3-1
目を覚ました珊瑚は、ぼうっとした頭で昨日のことを思い起こした。結局一馬と三人で町を歩いたが、浮き立つ気持ちはすっかりしぼんでいた。
(あんなに楽しみだったのに、どうしてだろう)
三人でしばらく散策したあとは、初めて行く洋食の店へ連れて行ってもらった。食事は申し分なく美味しかったのだが、なぜかもやもやとした気分がずっと晴れない。
(私、どうしちゃったんだろう。目のことも少しは分かったし、ちょっとは前進できたのに)
唸り声を上げながら考えてみるが、何も思い浮かばず無駄な時間を過ごした。結局わからないものを考えても仕方がないと、そのまま放っておくことにした。
朝食を終えて少し休めば、今日は一週間分の買い出しだ。珊瑚一人で出かけるわけにもいかず、陽一も一緒に行くことになっている。珊瑚は襟元の鎖を引っ張り、いつものように鍵を取り出す。じっと見つめてから軽く握り、気分を変えるようにほうっと息を吐き出した。
身支度を整えると、朝食の準備を手早く済ませた。珊瑚の作った料理を陽一が並べて、向かい合って「いただきます」と声を合わせるのは最早当たり前の日常になっている。あらかたの家事を済ませると、あっという間に買い出しの時間がやってきた。
一階の発明品置き場へ向かうと、陽一が怪しげな発明品を手にして何か考え込んでいる。手の中にあるのが変わっただけで、昨日の空気とはまるで違う。そう思うと、再びもやもやとしたものが湧き上がった。
「先生、お待たせしました」
「ああ、もうそんな時間だったんだ。じゃあ、いこうか」
そう言って笑みを浮かべた陽一に、特に変わった様子はない。珊瑚は近くの椅子に掛けてあった陽一の上着に気付き、手に取って差し出した。
「ありがとう」
陽一が受け取った上着に袖を通そうとすると、カツンと硬いものの落ちる音が部屋に響いた。慌てて辺りを見回すと、珊瑚の足元に鎖のついたカメオが落ちていた。昨日の陽一の姿が脳裏を過り、なぜか触れてはいけないような気がして動けなくなる。しかしこのまま放っておくのも不自然だ。珊瑚は躊躇いがちに手を伸ばし、ゆっくり掌に乗せた——その刹那。
珊瑚の背筋を、得体のしれないものが這うような気配が通り抜ける。ブルリと身体を震わせ、何かが記憶を掠めたような気がした。それが何なのか、珊瑚には思い当たらない。不思議に思って掌の中を確かめると、象られた女性の目には、小さなオパールが埋め込まれていた。
「変わってるでしょう? カメオに石が入ってるなんて」
珊瑚はぱっと顔を上げて、慌てて両手を差し出した。
「す、すみません」
「ありがとう」
陽一は何でもないようにカメオを受け取り、そのまま内ポケットにしまった。
「珍しいものだから気になるよね。カメオに宝石なんて、今までこれ以外見たことがないから」
「私も見たことがありません」
カメオに宝石を埋め込むのは、技術的に難しい。特殊な加工や魔道具などで細工したものかもしれない。
「素敵なカメオですね」
「ありがとう。大切な人のものだったんだ」
陽一は上着の上からカメオを一撫でして、淡く微笑んだ。目はとても静かなのに、その手つきは酷く優しい。珊瑚は胸の奥がズキンと痛み、「そうですか」とだけ答えた。詳しく話を聞きたいような、何も聞きたくないような。自分がなぜこんな気持ちになるのか、珊瑚にはさっぱりわからない。
陽一は少し考えるように上を向き、「まずは買い物だね」と言った。まるで後で話すとでも言っている風だ。そう思うのは珊瑚の願望だろうか。いつもの調子に戻ってコートを羽織る陽一を、珊瑚は曖昧な笑みを浮かべながら眺めた。
斜め前を歩く陽一の後ろ姿を見ながら、珊瑚はこっそりため息を吐いた。もう一度息を吸い込むと、新鮮な空気に少しだけ気持ちが軽くなる。
開店前の食堂を通り過ぎようとすると、丁度女将が中から出てきた。箒片手にこちらに気付いて、ふわりと笑みを浮かべた。
「こんにちは。二人でお出かけ?」
「こんにちは、女将さん。今から珊瑚君に買い出しを手伝って貰うんですよ」
「こ、こんにちは」
女将は「いってらっしゃい」と小さく手を振り、珊瑚も控えめにそれに返した。そんな風に声を掛けられるのも久しぶりで、珊瑚ははにかむように微笑んだ。
徐々に賑やかな方へ進んでいくと、陽一が何度も呼び止められた。「珊瑚ちゃん」と声を掛けてくれる人もいたが、陽一のように立ち話をするほど親しくはない。しばらく立ち止まって話す様子を見守り、珊瑚は数歩離れて目を細めた。
(こんな毎日が当たり前になったらいいのに)
陽一の後ろ姿がやけに眩しく見えて、珊瑚は少しだけ目を逸らしたくなった。願っても隣に並んで同じように誰かと話すことなど、珊瑚はきっとないのだから。気持ちが沈み始めて、俯きかけたとき。後ろからぽんと肩を叩かれた。珊瑚が慌てて振り向くと、「よう、珊瑚!」と一馬が笑みを浮かべて立っていた。
「い、一馬君っ! こんにちは、偶然ですね。どこかへおでかけですか?」
「お出掛けって言うか……俺は今から仕事なんだ」
頭を掻きながら答えた一馬は、ほんの少し照れくさそうだ。
「俺んち貧乏だからさっ」
へらりと笑った一馬に悲壮感はなく、珊瑚はほっと胸を撫で下ろした。
「お仕事先はどちらですか?」
一馬はうっと声を上げ、決まり悪そうに視線を彷徨わせた。
「駅だよ」
「駅……ですか?」
「うん。俺、荷物運びの仕事やってんの。なるべく金持ちそうな人に声かけてさっ」
視線を逸らしたままの一馬に、珊瑚は「あっ」と声を上げた。
「もしかして、私を助けてくれたときも、お仕事中だったのでは?」
「あー……うん。まあね」
少し照れくさそうに笑う一馬に、珊瑚は焦ったように身を乗り出した。
「じゃあ、あの日、私は一馬君のお仕事を邪魔してしまったんですね?」
「あのときはちょうど金持ちそうな人が見当たらなかったからさ。まあ、本当は珊瑚の着物が上等だったから、助けたら金が貰えるかもって考えてたんだぜ」
ちょっと悪ぶったように一馬は言うが、珊瑚にはそれが嘘だと分かる。あの日肩に置かれた手からは、純粋に心配している気持ちしか流れてこなかったのだから。
「ふふっ。一馬君がそんなこと考えてなかったのなんて、分かってますよ。だって買ってくれたお茶代だって、受け取ってくれなかったじゃないですか」
「ああ……そうだったかな」
ふいっと顔を背けた一馬は、頬を微かに赤らめている。陽一がちょっとした悪ガキなんて言っていたから、親切心を褒められるのが恥ずかしいのかも知れない。くすくすと声を立てた珊瑚に、一馬は益々罰が悪そうにして「じゃあ、仕事行ってくるよ!」と踵を返した。元気に走り出した後ろ姿に、「いってらっしゃい、頑張って」と声を掛ける。前を向いたまま手を挙げた一馬に、珊瑚も小さく手を振った。
そのまま遠ざかっていく背中を見送っていると、突然一馬が足を止めた。不思議に思ってそのまま見ていると、店らしきものから出てきた中年の男と言い争いを始めた。
珊瑚は慌てて振り向いたが、後ろの陽一は気付かず顔見知りと話し込んでいる。珊瑚は一瞬迷ったが、すぐに一馬の方へ走り出した。
二人の姿が大きくなるにつれて、話し声が漏れ聞こえてきた。
「だから、俺は知らねえって言ってんだろっ!」
「嘘吐くな、この悪ガキがっ。お前いつもここを通る度に物欲しそうにあれを見てたじゃないかっ」
「なんだよ、見てたら盗ったってことになるのかよっ」
「お前みたいなやつは、手癖が悪いに決まってるんだ! 大体いつもつるんで悪さして、碌なもんじゃない」
「うるせぇ! 俺は多少の悪戯はやっても、盗みなんて絶っ対にやらねえよ」
珊瑚がもうちょっとで辿り着くというところで、二人の口論が激しさを増す。
「お前の言うことなんか誰が信じるかっ。いいからこいっ。警察呼ぶから店の中で大人しく待ってろ!」
「やってもねえのになんでだよっ」
珊瑚はその勢いに気圧されて、手前でピタリと足を止めた。なにせ男は酷い剣幕だ。また忠蔵のようなことにならないとも限らない。
(大丈夫、触らなければ流れてこないから。落ち着け、落ち着け)と何度も自分に言い聞かせた。まずはゆっくり深呼吸をして、うるさい心臓の音を聞かないふりで一歩踏み出した。
「あああ、あのっ!」
少し裏返った珊瑚の声に、男が怪訝そうな表情で振り向いた。
「ん? なんだい、お嬢ちゃん。悪いが今は見てのとおり立て込んでるんだ。店に用なら、開店時間を過ぎてからにしてくれないか」
「い、いえっ、そうじゃありませんっ。い、一馬くんは、人のものを盗むような子じゃありませんっ!」
珊瑚にしては精一杯の声を張ったが、その実震えて迫力はない。一瞬目を瞬いた一馬は、すぐに眉を下げて情けない表情を浮かべた。
「お嬢ちゃんはこの辺じゃ見ない顔だな。他所からきたのか?」
「は、はい。ちょっと前に帝都へ出てきたばかりです」
「なら知らんだろう。こいつはいつも悪さばっかりしてるんだ。何も知らん癖に口出ししないで貰えんか」
「そ、そそ、そういうわけには参りませんっ! 一馬君は私にとっては恩人ですっ。黙って見過ごすなんてできません!」
必死で言い返した珊瑚に、一馬はなんだか泣きそうな顔をした。一馬の横に並んだ珊瑚は、一歩も引かずに男を真っ直ぐ見つめた。対する男の方は、腕を組んで困ったように二人の顔を見比べる。
「こんにちは、時田堂さん」
珊瑚の肩に手が置かれて、振り向くと陽一が立っていた。少し息が上がっているのは、急いで駆けつけたのだろう。
「ああ、若先生」
「こんな店先では目立ってしまいますよ。落ち着いて店の中で話しませんか」
店主は目を瞬いてから、周囲をぐるりと見回した。いつの間にか人が集まってきており、遠巻きに何かを囁き合っている。
「つい店先で大声なんて出しちまって、お恥ずかしい。おい、坊主。とにかく中へこい」
陽一には丁寧な態度の男だが、一馬に対しては厳しい視線を向けたままだ。
店内に入るといくらか落ち着いた様子の店主は、はあと大きな息を吐いた。
「何があったか詳しく教えていただけますか」
店主は一度一馬に冷たい視線を投げてから、陽一に向かって口を開いた。
「昨日そこの棚の一番目立つところにあった、うちの看板商品の時計が盗まれたんですよ」
「ああ、あれですか。僕も通りかかる度につい気になって見てましたけど。確かになくなってますね」
一見すると何も無くなってなどいないように、その棚は他の時計で埋められていた。しかし陽一があったと言うのだから、本当にそこに置いてあったのだろう。
「さっき開店準備をしてたら、あの時計が見てのとおりなくなってたんですよ。それで俺も気付いたってわけで」
「なるほど」
「あ、あの。それで、どうして一馬君が盗んだってことになるんでしょうか」
一馬はそっぽを向いているが、握りこぶしが微かに震えている。
「そりゃあ、昨日最後に店にきたのがこの坊主だからさ」
「どういうことですか?」
「こいつは昨日も店の前でじっと時計を見てたんだ。前々からずっと物欲しそうに見やがって。昨日遂に盗んだってことだ」
珊瑚は拍子抜けして目を瞬いた。今の話のどこに一馬が盗んだ根拠があったのだろうか。首を傾げた珊瑚は、そのまま疑問を口にした。
「見てただけで盗んだと決めつけるのは、さすがに無理があるのでは……」
「お嬢ちゃんは知らんだろうが、こいつら盗みなんて平気でやるんだ」
「そ、そんなっ! 一馬君は絶対に、絶対にそんなことはしませんっ!」
珊瑚の強い口調に、店主は頭を掻きながら「そう言われてもなぁ」と困り顔だ。すると今度は陽一が口を開いた。
「時田堂さんは、一馬が盗むのを見たわけじゃないんですね?」
「まあ、直接は」
「一馬が時計を外から眺めてたのを見て、それからずっとここにいたんですか?」
「ああ……いや、まあ。ちょっと裏には回ったが」
ソワソワと視線をそらした店主は、急に歯切れが悪くなる。
「どれくらいの時間ですか?」
「そうだな……二十分ほどか」
「その間お店には誰も?」
斜め上を見上げて考え込んだ店主は、「そう言えば戻ってきたらカミさんがいたな」と答えた。
「だが、俺が戻ったとき、こいつが丁度出ていくところだったんだっ! 俺もカミさんも見てない隙に、この坊主が」
続きの言葉は、店の扉が開いたことで中断された。入口に立って店の中を不思議そうに見ているのは、壮年の女だ。
「あら、開店前にお客様? って、まあ。若先生にいち君も。こちらのお嬢さんは、先生のところの噂の助手の方かしら」
愛想のいい笑顔を浮かべた女は、どうやら店主の妻のようだ。表情を保ったまま、確かめるように三人の顔を見比べた。三人がそれぞれ挨拶をすると、頷いてから首を傾げた。
「それで、一体何があったって言うの? こんな狭い店に四人も集まって」
「そうだ! お前、あそこの時計だっ」
「時計?」
店主の妻は一度棚を振り返り、「ああ」と言ってから続けた。
「無駄に高いだけで全然買い手もつかないあれのこと?」
「おまえっ」
「それで、その時計が一体どうしたって言うのよ」
柔らかな笑みを浮かべていたはずが、なぜか店主への言葉にトゲが混じる。珊瑚は目を瞬かせて、ごくりと喉を鳴らした。
「だから、あれがなくなってるだろうっ」
「それがどうしたの?」
「どうしたってお前、あれがいくらすると思ってるんだっ」
店主の妻が更に口の端を上げた。店の温度が一気に下がったような気がして、珊瑚の背筋が寒くなる。
「いくらだっていいわよ。どうせ売れもしないんだから。それで、その時計がどうしたの」
「こ、このガキが盗んだんだっ」
「あなた一体何を言ってるの? ガキってまさか……いち君のことじゃないでしょうね」
「他に誰がいるって言うんだっ」
店主の妻が、呆れたように大きなため息を吐いて項垂れた。それからゆっくり顔を上げると、満面の笑みを浮かべて店主を見つめた。雲行きの怪しくなってきた二人の会話に、珊瑚はぶるりと体を震わせる。固唾を呑んで見守っていると再び店の扉が開き、冷たい風が音もなく店の中へ入り込んできた。




