事で悩んでくれる先生に診て欲しいです」

 

 その言葉に雅は少し驚いた顔をし、陽一と涼介は柔らかく笑った。珊瑚は恥ずかしさに顔を赤らめて、うつむき加減で眼鏡を直す。


 これは雅に対する気持ちだけでは無く、感情を失って以来悩んでいるであろう陽一に対しての言葉でもある。それが陽一と涼介には伝わったようで、何とも気恥ずかしくなった。


「俺もそう思うよ。雅さんみたいに優秀な医者が居なくなったら、大きな痛手だし。一つくらい弱点があってもいいと思うしな。それに、打ち明けて貰えたから俺だってフォロー出来るし」

「ふふっ。まだ二年目の研修医にフォローされるようじゃ、患者さんに心配されちゃうわね」

 

 そう言って軽やかに笑う雅は、先ほどより幾分気持ちが軽くなったように見える。


「ところで、次の手術って肘の靱帯再建手術だったっけ?」

「ええ、そうよ」

「具体的にどんな風にするのか、せっかくだから陽一にも説明してやってよ」


 そう言うと、涼介はふっと笑って珊瑚の腕を指し示し、「これ見本に使ってくれ」と雅に頼んだ。一瞬驚きに肩を跳ねさせた珊瑚だが、その意図に気付くと素直に腕を差し出した。

 

 雅は珊瑚の着物の袖をまくり、腕を見つめて説明を始める。


「まず、この内側の靭帯、内側側副靭帯と言われる部分ね」


 雅は珊瑚の腕をなぞりながら続ける。


「この靭帯は肘を安定させるのに重要ね。まずは触診でこの部分を押してみる」


 そう言いながら珊瑚の肘の内側を押すが、当然珊瑚に異常はない。


「正常なら今の彼女のように痛みは無いわ。次に、少し捻りを加えてみるわね」


 そう言って珊瑚の腕を外向きに捻る。


「この動作で痛みが出るようなら、内側側副靱帯の損傷が疑われるわね」


 陽一が興味深そうに質問を投げかける。


「患者さんは靭帯の再建が必要な程の損傷なんですよね? どのような手術をするんですか?」


 その言葉に雅が頷き説明を続ける。


「この術式はまだこの国に入ってきたばかりの物だから、当然私も初めてなのよ」


 そう言いながら珊瑚の肘の内側を指でなぞり、その腕をじっと見つめた。


「まずはこの部分を切開して、別の部位から切り取った組織を移植するの。今回持ってくるのは膝の腱ね」

「そんな手術が可能なんですか?」


 陽一は本来の目的を忘れたかのように真剣な表情で質問している。


「まだこの国での成功例は無いわ。初めて行われるのだから」


 珊瑚の肘をそっと撫でながら雅が答える。


「その術式は、成功率ってどうなんだ?」

「海外での成功率は七割ほどね。でも一般的なデータに過ぎないし、技術力によっても大きく変わるわ。私も初めてだから……確かなことは言えない」

「失敗した場合はどうなるんですか?」

「そうね、例えば正確な位置に腱を配置出来なかったり、移植した腱が上手く固定されなければまた靭帯が切れる可能性もあるわね」


 雅は珊瑚の腕を手で包み込むようにしながら、続けて言う。


「リハビリも非常に重要で、疎かにすれば元のように肘が使えなくなる事もあるわ」


 部屋の中がしんと静まり返った。考え込むように黙り込んでいた陽一が大きく息を吐きだして口を開く。


「なるほど。大変な手術ですね。勉強になります。術後、もしよければまた話を聞かせてください」

「ええ、もちろん」


 雅はしっかりと頷いた。そこにはやはり不安そうな様子は見えなかった。


「そういえば雅さん、弘樹さんに魔石の事を何か聞かれなかった?」

「え? ああ、そう言えば聞かれたわね」

「どういう話をしたのか教えて頂けますか?」

「ええ」


 恋人の病状が悪化し、不安が増している頃の話だ。どこから手に入れたのか分からないが、恋人が魔石を使ったネックレスを雅に手渡した。口にはしないが、結婚は恐らく出来ない。それでも自分を支えてくれる雅が、自分の居なくなった後も幸せになれるようにと願いを込めた物だと言う。その魔石には、心の安定を齎す効果が付与されているのだと恋人が言っていた。いつも不安を抱える雅を思っての物だった。


「あ、あのっ、その魔石はマラカイトでしたか?」


 珊瑚は前のめりになって雅に尋ねる。


「マラカイト? いいえ、違うわ。アメジストよ」


「えっ?」と陽一と珊瑚が同時に声を上げた。


「その魔石は今どこに?」


 陽一が尋ねると、雅は首を横に振る。


「彼が亡くなってしばらく夢の中で暮らしてるような感覚だったのだけど、その間に魔石だけ失くしてしまったみたい」


 雅は肩を落としてため息を吐く。襟元からそっと取り出した石の無いペンダントを首から外した。

 

 陽一が受け取り確認するが、石が無い以外に変わった様子はなさそうだ。次に珊瑚が受け取り、角度を変えながらじっくり眺める。最後に石のあった部分に触れてみるが、ぽっかり空いた穴は冷たいばかりで、他には何も感じられなかった。


「なんだか不思議な石だった。彼が亡くなった時、一瞬光ったように見えて。彼の魂と一緒に何かが吸い込まれてしまったように感じたわ」


 その言葉に、三人は息を呑んだ。

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