第十三章 第六話
トレーニングウエアを着込んだレオは、独身兵用宿舎の前で軽く伸びをして体を解すと、ゆっくりと走り始めた。
今年は雪の少ない年でエディンバラ市街地には殆ど積雪は無く、これではロドニー達もがっかりするだろうなと思いながら、AAS指令本部の裏手のグラスマーケットで、クリスマス休暇を満喫する人々が笑顔で散策をしたり、広い歩道に置かれたガーデンチェアでのんびりお茶を楽しんでいるのを横目で見ながら、カウゲート通りを海に向かって、レオは足取りも軽く走って行った。
エディンバラ旧市街の東にあるホリルードパークは、その北側にあるホリルードハウス宮殿の王室専用狩猟場であったが、今現在は市民に無料開放されている広大な自然公園で、標高二百五十m程度のアップダウンのある岩盤丘陵であった。
派遣の合間の僅かな休暇では、山岳訓練には出向けないために、この勾配のある公園をランニングコースにしているレオであったが、冬の気配の濃いこの季節では、流石に此処を走っている人は無く、それがかえって黙々と走るレオには好都合だった。
――何で俺なんだ。
もう何度も頭の中で反芻した疑問をレオは自身に問い掛けた。
だが、ケビックから自分が【鍵】だと告げられた日以降、消える事の無いその疑問に答えが出た事は無かった。
――俺以外に相応しい人間は幾らでも居るだろうに。
レオの頭に最初に浮かんだのはコンラッドの顔だった。
彼も【鍵】の望んだ世界の実現に情熱を燃やしていて、その為に世界を股に掛けて大海原を進む自分の艦を手に入れようと、心血を注いでその地位を手に入れたアイツこそが相応しいとレオは思った。
それにそれはサヴァイアー中将も同じで、一艦長に留まらずに、遍くその指令を全土に発するために将官への昇任を受諾し、海軍のトップのみならず英国軍の頂上に昇り詰めたのだと、レオは噛んだ奥歯を鳴らした。
そして何よりも、一番【鍵】に近い存在として、常にハドリーを支えてきたケビックやクリス、スティーブらの『アルカディア』や聖システィーナ地区のメンバーの方が、置かれた状況から考えてもどうみても彼らの方が相応しいように思えたが、その彼らでは無く何故自分なのかと、レオはもう一度沸き立つ疑問を噛み締めた。
眼下にエディンバラ旧市街を望む崖の上でふと目をやってレオは立ち止まった。
破壊の無い市街は穏やかに冬の日差しを返し、崖上を通り過ぎる風のゴウゴウという音だけがレオの耳元を掠めていく中で、レオは何時もの終着点に辿り着いていた。
――俺はこれからどうやって進めばいいんだ。
風の中には答えは無く、頬を撫でる冷たい風がレオの流れる汗の一滴を攫って、吹き過ぎていった。
北風に身を縮こまらせて寒そうに首を竦めて立つジャスティンは、聖ジャイルズ大聖堂前の広場で、車がやってくる西の方角を、目を凝らして眺めて「まだですかねぇ」と呟いた。
冬は日暮れの早いエディンバラの陽も落ちかけていて、薄っすらとした赤い帯が西の地平線近くを染めている反対側の東の空には、気の早い星々が小さく瞬き始めていた。
「そろそろ着くだろ。湖水を出たと連絡があって六時間位だからな」
「今年は雪が少ないから、グレンシーは使えないらしいですよ」
両手を擦り合わせながらジャスティンがレオを振り返り、レオも「ああ」と言って北の空を見上げた。
「グレンシーもレヒも駄目らしいな。ミッドロジアンも雪は無いし、今年は諦めてもらうしかない」
思いつく近隣のスキー場を挙げて苦笑を洩らしたレオだったが、ロドニーの剥れる顔が浮かんでどうしたものかと思案顔になった。
「んで、ティペット二等准尉殿が、エディンバラばかりじゃなくてグラスゴーにもって……」
言い掛けたジャスティンだったが、西からゆっくりと迫ってくる車を見付けて怪訝そうに目を凝らした。
「……あれ? 何でハンヴィーが?」
「いや、ハマーだ。だが准軍用だからな、アレは」
武骨で大きな躯体の、丸いヘッドライトを眼光鋭く光らせた車がゆっくりと広場に入って来るのを目で追って、ジャスティンは口をあんぐりと開けていた。
鈍いカーキ色も軍用と同じな上、躯体全体に散りばめられた丸い凹みは、強烈な銃弾を浴びた跡と思われ、まるで戦場を駆け抜けて来たかのような外観の車は、街灯の灯り始めた広場に、ギッと音を立てて停まった。
「よぉ、レオ! 元気だったか!」
早速後部座席から降り立ったロドニーが真っ先にレオを見付けて、フンと鼻を鳴らして笑った。
十三歳になって、今年の秋からはロンドン西部にあるW校へ進学したロドニーは、また背が伸びたようで、春に別れた時にはレオの肩ぐらいだった背は、顎の先にまで届くようになっていた。
相変らずボサボサだが、少し長めの金髪をうっとうしそうに掻き上げる仕草も大人びて、何時もなら、大人の制止を振り切って駆け回るのに、次に降り立とうとしたエドナの手を取ってやる様子など、これがあの野生児ロドニーかと、レオが目を丸くして見ているのに気づいて、ロドニーはまたニヤリと笑った。
「今年も世話になるぜ」
だが降り立った子供達は、ロドニーとビアンカの兄妹、エドナ、そしてキッドとアキのコンビの五名だけで、ザックとアデラの兄妹、ジェマとサイの双子、イブの姿が無かった。
子供達の顔を眺めて、何度も数を確認して眉を顰めているレオに、エドナが上目遣いでクスッと笑って言った。
「サイとアデラが風邪を引いちゃったのよ。それでザックとジェマも残ったの。イブは、もう行きたくないって」
人一倍人見知りの激しいイブは、人の多い場所が苦手で、今年は修道院で静かに過ごしたいと言ったのだと言う。
「まぁ、仕方ないな。で、コイツは俺の部下で」
隣に居るジャスティンを紹介しようと振り返ったレオだったが、ジャスティンが目を丸くしたまま頬を少し赤らめて、瞬きもせずにビアンカを見下ろしているのに気付いて眉を寄せた。
八歳になったビアンカは体付きはまだ小さくて、六歳児位にしか見えなかったが、浅黒い肌の顔に浮かぶ蒼の瞳は長い睫に彩られて、金色に僅かに茶色のグラデーションが掛かった腰に届く長い髪は、緩やかなウェーブで街灯の灯りを返しキラキラと輝いていた。
「えっと、八年後だと俺三十三だし……」
瞬きもせずビアンカを見てブツブツと呟いているジャスティンの肩を掴み、力を籠めてグイッと引き寄せたレオは、ハッと気付いたジャスティンに顔を近づけた。
「……何か考えているようだが、この子達に手出したら、殺すぞ?」
闇色に染まった瞳でレオがジャスティンに真顔でボソッと囁くと、途端に首を激しく振り始めたジャスティンは、ヒクヒクと顔を引き攣らせた。
「滅相もない! 俺、何も考えてないっすよ!」
ブンブンと激しく首と手を振るジャスティンの様子にゲラゲラと子供達が笑い出して、レオもジャスティンの肩をポンポンと叩いてフッと笑みを溢した。
今回子供達の送迎は、一旦聖システィーナから番人の一人であるシド・ヘインズが湖水まで送ってきて、そこから湖水の担当者へとバトンタッチという手段が取られ、最後に運転席から降り立った男を見てレオは小さく目を細めた。
恐らくは、自分から志願をしてこの役目を引き受けたのであろうワイアット・ボールドウィンが、何時もの陽気さの欠片も無く真顔でレオを見返していた。
「……元気そうで良かった」
レオが穏やかに笑い掛けるとワイアットは何か言おうとして口を開き掛けたが、それより先にジャスティンが素っ頓狂な声を上げた。
「本物のワイアット・ボールドウィンだ……凄ぇ」
「お前、ワイアットを知ってるのか?」
「知ってるも何も、ポロをやってる人間なら誰でも知ってますよ。あ、俺高校時代ポロやってたんです。補欠にも入れないヘタクソでしたけど。彼は超高校級でしかもボールドウィンで、超有名だったんですよ」
興奮して捲し立てるジャスティンに、ワイアットは困ったようにポリポリと顔を掻いてから、
「だって、俺それだけだもん。勉強は殆ど赤点だったから」
とケタケタと笑ってみせ、子供達からもクスクスと笑いが零れた。
一度は明るい和やかな雰囲気になったが、それでもワイアットは顔を引き締め直すと、そのまま地面にガバッと両手をついて跪き、レオの前で土下座をして叫んだ。
「本当に申し訳ありませんでした!」
そのままで身じろぎもしないワイアットを悲しげに見下ろして、レオは黙って口を結んでいた。
ワイアットの気持ちは、痛いほどレオには分かっていた。
自分自身も、嘗て手に掛けようとしたジニアに詫びようとした時、あっさりと流されてしまった事にずっと溶けない蟠りを残していたからだ。
それもジニアの優しさだとは分かっていたが、それでも深く頭を垂れて赦しを請いたい気持ちを素直に受け入れてやる事も、それも優しさなのではないかと、レオは自身の教訓から学んでいた。
誰もが困惑した空気の中で、頭を下げ続けるワイアットを黙って見下ろしていたレオだったが、
「分かった。お前の侘びは受け取った。だからもう頭を上げてくれ」
そう静かに言って、穏やかに微笑んだ。
「何時か、ルイとフィオナ、そしてシモンに、お前達の娘を見せてやってくれ。三人とも待ち侘びているんだ」
ワイアットの腕を掴んで立たせ、その背中を抱き締めポンポンと軽く叩いて、まだ小さく震え続けているワイアットに、ゆったりとレオは笑ってみせた。
「んじゃあ、腹減ったな。旨いものが食べたいぞ!」
ロドニーが口火を切って場の空気を変えると、ビアンカがクスッと笑った。
「あれ美味しかったからまた食べたいわ、えっと、ハギ……」
「ハギス! あの味が分かるとはお嬢ちゃん、通だね」
ジャスティンが嬉しそうに顔を綻ばせたが、ビアンカは大きな瞳でキッとジャスティンを睨んだ。
「お嬢ちゃんじゃなくて、私はビアンカよ」
「ビアンカって呼んでいいの? 俺喜んじゃうよ?」
それにも動じずにケタケタと笑ったジャスティンに連れられて、嬉しそうに振り返ってはレオとワイアットを手招きする子供達に、顔を見合わせて笑顔を溢すと、エディンバラ市民達と明るく挨拶を交わしている子供達の後を、レオはゆっくりとついて行った。




