3-2
「おはようございます……あれ、もう開店時間でしたか」
入ってきたのは仕立てのいいスーツ姿の男だった。店の中を見回して、不思議そうに首を傾げた。
「いいえ、ちょっと込み入った話があったもので」
「そうでしたか。では、残りの書類をお持ちしましたので、確認していただけますか」
「……ええ、間違いないです。また一週間後にお願いしますね」
短い会話を終えると、男は丁寧なお辞儀をして店を出ていった。店主の妻は先ほどとは打って変わって感じのいい笑みを浮かべている。
「今の方は?」
全員が黙り込んでいた中、陽一が最初に口を開いた。
「売れない高級時計を貸した相手ですよ」
「か、貸しただとっ?」
「あんたやっぱり忘れてたの。ひと月も前に話したじゃない。どうせ聞いてなかったんでしょうけど」
呆れたように言った妻は、店主の方に書類をぐいっと突き出した。慌ててそれを受け取った店主は、食い入るようにして読み始める。しばらく視線を動かしていたが、その表情はどんどん焦りが滲んでいく。
「なっ、なっ、なんだこれはっ」
「だから展示会があるからってさっきの人がきたでしょう、ひと月前に」
「お、俺はそんな話聞いてないっ!」
「あんたあの日もラジオに夢中で話半分だったからね。昨日だってあの人が来たときも、いち君がお店に来たときだって、裏でこっそり賭け事の結果を聞くのに忙しかったんでしょうよ」
書類を持つ店主の手がぶるぶると震えだし、口を開きかけるがすぐに閉じた。唸り声を上げながら書類を何度も見直しているが、中身が変わるはずもない。
「つまり、一馬君はただ時計を見てただけなんですか?」
珊瑚の問いかけに、店主と妻が顔を向けた。
「そ、そうだっ! もう一つなくなってる時計があったんだっ。盗んだのはそっちだな!」
「またバカみたいなこと言い出してっ」
店主の言葉に妻が即座に言い返す。その顔にもう笑みは浮かんでおらず、すっかり冷え切っていた。一馬をちらりと窺うと、すでにどうでもいいといった風に二人を眺めている。
「結局、時田堂さんがいない間に時計が貸し出されて、そのあと一馬が店に入ったことは間違いないんですよね?」
「ええ、そうですよ」
「ほらみろ、やっぱり」
はあっと、聞こえるようにため息を吐いた妻に、店主は言葉を止めてムッとしたような表情を浮かべた。
「いち君は時計を買ってくれたんですよ。お代もきちんと頂きました」
妻は眉を下げて一馬に向き直り、「いち君、ごめんなさいね」と心底申し訳なさそうに頭を下げた。一馬はなんてことないように、「いいよ、おばさん」と一言返した。
「それじゃあ、一馬の疑いは完全に晴れたってことですよね、時田堂さん?」
陽一の言葉に店主は気まずそうな表情を浮かべた。書類をチラチラと見ながら、「普段の行いが」とか「物欲しそうに見てたのが」などとブツブツ言っている。店主の妻がそれをジロリと睨むと、決まり悪そうにそのまま店の奥へ引っ込んでいってしまった。
「いち君、本当にごめんなさい。あの人にはまた後でちゃんと言っておくから。これに懲りずに、おばさんがいるときでいいからきてくれたら嬉しいわ」
「うん。ありがとう、おばさん」
「嫌な思いをさせて申し訳なかったわね」
一馬はへらりと笑って、「もういいよ」と話を切り上げた。すぐに珊瑚と陽一を振り返ると、「いこうぜ」と促しさっさと店を出て行く。珊瑚はざわざわとしたものが腹の中を渦巻き、眉を寄せながら店を後にした。
一馬の後ろ姿を見ながら、珊瑚は口をむずむずと動かした。なんと声を掛ければいいのかわからない。自分が役に立たなかったことも、店主が謝らなかったことも。一馬があっさり店を後にしたことも、その全てがものどかしくてたまらない。なのに何を言えばいいのかさっぱり思い浮かばないのだ。
「ありがとな、珊瑚。それから若先生も」
「あ、あの、一馬君」
いつものように明るく笑う一馬は、それでもやっぱりどこか無理をしているようにも見える。
「ごめんなさい。私、結局何の役にも立てなくて」
俯いた珊瑚に向かって、一馬が「何言ってんだよ、珊瑚」と眉を下げた。ちょっと迷うように視線を彷徨わせたあと、再び口を開いた。
「俺の弟、春馬っていうんだけど」
突然話題が変わり、珊瑚は顔を上げて目を瞬いた。一馬はとても優しい顔をして笑っている。
「あいつ、身体が弱くてよく寝込むんだ。たまに一緒に街を歩くんだけど。前にあの時計屋で、じっと見てた時計があって。欲しいのかって聞いたら、要らないって言ったんだけどさ。でも、本当は絶対欲しかったんだ」
一馬は少し決まり悪そうにして、「ちょっと恥ずかしいんだけど」と続けた。
「うち、貧乏だって言っただろ? だから、家に時計もないんだ。帝都では決まった時間に鐘が鳴るから、別に不便も感じてなかったんだけど」
言われてみれば、毎日決まった時間に鐘の音が響いていた。陽一の診療所は中心から少し離れているせいか、出入り口のベルのほうが大きな音だ。だから珊瑚は気にしたことがなかったのだが。
「春馬は家にいることが多くて……それもベッドの中で。俺も母さんも仕事で家を空けるからさ。昼間に目が覚めても、時間が全然わかんない。俺たちは夕方に帰るけど、春馬にはそれがあとどれくらいかってのがわからないんだよな」
「それで弟さんに時計を?」
「まあ、そういうこと」
一馬は照れくさそうに首の後ろをかいて、そのままちょっと横を向く。
「あいつ、ちょっと前に誕生日だったんだよ。それには間に合わなかったけど。母さんと二人で少しずつ出し合って、昨日やっとあの時計を買えたんだ」
そんな想いのこもった時計を、あんな風に言われたなんて。珊瑚は胸の奥がずしりと重くなる。視線を戻した一馬は、明るい調子で続けた。
「俺、珊瑚が信じてくれて嬉しかった。若先生も信じてくれてたけど」
「わ、私、結局何もできなくて……」
「そんなことねえよ。だって珊瑚、初めて会った日に言ってたじゃないか」
珊瑚は一馬に会った日、自分が何を言ったのかを思い出せずに目を瞬いた。
「帝都は人が多くて怖いって、言ってただろ」
ふっと珊瑚の脳裏にあの日の光景が蘇る。
『私の生まれ育ったところは田舎なので、人も少なくて。だから、帝都は少し……』
『怖い?』
『そう、かも知れません』
その後珊瑚は人の心が流れてくる、なんて口を滑らせ焦っていた。だから一馬がこんな風に受け取ったのだとは、夢にも思っていなかった。
「そう言ってた珊瑚が、俺の心配して駆けつけてくれた。顔が真っ青なのに、盗んでないって大きな声で言い返してくれただろ?」
「あ、あれは必死で」
一馬はカラッとした笑みを浮かべるが、それはどこか諦めを含むようにも見える。
「俺を信じて必死になってくれてるのを見てたら、すっごく嬉しかったんだ。だからもうそれだけでいいよ」
珊瑚は「それだけでいい」という言葉に、引っかかりを覚えた。珊瑚も母と二人で暮らせればそれでいいと思っていた。それは抜け出せない環境を受け入れたとも言えるが、本当は諦めていたのだ。そんな自分と一馬が重なって見えて、複雑な気持ちが湧き上がる。
さっきから腹の中がぐるぐると気持ち悪かったのは、店主がまるで田舎の町の人のように見えたからだ。謝りもせずに背を向けて、その冷たさが自分に向けられたもののように感じた。
珊瑚は田舎の町で諦めてしまった。けれど、帝都へきてから少しずつ変わっているような気がしていた。それは初めて会った一馬がきっかけで、面倒を引き受けてくれた陽一のお陰であり。食堂の女将さんや患者さんたち、様々な人と関わりを持つようになったからだ。
それなのに、一番最初に珊瑚をあの苦しかった駅から連れ出してくれた一馬が、こんなことを言うなんて。けれどそれを一馬にどう伝えたらいいのかわからない。珊瑚の思いを話したところで、それを一馬に押し付けるのも違うような気もする。喉の奥に詰まった言葉は、まるで澱のように張り付いて、吐き出すことも出来ずに唇を噛み締めた。
「一馬、お前その年でそんなじじくさいこと言わないでくれよ」
「じ、じじくさいっ? 若先生、酷いぜ! せめて大人と言ってくれよ」
「あはは。今からそんなつまんない大人になるなよ」
陽一が一馬の頭にぽんと手を乗せて、軽く掻き混ぜた。一馬は口をへの字にして見上げるが、その手を振り払うことはしない。
「すぐに皆が、とは言わないけど。でも周りにはちゃんと、一馬が真っ直ぐなやつだって分かってる大人もいるだろう? さっきの奥さんもそうだし、俺や叔父さんも。食堂の女将さんやご主人も」
陽一はちらっと珊瑚に視線を向けて、笑みを浮かべて一馬の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「それに今は、珊瑚君っていう心強い味方も増えたしね」
頭を撫でられた一馬は顔を歪め、それを誤魔化すように下を向いた。
「一馬。お前さっき言ったじゃないか。初めて会ったとき、珊瑚君は人が怖いって言ってたって」
陽一は珊瑚に笑いかけてから、再び一馬に視線を戻した。
「そんな珊瑚君が一馬のためにしたことが、どれだけ勇気がいったのか。分かってるから嬉しかったんだろう? それなのにお前はその珊瑚君に向かってもういいなんて言うんだから。それじゃあ、頑張って踏み出した珊瑚君に笑われるぞ」
一馬は徐にゴシゴシと袖で目元を擦った。少し怒ったような表情で陽一を見た後に、珊瑚の方へ向き直る。
「珊瑚っ! 俺だってやってやるから、ちゃんと見とけよっ!」
「えっ、あ、は、はいっ。分かりましたっ」
何とも挑戦的な目をした一馬に、珊瑚はあたふたとしながら返事をした。珊瑚と陽一を見比べて、「ありがとなっ」と言った一馬がくるりと踵を返した。そのままあっという間に走り出し、駅へ向かう姿が小さくなっていく。珊瑚は突然のことに目を瞬いて、その背中を呆然と見送った。
「一馬はね」
ふと上から降ってきた言葉に、珊瑚はゆっくり顔を上げた。そこには一馬の見えなくなった後ろ姿を見送るように、目を細めた陽一の顔があった。
「母親と弟と三人暮らしなんだけど。よく診療所にくるのは、弟のためなんだ」
「え?」
「僕の発明品をからかいにきたなんて言ってるけど、本当は弟の薬を取りにきてたんだよ」
「そうだったんですか」
珊瑚はもう一度一馬の去った方に目を向けるが、真っ直ぐな道が続いているだけだ。
「いつも明るくて、楽しそうにしてたから。私、全然気付きませんでした」
「あいつ、珊瑚君の前ではカッコつけてるからね」
「そうなんですか?」
「僕にはそう見えるよ」
珊瑚は首を傾げて思い返すが、本当のところは分からない。
「私にとって一馬くんは……あんな弟がいたら楽しいなって思います。あっ、そうだ! さっきのあれは、ライバル宣言でしょうかっ」
「ん? どういうこと?」
「一馬くんからしたら私って、歳上なのに頼りなくて。何ていうか……そう、まだまだ成長途中の大人未満のような。だから負けたくなくてさっきみたいなことを?」
「ははっ。一馬は前途多難だね」
珊瑚はぱっと顔を上げて、期待を込めて陽一を見つめた。
「私のほうが一歩リードでしょうか?」
「うーん。まあそういうことにしておこうか」
首をひねる珊瑚を見て、陽一はふっと笑みをこぼした。立ち止まって考え込んだ珊瑚に向かって「いくよ」と声を掛けて歩き出す。珊瑚はすぐにその後を追い掛けながら、一悟と二胡を思い浮かべた。
(仲の良い兄弟か。私も一悟にいや二胡ねえと、そんな風に過ごしてみたかったな)
その気持を振り切るように、珊瑚は陽一の隣に並んだ。
「先生は、人の気持ちを言葉にするのが上手くて羨ましいです」
「そうかな。まあ、経験の差ってやつでしょう?」
「私もいつか上手くできるでしょうか。さっきも一馬君に言いたいことが、何も言えなくて。全部先生に言われてしまいました」
「あはは。僕だって全部分かるわけじゃないし、いつも合ってるとも限らないよ。人の気持ちは複雑だからね」
その言葉を聞きながら、珊瑚ははたとして立ち止まる。あまりに表情豊かで滑らかに人の気持ちを語る陽一に、珊瑚はすっかり忘れていたが。感情のない陽一にとって、この話題は触れてはいけないことだったのかも知れない。数歩先を行っていた陽一が気付いて立ち止まり、振り向いてから「ああ」と声を上げた。
「珊瑚君、気にしないで。僕が感情を失ったのは、成人してからだから」
「えっ?」
「元々は人並みの感情を持ってたんだ。だから、それまでの経験で想像はできるし、表情だって自然でしょう?」
珊瑚はどう答えていいのか分からず、躊躇いがちに頷いた。
「まあ、詳しいことはちゃんと時間を取って話すけど。とりあえず今は買い出しだね」
気分を変えるように笑みを浮かべた陽一に、珊瑚は「はい」と答えて再び歩き出した。
昼食を終えた二人は、休日の街に足を踏み出した。買い出しの人々で溢れており、田舎の賑わいとは比べ物にもならない。香辛料の香りと人波に、珊瑚は目を回して立ち尽くした。
「ちょっとっ! そんなとこでボサッと立ってたら邪魔だよっ」
小太りの女に肩を押され、珊瑚はよろけて転びそうになる。一気に苛立ちの感情が流れ込み、血の気がさっと引いていく。身体が傾きかけたところで、温かなものに支えられた。その瞬間、ぱっと嫌な感情が散っていく。はっとして顔を上げると、支えるように珊瑚の腕を取った陽一が、眉を下げてこちらを覗き込んでいた。
「珊瑚君、大丈夫?」
慌てて「はい」と答えた珊瑚は、空いた方の手で眼鏡を直す。
「気分が悪くなったんじゃない?」
「はい。でも、先生のお陰ですぐに消えましたから、大丈夫です」
珊瑚の腕を取っていた陽一が、視線を下げて「ああ、そうか」と呟いた。そのまますっと手を取られ、珊瑚はそれを凝視した。
「こうしておけば、誰かにぶつかっても大丈夫だと思ったんだけど。ごめん、嫌だったかな」
頭を掻きながら気まずそうに言った陽一に、珊瑚は慌てて首を振る。
「いいえっ! あの、ちょっとだけ母を思い出して」
「ああ、子供の頃の町歩き?」
「はい。ずっと母の楽しい気持ちが流れてきて、嬉しかったなって」
少しの間考え込むようにして繋がれた手を見ていた陽一が、ふと顔を上げて口を開いた。
「一馬や僕と触れたときも、同じように少しずつ嫌な感情が消えていく?」
珊瑚はちょっとの間考えた。そう言えばこの間も同じようなことを聞かれて、そのときはよく分からなかったのだが。
「いいえ。お母さんや一馬君のときは、どちらも同じ風ですけど。先生のときはぱっと消えるんです」
「それって、珊瑚君は楽になってる?」
「はい、とっても! 不思議な感覚ですが、一瞬にして消えていくのであっという間に楽になります」
「そう」
満足そうに頷いた陽一は、珊瑚の手を引き歩き出す。一歩遅れて歩き出した珊瑚は、くすぐったくて口がむずむずとしてしまう。
「市場で買い出しのときは、こうしていたら一石二鳥だね」
「他にもなにかいいことがあるんですか?」
「珊瑚君が迷子にならないだろ?」
「先生っ!」
声を立てて笑った陽一を、一歩遅れて珊瑚が見上げた。その視線には恨みがましさが籠ってしまい、それがなぜだか分からない。きっと一馬と同じ子供扱いが、ちょっとばかり納得いかないだけに違いない。珊瑚は繋いだ手にそっと力を込めて、賑やかな市場に足を踏み出した。




