3-5
今日は大晦日だ。昨日もずっと寝ていたが、今日ものんびり過ごしている。昨夜からようやく自室に戻ることを許されて、ホッとしたような少し寂しいような気持ちが入り混じる。
珊瑚は体調が悪いわけでもないのに何もしない一日が落ち着かず、できることがないかと診療所の中をうろついた。するとすぐに陽一に見つかってしまい、初詣を盾にして部屋に押し込められてしまった。
暇になって自室の書き物机に向かっていると、母のことが頭に浮かぶ。毎日が楽しくて、新鮮で、こんな日々は初めてで。けれど、母は今頃どうしているのだろうか。そう考えると胸の奥がキリキリと痛んだ。
平穏な一日を終えて、軽い夕食を取ってから発明品置き場の部屋で他愛ない話をして時間を過ごす。棚に置かれた未完成品たちは、相変わらず珊瑚のお気に入りだ。珊瑚が手を入れればすぐに完成しそうなものもある。それでも陽一が作ったものが見てみたくて、珊瑚は何も言わずに楽しみにしていた。
「もう少ししたら出かけようか」
「はい」
珊瑚は部屋に掛けられた時計を見上げ、自然に笑みを浮かべた。いつも年末年始は母と二人きりで過ごしていたことを思い出す。二人きりで年越しの時間を待ち、明けた瞬間におめでとうを言い合う。昼前に起き出して二人で作ったお節を食べて……お参りにはいけないから、そのままのんびり過ごしていた。
母との思い出が蘇ると、珊瑚の胸が再びしくしくと痛み始めた。自分はこんなに平穏で温かな毎日を過ごしているのに、母は今頃どうしているのだろうか。モヤモヤとしたものが湧き上がってくると、段々気分が沈んでくる。
「珊瑚君?」
陽一の窺うような声音に、珊瑚はぱっと顔を上げた。今は母のことで落ち込んでいる場合ではない。そうは思うが、どんな顔をすればいいのかも分からない。
「どうしたの? なにか心配ごと?」
珊瑚は視線を彷徨わせ、口を開きかけてそのまま閉じた。考えてみれば陽一だって、弘樹がいなくなって心配しないわけがない。まるで自分だけが不安になっているようなことを言うのも、子供っぽいような気がした。
「もしかして、お母さんのことを考えてた?」
図星を指された珊瑚は、うっと呻いて下を向いた。膝の上で組んだ両手をぎゅっと握り、そのまま何も言えずに黙り込む。
「ごめん、珊瑚君。叔父さんが戻ればと思って、ちょっとのんびりしすぎたね。ご両親の名前を教えて貰えれば、もう少し何か分かるかも知れないけど」
「い、いいえっ! そこまでご迷惑をお掛けするわけには」
「うーん、そう言われると無理に聞き出すこともできないしなあ。もう少し様子を見て叔父さんが戻らなかったら、珊瑚君のご両親のことも聞かせてよ」
「は、はい」
珊瑚は曖昧に頷き、口を引き結んだ。母は恐らく父親がどこかへ連れて行ったのだろうと思う。けれどあの人は元華族だ。身分制度が廃止されたとは言え、まだ影響力のある家らしいことは邸の使用人の話で知っている。そんな人間のことを陽一に頼めば、どんな迷惑をかけるか分からない。珊瑚はできればあの人のことは明かさずに、母を見つけることができないかと頭を悩ませた。
「そろそろ時間だね」
陽一の言葉に上を向くと、部屋の時計は二十時半を指している。食堂で蕎麦を食べたら、そのまま中心街へ行く予定だ。一馬とはそこで待ち合わせをしている。
「年越し蕎麦、楽しみだね」
「はいっ」
珊瑚は気持ちを切り替えるように、明るく返事をした。
店の前に着くと、暖簾は仕舞われ閉店の札が掛かっていた。しかし中からは楽しそうな話し声が漏れている。今日は常連のみの特別営業だ。既に珊瑚も顔見知りになった人ばかりのはずで、顔ぶれを想像して自然に笑みがこぼれた。
「こんばんは」
「こ、こんばんはっ」
二人順に扉を潜ると、主人がこちらにちらりと視線を送った。「らっしゃい」といつも通りの返事をすると、店の奥から「いらっしゃいませ」と女将の声が響いてきた。
「あ、あのっ。女将さんも、ご主人も。年末の忙しいときに色々お世話になりました。ありがとうございます」
深々と頭を下げた珊瑚に、女将が「あらあら」と口に手を当てた。主人と視線を合わせると、小さく頷いてから珊瑚に向き直る。
「困ったときはお互い様よ。先生からはお代もきっちりいただいてますからね。それより、こうやってまた元気な顔を見せてくれて嬉しいわ」
「ありがとうございます」
胸の奥がくすぐったくて、笑みを浮かべるが、まだ少しだけぎこちない。
「うちのつゆはちょっと変わってるんだ。楽しみにしときなっ」
いつもは言葉少なな主人が、珍しく声を上げた。珊瑚は「は、はいっ」と裏返ったような返事をして、頬がほんのり赤くなる。「突然声かけるから驚いちゃったわよね」と笑った女将に促され、既に指定席のようになったいつもの壁際に案内された。
蕎麦が来るのを待っている間にも、食べ終わった客と新しくやってくる客が入れ替わっていく。中にはずっと酒を飲んでいる者もいるようだが、皆一様に楽しそうだ。賑やかな食堂をきょろきょろと見回す珊瑚を、向かいに座った陽一は目を細めて眺めていた。
「お待たせしました」
女将が盆を持って、ゆっくり二人の前に蕎麦を置く。「こっちはいつも出してるつゆで、こっちは胡桃のつゆなのよ」と珊瑚に教えて、「ごゆっくり」と言い残して戻っていく。
「胡桃ですか? 初めて見ました」
「年末限定だから、常連だけの特別な味だよ」
「そうなんですか。楽しみです」
珊瑚は特別の言葉に、口の端が自然と上がる。初めてここの前を通ったときには、自分がこんな風に馴染めるなんて思ってもみなかった。
箸を持つ手も夢見心地で、そのまま蕎麦をつゆに浸す。浮き立つ気持ちのままにずるずると蕎麦をすすると、思いもよらぬ風味に目を瞬いた。
「どう? 気に入った?」
「はいっ! とっても美味しいですっ。胡桃と聞いてもっとこってりしたのを想像してたんですが、案外さっぱりしてるんですね」
「そうだね」
「胡桃の香りがふわっと広がって、本当に美味しいです」
普通のつゆも味わって、珊瑚は夢中で食べ進めた。周囲の常連たちも珊瑚の様子に頬を緩めているが、当の本人は蕎麦に夢中でまったく気付いていない。食べ終えると、店の人たちと挨拶を交わし、今度は本題の初詣へと向かうことになった。
「珊瑚君、神殿に行くのが楽しみでしょう?」
「はい、実は既にドキドキしています」
「あはは。珊瑚君は魔石の話になると、いつも嬉しそうだもんね」
子供の頃から魔石は好きだった。眼鏡を作ったのは色を隠すためだったが、作る過程を楽しんでいたのも本当のことだ。母が魔石に詳しかったことや、家に魔石がごろごろあったせいで、珊瑚が興味を持つのも当たり前の環境だったのかも知れない。
「神殿の魔石は、謎が多いんですよね」
「そうだね。魔法のあった時代からのものだって言われてるけど……どうして封印されてるのかは、神殿すら知らないらしいよ」
「そうなんですか」
早く見てみたいと思うと、自然と足の運びが軽くなる。ブーツを履いていることすら忘れてしまいそうな気分だ。ニヤニヤと口元が綻ぶのを隠すように、下を向いて歩いていると、チラホラと地面に白いものが落ちてきた。
「雪か」
突然立ち止まった陽一が、空を見上げて呟いた。不思議に思って見上げると、表情を失くして雪を眺めている。
「先生?」
「ああ、ごめん」
答えた陽一が淡い笑みを浮かべ、何事もなかったかのように歩き出した。どことなく沈んでいるように見えるが、聞いていいものかと逡巡する。外灯に照らされた雪がチラチラと光り、その白さに胸の奥がざわついた。
珊瑚が初めて酷い頭痛に見舞われたのも、確かこんな風に雪の降る日だった。六年前のあの日、帝都でも珍しく雪が降ったと聞いている。珊瑚のいた邸の廊下は、冷たい空気で満たされていた。その年は特に寒い冬で、指先から徐々に失われていく体温に、ただ一人で震えていた。
そんなことを考えているうちに、さっきまでの浮き立つ気持ちが萎んでいく。雪の欠片がどんどん大きさを増し、胸の奥に冷たい塊が降り積もっていくようだ。
「珊瑚君、そろそろ人出が増えてくるよ」
目の前に差し出された手に、珊瑚はゆるりと顔を上げた。いつもの笑みを浮かべた陽一を見て、珊瑚はほっと息を吐く。
「ありがとうございます」
冷えた指先を大きな手に添えると、ふわりと温かな掌に包まれた。珊瑚はもう一度息を吐き、陽一の横に並んで歩き出した。
神殿前の広場には、沢山の露天が並んでいた。おみくじや焼き栗、ホットワインや火薬を使わない魔道具の花火など、普段とは違う賑やかさだ。陽一と珊瑚は神殿でお参りをしたあとに買うものを相談しながら、一馬との待ち合わせ場所に向かった。
「珊瑚っ! 若先生っ!」
元気のいい声が聞こえてきたかと思うと、一馬が待ちきれないとばかりに走ってくる。
「一馬、雪が積り始めてるんだから走るなよ。転ぶぞ?」
「こんばんは、一馬君」
「よう、珊瑚っ! 若先生、俺はそんなドジ踏まないってば」
明るい笑みを浮かべて答えた一馬が、ふと視線を下げて動きを止めた。一瞬間をおいてから、焦ったように視線を上下させる。
「え、えっ? な、なんで? なんで手なんか繋いでんだよっ」
はっとした珊瑚が慌てて手を離そうとするが、陽一はそのまま一馬に見せるように二人の手を持ち上げた。
「何だよ一馬、羨ましいならそう言いなよ。珊瑚君は慣れてないから危ないしね。逸れて迷子になっても困るからこうしてるんだよ。どうせだから一馬も繋いでやろうか?」
からかうようにもう一方の手を一馬に向けた陽一は、口の端を上げて余裕の表情だ。珊瑚は落ち着かない気持ちで二人を見比べて、額にじっとりと汗を滲ませた。
「俺はそんな子供じゃねーよっ」
そう答えた一馬は、陽一の手に拳を当ててパチンと軽く弾いた。手に腰を当てて憤慨した様子の一馬に、陽一が笑い声を立てた。一馬は斜め上を向いて何かを考えてから、思いついたように口の端を上げた。
「珊瑚は確かに危なっかしいよな」
「わ、私、本当に迷子になりそうに見えます?」
「うん。そんで逸れたら一人ですっげえ焦ってそう」
一馬はそれを想像したのか、心底面白そうに笑い声を上げた。珊瑚は年下であろう一馬にまで子供扱いをされて、むっとした表情を浮かべた。
「一馬君は、おいくつでしたっけ?」
「ん、俺? 十四だけど」
「なら私のほうが三つもお姉さんですよ」
ちょっと偉ぶったように答えた珊瑚に、一馬は面白くなさそうな顔をした。しかしすぐに「そうだ」と声を上げて、珊瑚の空いている方の手をぱっと握る。
「年上だけど危なっかしいからな。俺も珊瑚が逸れないように、手、繋いでやるよっ」
「い、い、一馬君?」
「大体呼び方も年上っぽくないんだよな。俺が珊瑚って呼んでるんだから、珊瑚も一馬でいいよ」
「ええっ、無理ですよ」
「なんだよ、俺は仲良くなれたと思ってたのに、珊瑚はよそよそしいよなあ」
恨みがましそうな目で見つめてくる一馬に、珊瑚は唸り声を上げた。口をぱくぱくと開け閉めしてから、思い切って声を上げる。
「い、いいい、い、いち……くんっ」
確か時計屋の妻がそう呼んでいた。これならどうにか呼べそうだ。必死になって呼びかけた珊瑚に、一馬が目を丸くしている。すぐに頬を赤らめると、「まあ、それでいいよ」とそっぽを向いた。片手で頭を掻きながら、耳まで赤く染まっている。
「やれやれ」と言った陽一の呟きが聞こえると同時に、神殿前の広場に大きな鐘の音が響いた。年明けの鐘だ。周囲で祝の声が上がり、珊瑚たちも顔を見合わせた。「あけましておめでとうございます」と言い合って、誰ともなく笑い声をあげる。
陽一が軽く珊瑚の手を引き、「神殿に向かおうか」と促した。珊瑚はそれに頷き、反対側の一馬も同時に歩き出す。両方の手から伝わる体温に、どきどきそわそわとして落ち着かない。陽一と手を繋いでいるせいか、一馬の気持ちも流れてこない。そのはずなのに、どちらの手からも何かが流れてくるような気がして、珊瑚はふわふわとした地面を歩いているような気になった。
「さすがにここまでくると、大分混んでるね」
神殿に入る列は長く連なり、手を繋いでいないと本当に逸れてしまいそうだ。珊瑚は両方の手を繋がれているのが恥ずかしくもあったが、迷子になることを考えればよかったとも思う。そもそも人にぶつからずに進むこともままならない。きっと陽一がいなかったら、この人混みの中で蹲っていたことだろう。
徐々に中へ進むと、今度は一列になった。流石に手を繋いでいるのも不自然で、どちらもそっと解いた。突然冷たさに晒された両手が心細くて、体の前で組んでおく。
「もう順番がくるよ」
陽一の声に列の前を覗き込むと、ケースに並べられた魔石に向かって祈りを捧げる人々が見えた。三人の順番はもうあと十人ちょっとだ。珊瑚は待ちきれない気持ちで、陽一の身体の横からどうにか見えないかと背伸びをした。「ぷっ」と吹き出す声が聞こえて見上げると、陽一が口元に拳を作って珊瑚を見下ろしている。この人は本当に感情がないのかと疑ってしまう。少し拗ねたような表情で見上げると、陽一が「もうすぐ見えるよ」と笑みを浮かべた。
「うわあ」
珊瑚はそれを目の前にして思わず声を上げた。ぱっと口をふさいで見上げると、陽一が笑みを浮かべてから魔石に向かって手を合わせた。珊瑚も同じように手を合わせながら、薄目でケースに収められた魔石を盗み見る。しかしこれはレプリカだ。小粒なものからこぶし大まで様々あるが、本物は間近で見られる場所に普段はない。
隣に置かれた水晶玉のような魔石もレプリカで、最後にこれに触れて願いごとをして帰るのだ。しかし今日は大晦日。水晶玉のようなレプリカの隣に、いつもは置かれていない特別な展示がされている。それこそが珊瑚の楽しみにしていた、本物の古の魔石の——ごく一部だ。
浮き立つ気持ちで願い事をして、目を輝かせながら隣の展示を覗き込む。先程のレプリカと同じように輝いているが、どこか違う。そう思ってさらに身を乗り出したその瞬間。
珊瑚の背中を何かが這うような気配がした。この嫌な感じはどこかで味わったような気がする。しかし、それがいつ、どこでだったのかを思い出せない。珊瑚はぶるりと身体を震わせ、混雑した祈りの場を立ち去った。
人波を抜けると、一馬は近所のおじさんだという人と一緒に家路についた。珊瑚は陽一と二人で露店を歩き、さっきの寒気は頭の中から抜け落ちた。
「さすがに寒いね。何かあったかい飲み物でも買おうか」
「はい。あ、あの、ホットベリーを飲んでみたいです」
「うん、いいよ。じゃあいこうか」
手を繋いで歩く地面は、いつの間にか白く染まっていた。降り続く牡丹雪が層を増し、踏みしめる足元の雪も溶けずに残り始めている。ホットベリーの店は年末年始は特別に、持ち帰り用のカップで売られていた。珊瑚はそれを記念に持ち帰りたくて、これが欲しいと言ったのだ。
「はい、珊瑚君」
「ありがとうございます」
二人向かい合わせに立って、カップを傾ける。口に広がる甘酸っぱさに、ほっと白い息を吐いた。陽一はあっという間に飲み終えて、珊瑚はちびちびと飲み進める。珊瑚がゆっくりカップを傾けたとき、「珊瑚君っ」と焦ったような陽一の声がした。その直後、後ろから押された珊瑚は「あっ」と声を上げてカップを落とした。ぶつかった背中からは、とてつもなく愉快な気分が流れてくる。どうやら酔っ払いのようだ。
振り向いた珊瑚に、酔っぱらいの青年がへらへらと「すみません」「ごめんなさい」などと謝りながら去っていった。ため息を吐いた珊瑚は、持っていたカップがないことに気付き、慌てて身体の向きを変える。
地面を見回すと、少し離れた雪の上に、カップがポツンと落ちていた。それを拾おうと一歩踏み出したとき、陽一が無言で立ち尽くしていることに気付く。足元には空になったカップが落ちていた。
「先生?」
見上げた陽一の顔は、真っ青だ。斜め下を凝視したまま、口元を片手で抑えている。額には汗が滲み、身体が微かに震えているようだ。
「先生……先生っ!」
珊瑚の呼びかけも耳に入らぬ様子の陽一に、珊瑚は何度も呼びかけた。視線の行方を追うと、そこには珊瑚のこぼしたホットベリーが、白い雪の上に散っていた。珊瑚はそれに身震いして、再び陽一に呼びかけた。必死に呼びかける珊瑚の声が、冷たい雪に吸い込まれていく。真っ白な雪の欠片が、二人の上にただ降り積もっていった。




