4-2
静まり返った部屋の中は、誰も言葉を発せず重い空気が漂っていた。陽一が大きくため息を吐き、珊瑚はどんな言葉を掛ければいいのか分からず眼鏡を弄る。
「初詣の時に僕がおかしくなったのは、雪と赤い色がその場面と重なったからなんだ」
「わっ、私がホットベリーを零したせいで……」
「いや、珊瑚君のせいじゃないよ。なんでも自分のせいにしちゃダメだ」
珊瑚は俯きがちに小さく頷く。
「そ、その、幼馴染の方はその後……」
「うん、止血もうまくいったし色々重なって、何とか命は取り留めたよ」
「そう……ですか」
この言い方では無事とは言い難いのだろう。これ以上聞く事は何となく躊躇われて、珊瑚は口を噤む。
そんな二人の様子を黙って見ていた涼介が口を挟んだ。
「なあ、陽一。お前、そんなにおかしくなる程感情が揺さぶられたって事か?」
「どうだろう。一瞬何か湧き起こった感じはするけど、後は頭が混乱して気が遠くなってた感じかな」
「それでも、少しは何か感じるのか?」
陽一はしばらく考えてから答える。
「そう言えば、ここ最近……いつからか分からないけど、一瞬感情が湧き上がるような」
「なるほどな。さっき俺に対して随分怒るから違和感があったんだ」
「そうか?」
「ああ。今までのお前はもっと平坦で、何ていうか……。怒った素振りは見せても、もっと冷静だった気がするんだよな」
陽一は唸り声を上げながら腕を組んだ。
「あっ、あのっ」
「ん? どうしたの、珊瑚君」
「えと、せ、先生は今まで一瞬でも感情が湧く事は無かったのですか?」
「そうだね。……それが最近は、ほんの一瞬胸がざわつく感じかな」
陽一は組んでいた腕をほどき、顎に拳を当てた。
「陽一、お前無自覚っぽいけど、前よりよく笑うし怒るし、表情が大分豊かになったよ。今日は久々に顔を見て、本当に驚いた」
「そうかな?」
「ああ。珊瑚ちゃん、陽一っていつもこんな感じ?」
「えっ? あ、はい。いえ、怒ったところは見たことありませんが、よく笑いますね」
涼介は頷いて続ける。
「珊瑚ちゃんがきっかけかもな」
「えっ? わ、私ですか?」
「うん。陽一の変化は、弘樹さんの外出と君の登場以外にきっかけが思い当たらん」
珊瑚は特に何かした覚えもなく、不思議に思って首を傾げた。
「叔父さんが帰ってきたら相談してみるよ」
「それにしても、弘樹さんはまだ帰ってないのか?」
「ああ、それがなんの連絡もないんだ。どこへ行ったんだか」
陽一のその言葉に、今度は涼介がうなり声をあげる。
「涼介、お前何か知ってるのか?」
「もしかしたら、俺のせいかも知れん」
「どういう事だ?」
「弘樹さんに診てほしい人が居て、大学病院に来てもらったんだ」
「診てほしい人って?」
「そこは守秘義務ってやつで言えんが、その後からどこへ行ったか分からんようだからな」
確か陽一は、書置き一つでどこかへ行ったと言っていた。しかも、自分のせいだと言いかけていたなと思い出した珊瑚は、首をひねった。涼介の話しぶりでは、陽一には関係なさそうだ。
「心当たりを探してみるよ。何かあったらまた連絡する」
「ああ、僕の方でもやってみるけど、頼むよ」
そんな二人の様子を見ながら、珊瑚は不安に駆られる。母だけでなく弘樹まで行方不明とは。二人が知り合いなら、何か関わりがあるかも知れない。自分の目の事も母の事も、何かしら聞けるのではと思っていた事もあり、心が重くなっていく。
「珊瑚君、心配しないで。僕も出来るだけの事はするから」
珊瑚はその言葉にはっと顔を上げる。また心配をかけてしまった。陽一だって身内の行方が分からず気掛かりだろうに、自分の事ばかり考えてしまう。落ち込みながら、珊瑚は無理やり作った笑顔で「ありがとうございます」と答えた。
そんな珊瑚の様子を見た涼介が、おもむろに珊瑚の頭を雑に掻き回した。
「う、うわっ。な、なにするんですかっ」
「あははははっ。珊瑚ちゃん、面白い髪形になっちゃってるぞ」
「なっ、なっ、ひどいですっ。篠塚さんが撫でまわすからじゃないですかっ」
そう文句を言った珊瑚は、はっとして涼介を見上げる。
「あ、あの、ありがとうございます」
「ええ? なんだよ、俺のさり気ない気遣いばれちゃった?」
明るく笑う涼介は、最初の印象と違い優しい人なのだと珊瑚は思う。雑に撫でてきた手から伝わったのは、珊瑚を元気づけようとしてくれるような暖かい気持ちだった。
「俺も陽一に負けず劣らずいい男だし、彼女募集中だよ。どう、俺にしない?」
珊瑚は顔を赤くして口をぱくぱくと開閉させるも、なんと答えていいか分からずうろたえる。優しい人だと思ったが、やはり最初の印象通り軽い。とんでもなく軽い。
「おい、涼介。さっき言った事もう忘れたのか?」
陽一の静かだがしかし低い声色に、涼介が慌てて両手を挙げて降参のポーズをとる。
「忘れてないさ、冗談だって、陽一。わかってるだろ?」
「いや、わからないな」
陽一は静かに笑っているのだが、なんとも圧を感じる笑顔だ。
「お、俺はいろいろ調べなきゃならん事もあるから、そろそろ退散するぞ」
「そうか。もう来なくていいから。あと、次から呼び出しには応じない」
「うっ。わ、悪かったって」
そう答えた涼介は「珊瑚ちゃん、またな」と手を振りながら帰っていった。
「……屈託のない人ですね」
「あはは、確かにそうかもね。あいつは出会った時からあんな感じなんだ」
「でも、なんだか面倒見のいい方ですね」
「まあ、確かに」
珊瑚は先ほどから気になっていたことを、陽一に聞いてみようと思いつく。
「あの、先生」
「ん、なに?」
「最近は、一瞬気持ちが湧き上がるような感覚があるとおっしゃってましたよね?」
「うん。自分でもよく分からないんだけど、そういう時が度々あるね」
「試しに触れて感情が流れてくるか、やってみませんか?」
「ああ、なるほど。それは考えつかなかったな」
「で、ではっ、手に触れてもいいでしょうか」
「うん。お願いします」
そう言って差し出された陽一の手に触れる。注意深く何か流れ込んで来ないかとしばらく待つが、何もない。首を傾げる珊瑚に陽一が声を掛ける。
「珊瑚君」
「はい」
「ちょっと気付いたことがあるんだけど、いいかな?」
「なんでしょう」
「珊瑚君は、相手の思考を読むんじゃなくて、感情が勝手に流れ込んでくるんだよね?」
珊瑚は陽一を見上げて深く頷く。
「そうですね」
「じゃあさ、何もない時に触れて……意味あるのかな?」
珊瑚は、はっとして目を見開き、瞬く間に頬を赤く染める。
「そ、そうですよねっ。すみません、私何も考えずに、ただ触れれば感情が流れ込んでくるかと」
慌てふためく珊瑚に、陽一が思わずと言ったように笑う。
「ふ、あははっ。珊瑚君ていつも退屈しないよね」
「えっ、そ、そうでしょうか?」
その時、ほんのわずかに、一瞬何かが流れてくる。
「せっ、先生っ!」
「どうしたの? 珊瑚君」
「あ、ありますっ! 先生の感情、ありますっ! ちゃんと楽しいって伝わってきましたっ」
それは注意深く探らなければ分からない程度の、本当に淡い物だが確かにある。
陽一は、一瞬目を見開いてから眉を下げた。やがて微かに顔を歪め淡い笑みを浮かべる。「そう」と呟いた声は、少しだけ掠れていた。
流れ込んで来たのは嬉しさの中に少しの悔しさも混じったような感情で、複雑な思いに疎い珊瑚にはどう表現していいのか分からなかった。
「よし、珊瑚君。せっかくだからもっと色々試してみよう」
「え?」
「街を歩けばもっと色んな感情が湧くかも知れない」
「そうですねっ。行ってみましょう!」
珊瑚の胸に響く温かな気持ちは、自分の物なのか陽一の物なのか、その両方なのか。二人は軽やかな足取りで街へと繰り出した。
正月の街は、どこか緩やかな空気で満ちている。年末の喧騒とは違い、街を行き交う人々の顔は穏やかだ。年始は休みの店も多く、神殿参拝の人目当ての露店がぽつぽつと開いているだけだ。珍しく積もった帝都の雪もあっという間に解けて、地面はすっかり乾いていた。あの日の出来事が夢であったかのように軽やかな空気だ。
「珊瑚君、せっかくだからあの店でホットベリーを買おう」
「えっ、で、でも……」
「大丈夫。せっかくの楽しい思い出が、僕のせいで台無しだったからね」
そう言って手を引く陽一からは、感情が流れ込んで来ない。それは珊瑚の不安の方が大きいからかもしれないし、別の原因があるのかも知れない。
「はい、珊瑚君。この間のカップとまた違う絵柄だね」
「あ、ありがとうございます」
一旦手を離し、両手でカップを受け取った。それから差し出された陽一の手を、再び握る。
「今度こそじっくり味わおう」
「はいっ」
そう言って二人ともホットベリーを飲む。じんわりと身体が温まり、同時にほんのり暖かな気持ちも流れ込んでくる。
「先生っ!」
「何か伝わった?」
「はいっ。ほんのりですけど、あったかいです」
「そう。ははっ、ならよかった」
そう言った陽一の目は、一瞬揺らいですぐいつもの感情を映さないものに戻る。それでも気持ちが揺れる瞬間に、ほんの少しだが感情が湧くようだ。
その後は年始で休店している所が多いため、普段あまり見ることの出来ない所を散策する。いつもは喧騒に塗れた市場も、今日は静まり返って人はまばらだ。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、息は白いが気分はいい。
穏やかな空気の中を二人で歩き、その後陽一から感情が流れてくる事は無いまま時間が過ぎた。今日は一旦戻ろうかと踵を返し、ゆっくり歩き出したそのとき。
布で目元以外の顔を覆い、帽子を被った男が走ってきた。ちょうど振り返ったばかりの陽一に、そのままぶつかる。その拍子に陽一が手にしていたカップの袋が地面に落ち、無残にもがちゃんと割れる音がした。
ぶつかった拍子に男の顔の布が少しずれて、目の下の頬に目立つ痣が見えた。男も手に持っていた袋を落としたようで、焦った様子で周囲を見回している。似たような見かけの袋だったためか、男は陽一が落とした袋を素早く手にして走り去った。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
「ああ、僕は大丈夫だけど……」
言いかけた陽一の声をかき消すように、男が走ってきた方から叫び声が響いてきた。
「ど、ど、泥棒――――! そ、そいつは泥棒だ、つ、つかっ捕まえてくれ――――!」
珊瑚と陽一は、はっとしてぶつかってきた男を振り返るが、建物を曲がって行ったその姿は既に視界から消えていた。
「ち、畜生、にっ、逃げ足の、はっ、早いやつめっ」
息を切らしながら走ってきたのは、中年の男だ。そこそこの距離を走ってきたのか、ゼエゼエと肩で息をし、話すのも少し苦しそうだ。
「あれ、西野さんじゃないですか」
陽一は目を瞬きながら男に声を掛けた。
「ん? はあ、ああ。よ、陽一君っ、だったのか」
西野は未だ息が整わず、肩を上下させながら途切れ途切れに答える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。はああ。まったく、参ったな……」
西野から視線を外した陽一が、珊瑚の方を見下ろした。
「珊瑚君、こちらの方は神殿の関係者で、西野さん」
「あ、はっ、初めまして。神崎珊瑚と申します」
珊瑚はぺこりと頭を下げる。
「初めまして。私は西野勝彦。神殿で雑用をやってる者だ」
「珊瑚君、雑用なんてとんでもないから、信じちゃダメだよ。結構なお偉いさんだからね」
そう言って笑う陽一に、西野は頭をぽりぽりと搔きながら「本当に雑用ばっかりだ」と苦笑している。
「それにしても、泥棒とは穏やかじゃないですね」
「ああ、まったく参ったよ。よりによってあれを盗むとは……」
そこまで言った西野は、はっとして珊瑚を見やる。気付いた珊瑚は、自分が聞いてはいけない話のようだと頷いた。一歩後ろに下がるが、陽一が手を繋いだまま引き留める。その様子に気付いた西野が、少し驚いた顔をした。
「おや、もしかしてデート中に邪魔したかな?」
「え、で、デート? ち、ち、ちがっ」
「そうですね」
慌てて否定しようとする珊瑚に対して、陽一はあっさり肯定する。感情が流れ込んでくる事は無いので、どういうつもりなのかは分からない。しかし、なぜ手を繋いで歩いていたのかと聞かれても、上手い言い訳が思いつくはずもなく、肯定するのが最善なのだと納得する。
「彼女は叔父を訪ねてきた患者で僕の助手です。人柄も信用出来ます。僕が聞いていい話ならそのままどうぞ」
「そうか。陽一君がそう言うのならまあ、大丈夫だろう」
珊瑚はソワソワと二人を見比べるが、陽一が手を離す様子はない。
「実は、弘樹に調べて欲しいと頼まれてた魔石があってな」
「叔父さんが魔石を?」
「ああ。それで、鑑定に時間が掛かってて、それを受け取った所だったんだ」
「それを盗まれたんですか?」
「そうなんだ。いや、本当に参った。ちょっと特殊な魔石だったし、市場に流れてしまっても困るものなんだ」
「あ、あのっ。それって茶色の袋に入った物ですか?」
かちゃりと眼鏡を触りながら尋ねる珊瑚に、西野は「そうだが」と訝しげに答える。
「なぜ茶色の袋に入ってると?」
「さ、先ほどぶつかってきた男の人が、持っていた袋を転ぶ時に落としてましたっ」
「なるほど……それで?」
「わっ、私たちが買った物と間違えて拾って、元の袋は落としたまま走り去りました」
「な、なんだって?」
すぐに三人で、件の袋を探し始める。先ほど男とぶつかった場所を念入りに見ていると、さほど遠くない場所の柱の陰に袋が落ちているのを珊瑚が見つける。
「あっ、あの、これでしょうか?」
「それだっ、それに間違いない! ありがとう、よく見つけてくれたね」
そう言った西野が、袋をつかんだ珊瑚の手を両手でぎゅうぎゅうと握り込んで来た。とても喜んでいるようだ。いつまでも離れない西野の手がいい加減痛いと思っていると、陽一が珊瑚の手から切り離す。
(あれ? これって先生の感情?)
その時に触れた陽一から流れてきた感情は、なんとなく面白くないような気分だが、一瞬で消えてしまうので複雑な感情は上手く捉えきれない。呆けた顔の西野に陽一が話しかける。
「その魔石ってどんな物なんですか?」
「ああ。これは普通の魔石とは少し違う様なんだが、詳しい結果は弘樹が帰ってきてから開封することになってるんだ」
「ではまだ詳細はわからないんですね?」
「そうだ」
「魔石を見せて頂くわけにはいきませんか?」
「ああ……まあ、いいだろう」
そう言って取り出した魔石は、小ぶりなマラカイトの使われたブローチだった。まずは陽一が手にして光にかざしたりするが、特に変わった様子はないようだ。
そのまま珊瑚に向かって差し出したのを、両手を広げてしっかり受け取る。その瞬間、珊瑚は驚きに硬直する。どくどくと心臓の音が大きく響き、冷や汗が出てくる。陽一が心配そうに「どうしたの? 大丈夫?」と問いかけてくるが、慌てて「なんでもありません」と取り繕い、急いで魔石を西野に返した。
その後、陽一が西野としばらく何かを話していたが、頭が真っ白になってしまった珊瑚はその後どうやって帰路に着いたのかも覚えていない。




