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スケートの日からひと月程経ち、二月になった。毎日家事と診療所の仕事をこなして過ごし、魔石の話は結局出来ずに居る。陽一は珊瑚に休憩を取らせるため、お茶を淹れる回数が増えたが、いつも他愛ない話で終わってしまう。あれ以来カメオを見る事もなく、珊瑚は居心地のよさに甘えて日々を過ごしていた。
このままではいけないと思いつつも、やっと手に入れた夢のような生活を手放すのが、怖くてたまらなかった。
「珊瑚君、買い物へ行こうか」
いつも通りの週末、半日休診の午後はいつも通りの買い出しへ向かう。
「はい、お願いします」
ぺこりと頭を下げて、診療所を後にした。
週末の市場は年末ほどの喧騒は無いが、平日とは違い人出は多い。気を抜けば人にぶつかってしまうので、手を引いて貰うのも変わらない。
野菜や肉などを多めに買い、足りなければ週の半ばで買いに出る。診療所には冷蔵庫や冷凍庫もあるので、多めに買っても保存に問題はない。ただ、徒歩で持ち帰るには限度があるので、大抵週末多めに買うのだ。とは言え珊瑚が熱で寝込んで以来、陽一が珊瑚を外食へ連れ出す機会が増えたので必要な分量も多くはない。
重い荷物を抱えた陽一と小ぶりの荷物を持った珊瑚は、人通りを避けて帰路に着く。
何事もなく通り抜けるはずだった路地に、扉を乱暴に開ける音が大きく響いた。
「僕の人形を何だと思ってるんだっ。こんな粗悪品を売りつけて。二度と連絡してくるなっ!」
そう言って叩きつけるように扉を閉めた男は、振り向きざまに珊瑚とぶつかった。珊瑚は荷物を落として倒れ込み、激しい怒気に顔色を青くする。男は怒りのあまり珊瑚にぶつかったことすら気付かぬ様子で、手に持ったトランクの持ち手を握りしめて大股で去って行った。
久しぶりに感じる強い怒りの感情に頭が重くなり、珊瑚は震える手で眼鏡を抑えようとするが逆にずらしてしまう。陽一が珊瑚に駆け寄り触れると、怒りの感情は霧散する。しかし、今度は一瞬息を呑んだ陽一から、驚いたような感情が流れ込んで、すぐに消えた。
「せ、先生? どうかしたんですか?」
「あ、ああ、いや……珊瑚君は大丈夫? 怪我してない?」
「はい、少し手を地面に擦っただけです」
「見せて」
そう言って手を見せると、擦り剝けて少し血の滲む手に、陽一が顔をしかめる。診療所まではもうすぐなので、取り合えず簡単に手当てをして帰ることにした。
診療所で怪我の手当てを終えると、陽一が珊瑚の目をじっとのぞき込んでくる。
「先生、どうかしましたか?」
「……珊瑚君、前に光彩の色が変わったような気がしたって話したのを覚えてる?」
珊瑚は忠蔵に怒鳴られた翌日の診察を思い出す。確かに、光彩の色が変化したようだと陽一に言われていた。
「覚えていますが、それがどうかしたのでしょうか?」
「さっき男の人とぶつかったでしょ?」
「はい」
「あの後、眼鏡がずれて裸眼が見えたんだ」
珊瑚はずれていたという事実に一瞬慌てて眼鏡を弄るが、あの場に居たのは陽一だけなので大丈夫だと思い直す。
「その時の色が、普段と違って暗く濁った色になったんだ」
「え? い、今も色が違うのでしょうか?」
珊瑚が慌てて鏡を見ようと立ち上がるが、陽一は「落ち着いて」と再び座らせた。
「僕が触れて流れ込む感情が消えた時に、徐々に戻ったみたいだよ。今はいつもと同じ色になってる」
「そう、ですか……」
動揺に震えた指先で眼鏡の上から左目を覆った珊瑚は、青ざめて声は掠れている。
「驚かせてしまって、ごめんね」
「い、いいえ。大丈夫です。眼鏡のせいで色の変化に気付けないというのは盲点でした」
「そうだね。でも常に眼鏡を外して生活するのも困るしね」
「そ、そうですね。人に見られるのは怖いです」
「うん」
腕を組んでしばらく考えこんだ陽一に、珊瑚が躊躇いがちに口を開く。
「あ、あの」
「うん?」
「わ私が人混みで色々な人にぶつかって、気分が悪くなったら、先生に目を見て確かめて貰うのはどうでしょう?」
「何言ってるの珊瑚君、それはだめだよ」
「どうしてですか?」
「なんでわざわざ気分が悪くなるような事するの? 今日はたまたまぶつかっちゃったけど、あんな青ざめた顔見てられないよ」
珊瑚は俯いて黙ってしまう。すると陽一が突然、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「珊瑚君。いい事思いついた!」
「なんですか?」
「また一馬と出掛ける時に、一馬に触ってみよう」
「どういう事ですか?」
珊瑚は意味を図りかねて首を傾げる。
「あいつって感情が駄々洩れ……いや、感情豊かでしょう?」
「は、はい」
確かに一馬は分かりやすく、触れた時はいつも見たままの感情だ。
「次に来た時、一馬がはしゃいだり嬉しそうな時に触れてみよう」
珊瑚は傾げた首を更に傾げる。
「珊瑚君、なんで嫌な感情を受け取る事ばっかり考えるの? いい感情だって流れてくるんだから、その時の変化を見てもいいと思わない?」
珊瑚は、はっとする。今まで負の感情ばかり受け取って来たから、他人が正の感情がどうとか考えたこともなかった。
「そんな事、思い付きませんでした」
帝都に来てから、一馬や涼介、最近は陽一からも一瞬ではあるが、胸がぽっと温かくなるような気持ちを貰っていたのに。
「あいつは注意力散漫だから、多少珊瑚君の眼鏡がずれても気付かない。それに、僕は珊瑚君を見下ろせるから、目の色の変化を見やすいしね」
珊瑚はこくりと頷いた。陽一と過ごすと、今まで自分にはなかった視点に気付かされて驚くばかりだ。
「明日辺り春馬君の薬を取りに来るだろうから、その時に試そう」
楽し気に目を細める陽一に、珊瑚は笑顔で頷いて返した。
一馬は陽一の予想通り、翌日の休診日を狙って訪ねてきた。
「やあ、一馬君。良いところに来たね」
「いち君、こんにちは」
「よう、珊瑚。若先生は、なんか怖えよ」
不穏な空気を感じ取った一馬は、普段と違って及び腰だ。
「何だい、一馬君。いつも僕の発明品を楽しみに来てるのに、今日はどうしたのかな?」
「いつもと違って怖い。普段呼び捨ての癖に何かうさんくせぇ」
「なかなか鋭いな」
薬だけ受け取って帰ろうとする一馬を「珊瑚君と一緒に使ってもらうから大丈夫」と陽一が引き留めた。珊瑚と一緒ならと、渋々一馬は発明品の置かれた部屋へと向かう。
「今日試してもらうのは」
「え、試す? なんだよ、実験台なわけ?」
「ごほん。まあ、完成してるし危険な物じゃないから大丈夫」
「ほ、ほんとかよ、なんか信用ならねえな」
珊瑚は色々な意味の緊張で、少々顔色を悪くして立っている。
「大体、珊瑚が無言だしなんか冷や汗かいてねぇか?」
「だ、大丈夫です。ちょっと緊張してるだけです」
「二人とも、そんなに危険な物じゃないから大丈夫だよ」
そう言って苦笑する陽一が、いつも通り珍妙な箱を取り出した。
いつもより大がかりで、珊瑚と一馬は顔を見合わせた。パーツを組み合わせて腰ほどの高さの台に、腕と手首を置く窪みのある箱のようなものを二つ距離を取って乗せる。
「さあ、一馬、ここに腕を置こうか」
「え、なんかすげえ怖いんだけど」
「大丈夫だから、さっ」
ぶつぶつ言いながらも付き合いのいい一馬は、言われた通りに窪みへ腕を乗せた。
「この道具は、包帯を巻いたことの無い素人でも、簡単かつ綺麗に包帯が巻ける道具なんだっ!」
「私の包帯の巻き方は、不合格ですか?」
「いや、珊瑚君は既にうまく巻けるから、出番はないけどね」
「じゃあなんで実験なんかするんだよ」
「せっかく作ったし」
「……そうかよ」
色々と突っ込むのに疲れた一馬は、げんなりした顔で肩を落としている。
「ではセットするよ」
そう言うと、陽一は台の上に一馬の腕と手首の間にはまる位置で筒状の機械をセットする。
「この被せた筒の中には、回転する軸が付いてて、包帯をレールに沿って回転させる仕組みになってるんだ。更に、腕に当てたガーゼの位置を自動で検知して、前後にも動く」
「なるほど?」
珊瑚と一馬は、いまいち仕組みが理解出来ずに首を傾げた。
「珊瑚君は、一馬のガーゼが動かないように押さえてて」
「はい」
一馬は不安そうに珊瑚を見る。同時に表情そのままの感情が流れ込んできた。
なんだか無駄に大がかりで、手で巻けるように練習した方が明らかに早いのでは、と思うが二人とも口にはしない。
「よし、これで準備完了っ」
陽一は、一馬の腕に包帯の端を乗せて、珊瑚にガーゼと共に押さえるように促す。どう動くのか分からず珊瑚も緊張に喉を鳴らした。
陽一が珊瑚の様子を窺いながら、装置のスイッチを押す。かちっと音が鳴り、ゆっくり動き始めた。クルクルと回り始めたそれを見ながら、陽一が口を開く。
「まだ最初の位置とガーゼを押さえるのに、人の手が必要なんだよねぇ」
徐々に巻かれるスピードが速くなって行き、目で追うのも辛くなる。目が回りそうになって気付かなかったが、ガーゼと包帯を押さえた珊瑚の指も一緒にぐるぐる巻きだ。その様子を一馬も珊瑚も黙って凝視している。
「うーん、補助する人も一緒に巻き込んじゃうか」
なんとも邪気の無い陽一の笑顔に、珊瑚も一馬も無の境地で回り続ける包帯を見つめた。巻かれる包帯はスピードを緩める事なく、ぐるぐるぐるぐる動き続ける。一馬の腕はみるみるうちに、筒の余白が埋まりそうなほどの太さになっていた。
「そうだ、この子の名前を言ってなかった!」
既に大分厚みを増して、包帯と言うよりギプスのようになった腕を見つめる珊瑚と一馬は目が死んでいる。
「この子の名前は、『包帯ぐるぐる巻き巻き君』だよっ!」
「巻きすぎだろ――っ!」
「ぐるぐるにも程がありますっ!」
ほぼ同時に抗議の声を上げ、二人して早く止めるようにと促す。
「随分太くなっちゃったし、珊瑚君付きだね」
カチッとスイッチを切った陽一が不思議そうに首を傾げる。
「指を離すタイミングが難しいね?」
「そこじゃねえよっ」
「そこじゃありませんっ!」
またしても二人の声が重なった。怒ったポーズを取った所で間抜けな格好だ。二人は腕を見てから、顔を見合わせて思わず吹き出した。
「なんだよこれっ。ギプスから珊瑚が生えてるじゃねえか!」
「あははっ、本当ですね。これなら素人がぐるぐる巻いた方がマシですよ!」
陽一の発明品は相変わらず酷い出来だとひとしきり抗議した後、一馬が口を開く。
「とりあえず珊瑚の手を外そうぜ」
「そうですね。お互いに引っ張り合ってみますか?」
「うん。でも、痛かったらすぐ言えよ」
「わかりました」
「せーのっ」
二人で声を合わせて反対に向かって引っ張り合う。中々抜けずに焦るが、珊瑚は片手で巻き込まれた方の手首を持ちながら、力いっぱい踏ん張った。痛みでもうダメだと思った瞬間、すぽんと抜けて、お互い反対側へと倒れ込む。
「わっ」
「ぎゃっ」
「おっと」
珊瑚と一馬がそれぞれ声を上げるが、珊瑚は陽一に支えられて転ばずに済む。一方の一馬は勢い余って、派手な音を立てて棚に激突した。その拍子に、置かれていた本や箱などが辺りに散らばる。
「一馬、大丈夫かっ」
「いち君っ」
一馬は背中を気にしながらゆっくりと立ち上がった。
「俺は大丈夫。それより、何か落として壊したかも」
「それは気にしなくていい。それより背中を見せてみろ」
「ん。大丈夫だよ、若先生」
「いや、僕のせいでケガをさせたんじゃ、申し訳ないから」
「いや、でもさ」
そう言いながら珊瑚に視線を移す一馬に「珊瑚君は助手だから大丈夫だぞ?」と陽一が言うが、その言葉ではっとする。
「す、すみません、外で待ってますね」
年頃の少年は、さすがに背中を見せるのが気恥ずかしいのだろう。慌てて待合室に飛び出した珊瑚は、ふと自分の目が気になって鏡を見に行く。
どきどきと心臓の音が大きく鳴り、緊張の面持ちで眼鏡をはずして鏡をのぞき込んだ。そこに映ったのは、いつも通りの紅い目だった。その事に少しがっかりして眼鏡を掛け直す。
ガチャリと音がして部屋の扉が開き、陽一と一馬が出てきた。
「悪かったな、一馬。珊瑚君も危ない目にあわせちゃってごめんね」
「大丈夫だって、若先生。中々面白かったし」
「わ、私も楽しかったです」
「次はもうちょっと安全な実験にしよう」
「え、またやるのかよ」
懲りない様子の陽一に、珊瑚は思わず笑ってしまう。
一馬の背中は少し赤らむ程度だったが、一応湿布を渡して何かあったらすぐに来るよう言い含めて送り出した。
一馬が去ると、珊瑚は窺うように陽一を見上げた。
「せ、先生、どうでしたか?」
「うん。一馬と笑い合ってる時に流れてきたのは楽しいとか嬉しいって気持ちだった?」
「はい」
珊瑚は先ほど鏡を覗き込んだ時同様に心臓の音が耳に響き、両手をぎゅっと握りしめる。
「そういう気持ちが流れてくると、明るくキラキラして綺麗だったよ」
珊瑚は驚きに言葉を失う。
「やっぱり、流れてくる感情によって目の色が変化するみたいだね」
「そ、そうなのですね。今までずっと知りませんでした」
珊瑚は変わった色の目を誰にも見られたくないと思っていたし、母にも見せない様にしていたなと思う。母はこれを見れば悲しむだろうと思ったし、実際幼い頃は辛そうだったから。
陽一と過ごすうち眼鏡に触れる回数は格段に減り、多少ずれても気にしない時間も増えていた。先日男にぶつかった時も、以前の自分なら隙なくきっちり掛け直しただろう。帝都に着いたばかりの駅では、もっと辛かったのにしっかり直していたのだから。
そんな風に考え込んでいた珊瑚は、部屋の惨状を思い出してはっとする。
「せ、先生っ! お部屋を片付けなくてはっ」
「ああ、そうだね」
二人は元の部屋へと向かい、散らばった本を片付けていく。分類毎に並んでいたと教えてもらい、珊瑚も丁寧に汚れを払ってから本棚へ戻していった。
その中に、鍵のかかった箱があり、どこへ戻すべきか分からず陽一に尋ねた。
「先生、こちらの箱はどこに……」
言いかけた所で、壊れた鍵がカチャリと外れ、開いた箱から書類がパラパラと落ちていく。
「あ、す、すみません」
「大丈夫だよ。気にしないで」
そう言って書類を拾い始めた陽一は、数枚を手にしたまま動きを止めた。「先生?」と声をかけるが陽一の返事はない。
書類を持つ陽一の手に力が入り、くしゃりと音を立てる。目を見開き、真剣な様子で書類を読み進めるうちに、みるみる顔色が悪くなってきた。
珊瑚は何が書かれているのか気になったが、空気の重さに足が竦む。不安に胸がざわつき、それ以上声を掛ける事も出来なかった。




