3-4
陽一は何を言うつもりだろうか。珊瑚は小鉢を持つ手が震えそうになるが、ぐっと堪えた。暗い顔をしていては、陽一も言いたいことが言えないだろう。何を言われても、落ち込んだことに気付かれないようにしなくては。そう思ったところで陽一が口を開いた。
「気付けなくてごめんね。よくやってくれてるとは思ってたけど、ここまで無理させてるなんて。医者のくせに身近な人の体調を気遣えないなんて、情けないよ」
肩を落とした陽一に、珊瑚は小鉢を見ていた顔を慌てて上げた。ほっとすると同時に、そんな風に思っていたなんてと驚きもする。そもそも何も言わずに普通を装っていた珊瑚が悪いのだ。
「あ、あの、私自身が気付かないのに、先生に分かるわけありませんよ。いつも迷惑ばかりかけてしまって、私の方こそすみません」
珊瑚は迷惑という言葉を口にして、再び心が重く沈む。具合が悪いことも相まって、なんだか涙が滲みそうだ。それを堪らえようと必死に口を引き結んでいると、陽一が眉を寄せた。
「珊瑚君。僕は迷惑だなんて、これっぽっちも思ってないよ。そもそも助手になってくれって頼んだのは、僕の方でしょう?」
「でも、お給金までいただいて。それなのに私、ちっとも役に立てなくて」
「何言ってるの、珊瑚君。家事も仕事もなんて、すごく大変なのに。僕は本当に助かってるよ」
気落ちしている珊瑚は、その言葉を素直に受け取ることが出来ずに唇を噛んだ。
「でも私、患者さんに余計なことを言ったり。それに、一人で出かけることすらできなくて」
「始めたばかりのことで失敗するのは当たり前でしょう。最初から上手くできる人なんていないって、この間も言ったじゃない。それに一人で出掛けられないのも、珊瑚君は不便だろうけど。僕は別に迷惑じゃないよ」
「でも」と続けようとした珊瑚に、陽一が難しい顔をして唸り声を上げた。珊瑚は陽一を更に困らせているように思えて、余計に気分が沈んで口を閉じた。
「珊瑚君は、僕が言葉にするのが上手いって言ってくれたけど。やっぱりそんなことないでしょう?」
そう言った陽一は、あははと軽く笑い声を立てた。
「そ、そんなことっ」
「だって今、全然伝わってない」
珊瑚は「え?」と呟き、ぽかんとした顔で陽一を見上げた。
「僕は何度も迷惑じゃないって言ってるのに、珊瑚君はそんなことないって言い張るじゃない。ほらね、ちっとも上手くない」
「え、あ、あの。これは私が至らないせいで」
「あはははは」
感情がないと言いながら、心底おかしそうに陽一が笑う。
「珊瑚君、僕なんてこんなもんだよ。全然すごくないでしょう?」
「そ、そんなこと」
「今珊瑚君が証明してくれたじゃない」
「そんなつもりはっ」と焦る珊瑚に、陽一が「わかったから落ち着いて」と眉を下げた。
「珊瑚君はちょっと」
言葉を切った陽一が、ゆっくりと手を伸ばした。
「頑張りすぎて心配になるよ。もう少し手を抜いて、気楽にのんびりやっていこう」
そう言いながら、珊瑚の頭にそっと手を乗せた。その手に押されて少し俯いた珊瑚の脳裏に、ふっと一悟と二胡の言葉が蘇る。
『珊瑚、目が覚めたら先生のことをよく見てみろ』
『珊瑚ちゃん、先生は珊瑚ちゃんのこと、どんな風に思ってるのかしらね』
その瞬間、珊瑚の目からぽろりと雫がこぼれ落ちた。頭に乗った陽一の手からは、ほんのり温かな体温が伝わってくる。それと同時に、何か柔らかなものが掠めたような気がした。珊瑚がそう思いたいだけなのか、本当に何かが流れてきたのかは分からない。
「す、すみません」
珊瑚はそう言いながら、浴衣の袖で目元を拭った。
「僕の作ったおかゆ、泣くほど美味しかったみたいだね。女将さんに伝えておくよ」
ふっと笑みを零した珊瑚は、微かに震える声で「そうですね」と答えた。
結局珊瑚は残りのおかゆも平らげて、温まった身体がふわふわと浮いているような心地になる。目がとろんとして、そのままぱたりとベッドに寝そべった。
小鉢を片付けていた陽一がそれに気付き、笑みを浮かべて珊瑚にそっと布団を掛ける。「おやすみ、珊瑚君」と言う声が聞こえた気がして、珊瑚は「おやすみなさい」と囁くように返事をした。
夢も見ずに深い眠りに落ちていき、次に目を覚ますと日が高くなっていた。もう昼頃だろうかと、伸びをしながら上半身を起こす。枕元には水差しが置かれていて、コップに注いで一気に飲み干した。水だと思っていたそれは、少し変わった味がした。ほんのり甘くて爽やかで、体の芯まで染み渡る。
そのままベッドから立ち上がろうとしてみるが、足元がふわふわとして目が回りそうだ。そのままぽすんとベッドに倒れ込み、ふと陽一のことが気になった。
珊瑚が寝込んでいる間、陽一は食事をどうしていたのだろう。珊瑚はおかゆを貰ったが、陽一はちゃんと食べていたのだろうか。目を覚ましたときには椅子で寝ていたし、もしかしたらろくに寝ても食べてもいないのかも知れない。
目を魔石に変えられて寝込んだときに、何日も看病してくれた母を思い出す。あのときは子供だったから、母の姿にほっとしたものだが。流石に陽一があんな風に珊瑚につきっきりだったらと思うと、冷や汗がじわりと滲んできた。
そのとき扉を叩く音がした。「はい」と返事をすると、少しして衝立の向こうから現れたのはもちろん陽一だ。
「具合はどう? 顔色は大分よくなったみたいだけど」
「ありがとうございます。すごく楽になりました」
「熱が高かったから、まだゆっくり休んでて」
珊瑚は上半身を起こして、躊躇いがちに口を開いた。
「実はさっき立とうと思ったら、ふらついてしまって」
「それは無理もないよ。……珊瑚君、今日が何日か知ってる?」
「え?」
珊瑚は目を瞬かせてから眉を寄せた。寝込んだあの日は二十八日だったはずだ。その夕方に熱を出して寝込んだのだから、当然今日は二十九日に決まっている。珊瑚は自信を持ってそう答えた。すると陽一は一人で納得するように、うんうんと頷いてから口を開いた。
「珊瑚君にとっては、そうなんだろうね。でも実はね、今日は三十日です」
「え?」
「珊瑚君はあの日の夕方に寝込んでから、薄っすら目を覚ましたかと思えばまた眠って、また起きてを繰り返してたんだよ」
「そうなんですか?」
陽一は「やっぱりね」と眉を下げた。
「熱が高かったから点滴も打ったし、うわ言も言ってたけど。覚えてないよね?」
「はい。何も」
答えた珊瑚が慌てて浴衣の袖を捲くると、いつの間にかガーゼが貼られていた。ぽつんと血が滲んでいるのは、針を刺したあとなのだろう。一体これがいつからあったのか、珊瑚は首を傾げた。
「あの、湯たんぽを貰ったのは覚えてます。それからおかゆを食べたのも」
「うん。タコは二十八日で、おかゆは昨夜というか……日付が変わってもう今日と言ったほうがいいのかな」
「じゃあ、それまでの間ずっと寝てたんですか?」
「ちょっとは会話もしたけどね。全然覚えてないの?」
「す、すみません、覚えてません」
珊瑚の顔からさっと血の気が引いた。その間に一悟と二胡の夢を見ていたし、覚えていないだけで何を言ったか分からない。熱のせいで余計に後ろ向きになって、なにか変なことを口走っていたらどうしようか。そんな風に考えると、顔から血の気が引いてくる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。そこまでおかしなことは話してないから」
(そこまで? 今先生は、そこまでって言った? じゃあ、ちょっとはおかしなことを口走ったのかも)
珊瑚は顔色を青くして、ちらりと陽一の顔を窺った。陽一はいつもと変わらぬ笑みを浮かべているが、何を考えているのかは分からない。こんなときに触れても気持ちが分からないのは、不便な気がする。そこまで考えてはたとして気付いた。こんな風に誰かの気持ちを知りたいと思ったのは、初めてかもしれない。
珊瑚が唸り声を上げながらぐるぐると考えを巡らせている間に、陽一は盆を片手に衝立の前に立っていた。
「じゃあ、珊瑚君。そんなわけだから、ゆっくり休んでてね」
珊瑚は「あっ」と声を上げながら陽一を見上げ、慌てて「ちょっと待ってください」と声を掛けた。「どうしたの?」と衝立を通り抜けようとしていた陽一が、首を傾げて振り返る。
「私が寝込んでいる間、先生のお食事は……」
陽一は目を瞬いてから、ちょっとだけ呆れたような表情を浮かべた。
「そんなこと気にしなくていいよ。珊瑚君がくるまでは、一人でどうにかしてたんだから」
「でも、私が寝込んだせいで手間が増えてたわけですし」
陽一は肩を落として大きなため息を吐いた。
「珊瑚君。さっき僕が言ったこと、もう忘れちゃったの?」
珊瑚は首を傾げて考えた。さっきは確か、変なことを口走っていないか話していたはずだ。それ以外に何があっただろうかと思い出そうとしてみるが、病み上がりの頭はまだしっかり動いてはくれない。
「仕方ないなあ。気楽にのんびりって言ったでしょう」
呆れたように笑った陽一が、ゆったりとした口調で答えた。珊瑚は「あっ」と口を抑えて、そのまま視線を彷徨わせた。
「大体僕だってもういい大人なんだから。食事くらい自分でなんとかできるよ。病人にそんな心配されるようじゃ、僕もまだまだだね」
軽い笑い声を立てる陽一に、苦笑いを浮かべた。確かにこんな子供に心配されたと思えば、陽一は複雑な気持ちになるかも知れない。
「今日から暫くは、女将さんが力になってくれるから気にしなくていいよ。お粥の作り方を聞いたら、珊瑚君が元気になるまで出前もしてくれるって」
「そ、そうだったんですか。女将さんにもご迷惑をおかけして」
「珊瑚君」
陽一の少しだけ咎めるような声に、珊瑚は肩を跳ねさせた。
「女将さんも迷惑だなんて思ってないよ。珊瑚君が元気になって顔を見せれば、それで喜んでくれるから。それに、出前はしっかり料金上乗せだから、気にせずいつでもどうぞって笑ってたよ」
珊瑚は目を瞬いてから、柔らかな笑みを浮かべる女将を思い浮かべた。いつも優しく迎えてくれるが、案外商売っ気はあるようだ。
「そうだ、珊瑚君。元気になったら年末年始は出掛けよう」
「お出掛けですか?」
「そう。食堂で年越し蕎麦があるからそれを食べて、その後初詣に行こうと思うけど。どうかな?」
珊瑚はしばらくの間その光景を想像して、みるみる内に笑みを浮かべた。その様子を見ていた陽一は「決まりだね」と頷いた。
「じゃあ、ゆっくり休んで早くよくなってね」
「はいっ」
いつになく元気な声で答えた珊瑚に、陽一はふわりと笑みを浮かべた。また一馬のように子供扱いされるかもと探るように視線を向けると、何も言わずに衝立の向こうへ消えていった。すぐに扉の閉まる音が部屋に響き、珊瑚の顔に自然と笑みが浮かぶ。下げようとしても下がらない口の端を確かめるように、両手で頬を挟み込んだ。熱は下がったはずなのに、顔が少し熱いような気がする。
ぱたりとベッドに倒れ込み、にやにやと年末の想像をしていたところで、診療所のベルがカラコロと鳴り響いた。今は休診中のはずなのに、一体誰だろうかと思ったところで声が響いてくる。
「珊瑚ーー、若せんせーい! 大掃除の手伝いにきてやったぜーーー!」
どうやら一馬がきたようだ。珊瑚は再び起き上がり、一体何事だろうかと首をひねった。とりあえず何か上に羽織ろうとするが、自分の羽織りが見つからない。始めに着替えたとき、椅子の上に置いたはずだがいつの間にか片付けられていたようだ。
「え、珊瑚がっ?」
部屋の外で大きな声が響き、ばたばたと足音が近づいてくる。「おい一馬、ちょっと待てっ」と陽一の焦ったような声が響き、珊瑚はびくりと肩を揺らした。慌ててサイドテーブルにあった眼鏡を掛けて、再び布団に潜り込む。直後にバタンと大きな音を立てて部屋の扉が開き、衝立の向こうから一馬が顔を覗かせた。
「珊瑚っ! 熱で寝込んだって。大丈夫かっ?」
心配そうに覗き込んできた一馬に、珊瑚は慌てて布団をかき寄せた。
「い、いいい、一馬君っ。こんにちは。み、見てのとおりもう元気ですっ」
心臓がバクバクと大きな音を立て、珊瑚は眼鏡をしっかり押さえた。ぜえぜえと荒い息をした珊瑚に、一馬が訝しげな顔をした。
「なんだよ、苦しそうじゃないか。先生、本当に珊瑚の熱は下がったのか?」
いい笑顔を浮かべた陽一が、徐に両手の拳を上げた。そのまま一馬のこめかみを挟み込み、ぐりぐりと締め始めた。
「い、いてててててっ! おい、痛えよ、若先生っ! な、なんだよっ」
「一馬、僕はさっきちょっと待てって言ったよね? 女性の部屋にいきなり乗り込んで、大声を出すなんて……そんな奴は、モテないぞ」
「わ、悪かった! いってえ、ごめん、珊瑚、ごめんてば」
焦ったように両手を合わせて拝み始めた一馬に、動きを止めたままの珊瑚は目を瞬いた。再び一馬が「いてえっ」と悲鳴をあげたところで、はっとして口を開いた。
「あ、あの、先生っ! ちょっとびっくりしましたけど大丈夫です」
「ほら一馬、聞いたか? びっくりしたってさ」
「ご、ごめん珊瑚っ。も、もうしないから許してっ」
「は、はい! 私は怒ってませんっ」
その言葉に陽一が拳を下げて、大きなため息を吐いた。
「こんなことじゃ、一馬は初詣なしだな」
「えーーー、そんなあ! 今年はやっと母ちゃんがいいって言ってくれたのにーーー!」
「一馬君の初詣、ですか?」
陽一は目を瞬いてから、「言ってなかったっけ」と呟いた。
「一馬も初詣に行きたいって言ってから、母上の許可が出たらいいよって話してたんだ」
「それが無しなんて酷いよ、若先生っ」
珊瑚は気が抜けたような顔で二人を見比べた。一馬も一緒に行くのかと思うと、嬉しくもありなんとなく肩透かしを食らったような気分にもなる。自分の気持ちに首を傾げた珊瑚は、一馬がいれば賑やかで、それもいいなと思い直した。
「楽しみですねっ」
明るい笑みを浮かべた珊瑚に、一馬が「ほらっ! 珊瑚がああ言ってる」とすかさず陽一に掛け合った。苦笑いを浮かべた陽一が「仕方ないな」と頭を掻いて、三人で顔を見合わせて笑いあった。




