4-5
書類を一枚一枚食い入るように読み込んでいた陽一は、最後の一枚を読み終えて溜息を吐いた。珊瑚は書類の中身が気になったが、鍵まで掛けて仕舞ってあったのだ。尋ねるのも躊躇われて、陽一の様子を見ていることしかできなかった。
「ああ、珊瑚君。待たせてしまってごめんね。これ、良かったら読んでみて」
「わ、私が読んでもいいのでしょうか」
「うん。珊瑚君にも一緒に見て欲しい」
「はい」
手渡された書類を持つ手が緊張でわずかに震える。手に汗が滲み、気になるが読むのが怖い気もする。大きく息を吸い込み、吐き出してから読み始めた。
そこに書かれて居たのは、陽一の感情が失われた事に関する弘樹の考察や、関連のありそうな事柄についてだった。
一枚目の弘樹の考察らしきものは、何度も修正した痕跡が見られる。なぜ亜真音がカメオを陽一に渡したのか、なぜ自傷したのか、なぜ感情が失われたのか。弘樹も完全な答えには辿り着いていなかったが、仮説を立てて検証していたようだ。
二枚目以降には、感情が失われたのではないかと思われる人の症例や噂などが書かれていた。その相手を訪ねて、実際どのような状態なのか丁寧に聞いて回っていたようだ。
最後の一枚には魔石についての記述がある。魔石の文字を見て、珊瑚の心臓がどくんと嫌な音を立てた。
感情を失ったと思われる人たちは、弘樹が調べただけで十数人だ。その中で条件が近いと弘樹が考えていたのは五件となっており、印がつけられている。共通点は、正負問わず強い感情を抱いた事、その時に相手が命を失う事、そのきっかけとなる事柄の少し前に魔石を手に入れている事だった。
陽一の件との相違点として、相手の命が失われていない事と、感情の全てなのか一部であるかという点、更に魔石が手元に残っていることが挙げられている。
魔石はすべて命を落とした者が入手しているので、その手掛かりはない。また、魔石はみないつの間にか失くしていて、未だに見つかっていない。
珊瑚は魔石の文字に嫌な予感がしてたまらない。これを読んだ後では、益々あの魔石のことを話すのが怖くなる。顔から血の気が引き、指先が氷のように冷たい。
「まさかここまで調べてたとはね…。珊瑚君、大丈夫?」
突然声をかけられた珊瑚は、びくりと肩を震わせ、何も言えずに動きを止めた。陽一の顔も見られず、頭の中は真っ白だ。
「驚かせちゃったかな。顔色も悪いし、とにかく一旦座って落ち着こう」
陽一は珊瑚から書類を受け取り、椅子を勧めた。カモミールティーを淹れると、部屋にふわりと優しく甘い香りが漂う。
陽一は珊瑚の前にティーカップを置きながら、「よかったら飲んで」と声を掛けた。
珊瑚は益々罪悪感に駆られる。言わなくてはならないと思うのに、言いたくないという気持ちが重く心に伸し掛かる。震える手でカップを持ちながら、その温かさにほっとする。これを失いたくないのだという強い気持ちに、罪悪感で胸が締め付けられた。
「これを読んで思ったんだけど、叔父さんはきっと最後に涼介が会わせた人の所で何か手掛かりを見つけたんじゃないかな」
「そ、そうなのでしょうか」
「きっとそうだと思う。西野さんの持ってた魔石も、関係あるんじゃないかな」
珊瑚は更に顔色を失くして深く俯いた。西野の持っていた魔石は、弘樹が鑑定依頼した物だ。あの魔石が似た症例との共通点であるなら、陽一の魔石も含めて全てが珊瑚の父親へと繋がるという事だろう。そしてそれは、珊瑚の目に埋められた魔石にもきっと関係している。
(もう、覚悟を決めよう。先生がどう思うか、これからどうなるのか想像もつかない。怖くて怖くてたまらないけど、もう自分のことばっかり考えるのはやめよう)
より一層青ざめた顔で陽一を見上げた珊瑚は、膝の上で握りしめた拳に力を籠め、ようやく覚悟を決めて口を開く。
「先生。西野さんの魔石の事でお話したい事が……」
言いかけた所で、騒がしく診療所の扉を開き、ドタバタと走る足音が聞こえてきた。何事かと陽一と珊瑚が扉を振り返ると、「陽一っ!」と大きな声を出しながら部屋の扉を開けたのは、涼介だった。
「涼介、そんなに慌ててどうしたんだ? もしかして叔父さんの事でなにか?」
息を切らしながら涼介が答える。
「あ、ああ。お前、ちょっと前に西野さんに会ったらしいな」
「うん。叔父さんが鑑定依頼した魔石を持ってたところに会ったよ」
「そ、その魔石が、盗まれたそうだ」
「え? あの後また盗まれたってこと?」
珊瑚と陽一は顔を見合わせ、目を瞬いた。
「そうだ。神殿に保管されてたにも関わらず、忽然と消えた」
「なんで涼介がその事を知ってるんだ?」
「弘樹さんの足取りを追ってたら、俺が会わせた人と別れて、西野さんの所に行ったみたいだったから。事情を聞きに行ってきたんだ」
「涼介は西野さんが持ってた魔石が無くなって、なんで焦るんだ?」
そこで涼介は一瞬答えに詰まる。
「いや、これは弘樹さんとの約束で……」
じっと涼介を見つめる陽一は、ため息をついて先ほどの書類を涼介に渡した。
「お前、この事知ってたんだな?」
涼介を見据える陽一の目は一瞬揺らいで、すぐにいつもの静かなものに戻る。
「すまん、陽一。俺は弘樹さんと一緒にお前の失われた感情について調べてた」
「なんで二人とも僕には内緒で?」
「俺も弘樹さんも、お前に話す時は、元に戻るかも知れないって可能性が出てからにしようと決めてたんだ」
「僕自身の事なのに?」
「そうだけど。……お前がずっと医者になっていいのか、医者で居ていいのか、悩んでた事は俺も弘樹さんもわかってたからな」
その言葉を聞いて、珊瑚はずんと胸が重くなる。そんな風に思わせてしまった原因は、恐らく珊瑚の父親だ。しかも珊瑚自身はそれに繋がっているのだろうから。
「心配してくれてたんだろうけどね。十八の頃ならまだ分かるけど、今はもう立派な大人だよ。流石に僕にも話して欲しかった。それに叔父さんが何か調べてるのは、薄々気付いてたしね」
「悪かった。俺も弘樹さんも、あの直後から調べ始めたんだが。そのまま話すきっかけが掴めなくなっちまったんだ」
ふうと息を吐いた陽一は「わかった、僕も悪かったよ」と答える。気まずそうに頭を掻きながら、涼介が続けた。
「それで、俺が弘樹さんに会わせた人が居るって言っただろ?」
「ああ、この間言ってた人か」
「そうだ。大学病院の女医なんだが、この資料の症例に似てるような気がして弘樹さんに話したんだ」
「やっぱりそうなのか。さっきそれを見つけて、珊瑚君にそうじゃないかって話してたところだよ」
「そうか。これを見たなら想像がついちまったよな」
「お前、今まで俺に内緒にしてたのに、これを見つけてなかったらどう話すつもりだったんだ?」
「流石にもう全部話すつもりだったさ」
きまり悪そうに涼介が答えた。しかしきっと嘘ではないだろう。珊瑚に触れて流れてくる気持ちは、いつも嘘がない。
ちらりと部屋の時計を見てから、涼介が続けた。
「それで、もし時間があれば今からその人に会って話を聞いてみないか?」
「今から?」
「ああ。今日はもう少ししたら時間が取れるそうだ。話はもう通してある」
陽一は腕を組んで悩むポーズをしながら、珊瑚に問いかける。
「珊瑚君はさっき何か言いかけてたよね?」
珊瑚はぱっと顔を上げて口籠る。
「後でゆっくり聞く事にして、まずは件の女性に会いに行くって事でいいかな?」
「は、はい」
また首の皮一枚繋がってしまった事に、珊瑚の罪悪感が募る。涼介が「話の邪魔したみたいでごめんな」と言ってくるが、珊瑚は俯いたまま首を横に振った。
陽一と珊瑚が出掛ける準備を整えて、待合室で待機していた涼介と合流し、出発しようとしたその時。
ガンガンと頭に響く酷い頭痛が珊瑚を襲う。扉に向かって歩く二人はその様子に気付かず、話しながら出口に向かっている。珊瑚はあまりの酷い頭痛に吐き気も催し、立っていられない。無言のまま膝を付いて、その場にしゃがみ込んだ。
(痛い、気持ち悪い。いつも十二月頃に来るだけなのに、なんでこんな時期に……。痛い、気持ち悪い、どうしてっ)
「珊瑚君っ!」
「珊瑚ちゃん?」
珊瑚が崩れ落ちる音に気付いた二人が、慌てて振り向き駆け寄った。今までより一層強い頭痛に耐え切れず、ずれた眼鏡を戻そうとする手が震え上手く行かない。
そんな珊瑚の顔を見た涼介が息を飲む音が耳に届き、しまったと思うがどうする事も出来ない。
「珊瑚君、落ち着いて、ゆっくり息を吐いて」
いつの間にか止めていた息を、陽一の言葉で大きく吐き出した。空っぽの肺にゆっくりと息を吸い込む。陽一が震える珊瑚の手を握り、背中を擦る。しかし、いつもの様に頭痛がすぐには収まらない。それでも最初よりは大分楽になったように感じた。
(毎年来る頭痛より酷い。なんでだろう。怖い)
いつもと違う状態に、痛みと混乱で珊瑚の顔が紙のように白くなっていく。
「珊瑚君、いつもみたいに辛さは消えない?」
心配そうに覗き込む陽一の顔にはっとして、珊瑚がどうにか答えた。
「いいえ、大分楽になってます」
「そう。でも、いつもより辛そうだね」
「は、はい。なぜか分かりませんが、ここまで辛いのは初めてで」
「涼介、水を持ってきてくれ」
「えっ? あ、ああ、わかった」
そう言って、涼介は診察室へと駆け込んだ。その隙に陽一は珊瑚の耳元に囁きかける。
「ごめん、涼介にも目を見られてしまったみたいだ」
「そ、そうですよね。仕方ないです」
「今回は前以上に色が暗くなってたけど、濁りもあったし緑がかってたから……左右の違いに気付かれたと思う」
「は、はい」
「珊瑚君が話したくなければ僕が適当に誤魔化すけど」
「い、いいえ。大丈夫です。私から話します」
「だけど珊瑚君、他人に見られるのが怖いって……」
そう言い掛けた所で、バタバタと焦ったように涼介が戻ってきた。
「珊瑚ちゃん、水っ。飲めるか?」
そう言ってコップを差し出す涼介は、今は心配そうに覗き込んでくる。礼を言ってそれを受け取り、ゆっくり飲み下しながら珊瑚は思う。
(きっと大丈夫。先生が信頼してる人なんだから。それに、私の目を見たはずなのに、涼介さんも心配してくれてる。だから、きっとこの人も大丈夫)
「あ、あの、篠塚さん」
珊瑚が意を決して話そうとした所に陽一が声を被せる。
「珊瑚君、無理しなくていいんだ」
「で、でも、これから会う方の事情を考えれば、篠塚さんにも知っていて貰った方がいいと思うんです」
「それはそうだけど……」
「それに、篠塚さんは先生の親友なんですよね?」
「親友かどうかはさて置き、一応信用出来るやつだとは思ってるよ」
涼介が「親友じゃねえのかよ」と抗議の声を上げたので、珊瑚は思わずクスリと笑う。それから陽一の目をまっすぐに見て頷いた。
「私は先生を信じてます」
一拍置いた珊瑚は、涼介に視線を向けた。震えそうになる手を握り締めて、言葉を絞り出す。
「その先生が信用出来るって言うなら、私も篠塚さんを信用します」
「……」
「それに、篠塚さんは何だかんだ言って、私のことも気遣ってくれてるのが分かりましたから」
「まあ、珊瑚君がそう言うなら、本心で心配してるんだろうね」
「はい」
二人の様子を静かに見守る涼介へと顔を向けた珊瑚は、しっかり目線を合わせてかいつまんで事情を説明する。
父親に目を魔石に変えられた事、それ以来触れた人の感情が一定時間流れてくる事。母が失踪した事と、失踪前に弘樹を訪ねるように言い残していた事。全てを話し終えると涼介が難しい顔をして唸り声を上げた。
「なるほど、俄かには信じがたい話だな」
腕を組んでしばし沈黙する涼介を、珊瑚は緊張の面持ちで見つめる。視線を珊瑚に戻した涼介が、「だが」と続きを口にする。
「珊瑚ちゃんが陽一の感情が失われてる事を、当たり前に扱ってた事。俺に邪な気持ちは無いって言い当てた事。陽一がそれをすんなり信じてた事」
一つ一つ思い返すように言葉を並べて納得したように頷いた。
「全部辻褄が合うな」
そう言った涼介の声は冷静だが、そこに冷たさは感じない。
珊瑚はずっと握りしめていた拳の力が抜けず、涼介から向けられる視線がどう変化するのか考え、緊張が増してくる。
そんな珊瑚に視線を向けた涼介は、ずかずかと近付いてきて、徐に珊瑚の頭をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
「そんな顔するなって。知られたく無い時は、極力触れないようにすればいいだけだろ?」
そう言って屈託なく笑う涼介から流れ込むのは、優しく温かな感情だ。珊瑚は「大丈夫だ」と言われた様な気がした。その瞬間、握りしめた拳からふっと力が抜ける。
「篠塚さんっ! 髪がぐちゃぐちゃになっちゃったじゃないですかっ!」
そう言って怒るポーズをする珊瑚は、少し泣きそうになるが踏みとどまった。怒った振りのまま髪を直しに、待合室の鏡の前へと大股で向かう。そんな珊瑚の後ろ姿を、陽一と涼介が見送った。
「おい、陽一」
「ん?」
「お前、なんて顔してんだよ」
「え? なんか変な顔してる?」
「そうだな……やっと懐いた野良猫が、他所の家で飯食ってるのを見た時みたいな顔だ」
「ははっ、なんだよそれ」
笑いながら返した陽一は、無意識に視線が珊瑚の背中に向かう。しかし、珊瑚が振り向いた時、陽一の目には既に感情は無く、いつもの静かなものに戻っていた。
静かな目とは裏腹に、コートのポケットの中で握りしめられた手には、誰も――陽一さえも気付かなかった。




