第三十章 第五話
確か自分は川へ落ちた筈だと思ったレオは、その自分が何も無い真っ白な空間に座り込んでいるのを不思議な感覚で受け止めていた。
「俺は死んだって事なのか」
口に出してみたレオは、確かに身体がフワフワと浮いている様な頼りない感覚にそうかもしれないと思ったが、自分の目の前に人影を感じて顔を上げた。
「全ての試みは成し遂げられたのです、ザイア大尉殿」
其処には軍服では無い、懐かしい修道尼姿のマリアが立っていた。
「試み?」
目の前のマリアは確かにマリアである筈なのだが、何処か何かが違うとレオの直感が示していた。
「ええ。人類は進化を遂げ、その魂は新たなる『絆』を求めてその可能性を無限に広げる事を望みました。それが『融合』なのです」
「融合って」
そう言えば、マリアがそんな言葉を言っていた事を思い出して、レオは首を傾げた。
「人類は『絆』を繋ぎ、その『絆』の結びつきをより強固にする為にこの星の持つ力とも己の魂を融合させようと試みました。ですが、その試みはこれまで成しえる事が出来なかったのです」
マリアは真白の空間をゆっくりと歩き始めた。
「これまで私は人類が『融合』を試みる度に試練を課してきました。その『絆』が真実である事の証明を求めたのです。ですが、『絆』の証が立てられた事はこれまでありませんでした」
「それはどういう事だ」
訥々と話し続けるマリアの言葉を掴み切れず、レオは座り込んだままでマリアを見上げて訊ねた。
「つまり【核】と【鍵】の二人がこれまで『発動』を試みてきたのは、全てその『絆』の証の為に他なりませんでした」
「しかし、『発動』とは【鍵】が【核】を殺す事だ。それでは『絆』も何も――」
無いんじゃないかと言おうとしたレオを遮って、マリアは少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「ええ。だからこそ、【鍵】が【核】を殺さずに『発動』を成し遂げる必要がありました」
「それは」
絶句したレオにマリアは告げた。
「ハドリー・フェアフィールド氏は【核】であった妻ニナを殺さずに【地球の意思】、つまり私を葬ったのです」
光輝くマリアの茶色の瞳には、微かに赤い炎が揺れていた。
「お前が、【地球の意思】だと?」
そんな筈は無いと、レオは眉間に皺を寄せて首を振り続けた。
「俺が見た【地球の意思】は赤い禍々しい靄を纏った存在だった。お前が、マリアがそんな存在ある筈は。それに、【地球の意思】はもう滅んだ筈だ。自分で『私を葬った』と言ったじゃないか」
受け入れられないレオが激しく首を振っているのを悲しげな顔で見下ろしているマリアは、そのレオの前に立ち膝を折ってレオの顔を覗き込んだ。
「確かに『発動』により私の一部は滅びました。ですが、幾つもの魂を抱えていた私は分裂して其々が新しい器を得て、そして決して滅びる事の無いこの星そのものの思念が、今此処にあるのです」
自分を地球そのものだと語るマリアの瞳には、今も脈動を続けるこの星の核が揺らめく赤い影となって映っていた。
それでは、それまで【核】だったニナ達は、その魂を引き継いでもう何処かで新しく生まれ変わっているのかと思った時、レオの心には何故か湖水の小さな子供達の顔が浮かんだが、そのレオの心を読んだのか、マリアは柔らかい赤みを帯びた茶色の瞳を細めて笑いながら頷き、更に頬も緩めてレオに告げた。
「そして私は【地球の意思】ではありますが、同時に人でもあり、つまりは【融合体】なのです」
「【融合体】?」
「ええ」
また立ち上がったマリアは呆然と見上げるレオに静かに微笑んだ。
「人類は正しく『発動』を成し遂げて『絆』の証を立てましたが、まだ『融合』に際しての障害が残っていました。それが人類の内に巣食う闇の存在でした。それを排除しない限り、やがて人類は己の内に澱の様に溜まる闇に飲まれ、これまで歩んできた惑いの道へと足を踏み入れて、その先には希望も無く光も差さない滅亡が待っていた事でしょう」
ゆっくりとレオに背を向けて歩くマリアの背中を、レオは立ち上がれずに目で追っていた。
「それをも成し遂げ『融合』を完成させた人類には、新しい進化が齎されたのです。【地球の意思】と魂を一つに結び付けられた人類の思念はこの星の有り様を変え、その先には滅びは訪れないのです」
振り返ったマリアの瞳には赤い炎が燃えていた。
「つまり、どういう事だ。人間はどう変わるんだ」
マリアが新しい【地球の意思】になったのだという事は、朧げに分かってきたレオであったが、それが人類にとって何を意味するのかはまだ掴めていなかった。
「人々の暮らしは、何も変わりません」
マリアはその問いに微笑んだ。
「これまでと同じ様に生業を成し、子を生し、文化を生み、豊かに暮らしていく事でしょう。ですが、次に『発動』が必要になった時、その時にこれまでとは大きく異なった未来が待っているのです」
「『発動』がまた起こるのか?」
人類を滅亡へと誘う『発動』がまた起こると言われて、レオの顔には苦悩が浮かんだ。
「ええ。ですが、これから起こる『発動』は、人類を滅びへと誘うものでも、『絆』の証を求めるものでも無く、綻びの生じた僅かな箇所を修復するだけのものに過ぎません」
「何故」
「だって、私も人間の一人ですから」
マリアはそう言って小さく笑った。
自分が今どうなっているのか、これから自分はどうすればいいのかを見失って、レオは黙り込んで胡坐をかいて座り直した。
「それで、俺はどうすりゃいいんだ」
もう死んでしまった自分にこれからも何も無いのかと思い直したレオだったが、マリアは笑みを浮かべた顔でゆっくりと戻ってきて、座ったままのレオの手を取って立ち上がらせ、その逞しい胸に笑みを浮かべたまま縋りついて両腕でレオを抱き締めた。
「貴方様は今までもこれからも私の【鍵】で有り続けます。今生も来世もその先も見失われない『絆』で繋がれて、貴方様はこれからも私のお傍で、私を守って下さるのです」
「マリア」
ほんのりと温かみを感じるその身体は、紛れも無く自分の、自分だけのマリアであった。
「次に私が目覚めるのは、人類が再びの危機に陥った時だけです。人類が『発動』を必要とした時には、私は戻り掛けた船を導くのに手を貸す事になるでしょう」
「それまで俺がお前を守ればいいんだな?」
「ええ。こうしてずっとお傍に。でもこの事は、貴方様の心の奥の小箱にそっと仕舞っておいて下さいませ」
真っ白な光で満ち溢れていた世界が、ジワジワと溶け出すように暗転し始め、繰り返し頭の中に反響するマリアの優しい声が響いていたが、凝縮した一滴となった雫はレオの胸の奥深く真実の小箱の中にそっと仕舞い込まれ、映像が途切れたシーンは無音の黒い画面を映して、やがて途切れて消えていった。
もう四月とはいえまだ水温の低いロシアのヴォルガ川で、川面に浮かびあがったレオは息を吐いて水に濡れた顔を振った。
同時に目の前にマリアも浮いてきて、同じように水に濡れた顔を振ったマリアが目をパチクリとさせているのを見て、レオは安堵で微笑んだ。
「マリア、大丈夫か」
「はい」
明るく笑ったマリアと共に天空を見上げたレオは、あの禍々しい闇が消え去って澄んだ青い空が広がっている上空を晴れ晴れとした顔で見入っていた。
川のあちこちに同じように兵士がプカプカと浮いていて、視線を投げたレオに向かって無事の合図を示す両手で大きな丸を作る者や、両手を大きく振り返す者など、どの兵士も無事なようだと分かってレオは一層安堵した。
川べりからの何艘もの小船が川に投げ出された兵士達を救おうと駆け付け始めていて、立ち泳ぎを続けていたレオは、マリアに腕を回して小脇に抱え込んだ。
「マリア。帰るぞ、聖システィーナへ」
「はい!」
笑顔のマリアに微笑み返して、ずぶ濡れのランスが両手を振って合図している一艘の小船に向かって、レオは抜き手を切って悠然と泳ぎ始めた。




