第十三章 第二話
残務処理を終えて、英国海軍フリゲート『エクセター』で英国のポーツマス軍港に、十一月の終わりに帰還したレオ達S班一行は、「どうせだからFCV車を転がしていけ」と、無遠慮なケビックに命じられて、班員達は大型トラックに分乗してスコットランドへの帰路へ着いたが、レオとオラフ・ハリソン少佐は、まだロンドンに留まっていた。
英国中央政府と、この秋に英国の『ガイア2100』に移転した国連本部に対しての報告業務に追われるレオには、まだ他に任務が残されていたからだ。
その任務の為に訪問したレオの眼前に敢然と立ちはだかる壁は、強大な存在感を持って、頑強にレオの行く手を阻んでいた。
普段温和な彼の、ニコニコと笑っている顔しか見た事の無かったレオは、嘗て在籍していたSASで『アルカディア』地区に関する重要書類を見た時、彼については『柔和な外観に惑わされてはいけない。高い戦闘能力を持ち、取分け驚くべき怪力の持ち主である』と書かれていた事を思い出し、今は憤怒で顔を真っ赤にしてレオを見上げている彼を、自分が彼に片手で易々と持ち上げられているというのに、しみじみと感慨を持って見下ろしていた。
「スティーブ・フェアフィールド医師、それは貴方の医師としての判断という事で宜しいか」
ロンドンにある国立中央病院の二階にあるドクターズルーム前で、怒れる野獣と化したスティーブを前にしていても、ハリソン少佐はたじろぐ事の無い冷静な顔をしていた。
レオ達は、彼の姉であるソフィー・フェアフィールドへの査問を伝えに来たのだが、彼女の主治医スティーブが言下に拒否しただけでは無く、激昂し「ふざけるな!」と暴言を吐きレオに掴み掛かり、こうして無抵抗のレオを捻り上げている状態を指して冷静に問うたハリソン少佐の言葉に、ハッと思い直したスティーブは、その手を緩めてレオを降ろし、狼狽した様子で「失礼しました」と詫びて、ようやく医師の顔を取り戻した。
地に足が着いたレオは、首元の曲がったタイを直し短く「いえ」と返したが、スティーブは動揺を鎮めようと何度か小さく首を振り、それでも険しさの消えない眉を寄せて再びレオに対峙した。
「彼女の四肢欠損は改善を見ておらず、自力での歩行は出来ません。内臓機能も一部再生しただけで不完全であり、現状の彼女の容態を考えると、長時間院外に出る事は認められません」
「ですが、これは国連高等裁判所査問委員会からの出頭命令であります。国連高等裁判所は未だフランスのパリに置かれていますが、査問を英国で行う事は認めており、医師の同行も認められています。出頭しない事は彼女の不利益になります」
淡々と事実だけを告げたレオから目を逸らし、スティーブはまた苦しそうに顔を歪めた。
当時の連邦で、重要機密である【核】に関する情報を、ドイツ系研究員が自国に漏洩していた事への報復として、ドイツの【核】が故意に死に至らしめられていた可能性の発覚は、重大な国家犯罪の疑念があると国連内部を揺るがす大問題となっており、事の真偽を追求すべきという声に押され、現在司法が機能していないドイツ・ベルギー両国に代わって国連高等裁判所に査問委員会が設置され、連邦側の証人として指名されたのが、当時首席研究員として連邦の深部を知るソフィーであった。
「でも、姉さんは、姉さんが……そんな事する筈は」
姉を想う弟の表情に戻ったスティーブだったが、レオはそれでも厳しい顔で向き直った。
「スティーブ、よく聞け。ソフィーは、彼女だけが知る真実を全て話さなければならないんだ。この件でドイツは焦土と化し、多くの難民が自分達の故郷から追われ、雪崩れ込んだドイツ兵により隣国ベルギーでは多くの悲哀を生んだ。最終的にはベルギーそのものが他国によって分割消滅する危機を呼んだ。それが何故起こったのか、事実は解明されなければならないんだ」
旧連邦のトップであった連邦議長トレヴァー・ランカスターは、世界崩壊時に収束のメッセージを発した後秘密裏に本国に戻って、今は既に故人である事が判明していた。
当時の連邦の最高機密を知りえる人物は、首席研究員として深く関わっていたソフィー・フェアフィールドだけであり、彼女以外に査問の証人となり得る人間が居ないのは、仕方の無い事だとレオも良く分かっていた。
「スティーブ、分かってくれないか。彼女には、真実を話す義務があるんだ」
諭すように静かに語り掛けたレオの顔を見れずに、スティーブは苦渋の浮かんだ顔を俯かせて黙り込んだままだった。
「ええ、いいわよ」
窓を叩く冬の木枯らしの音が、カタカタと小さく音を立てている国立中央病院の特別室で、渦中の人物ソフィー・フェアフィールドは顔色も変えずに出頭命令に承諾を示した。
「でも、姉さん」
まだ逡巡の消えないスティーブが、姉の言葉に戸惑いを浮かべて声を掛けたが、ソフィーはまるで小さな子供をあやすかのように、スティーブにフッと笑い掛けた
「スティーブ、悪いけど付き添いをお願いしていいかしら」
「勿論だよ! でも」
「ハリソン少佐殿、それで出頭日は何時かしら」
「明後日十二月十五日午前十時より『ガイア2100』六十五階、国連本部第二十三特別会議室に於いて、執り行われます。遅滞なく出頭されたし」
「承知致しました」
淡々と伝えたハリソン少佐に平然と答えたソフィーは、穏やかな笑みを浮かべ、その話はもう済んだとばかりに強張った顔で立っているレオに視線を向けた。
「それで、ザイア中尉殿、翻訳機の調子は如何でしたかしら」
「はっ。全てに於いて異常無く作動し、任務に於いて甚大な効果を齎して頂きました」
「そう、でもまだ改良が必要ね。違う言語を話す人が二名以上居た場合など、想定すべき課題は多いわ。小型化も進めたいし」
思考を巡らせ始めたらしいソフィーは、小さく目を細め空を見つめていた。
「お伺いしても宜しいでしょうか」
そのソフィーを、眉を寄せてじっと見ていたレオが声を掛けると、ソフィーは思考を止めてレオの方を向いた。
「何故、自分にこのように手を差し伸べて頂けるのでしょうか」
知り合いとは言っても、其処までは縁の深くない自分を、まるで優遇するかのように手助けしてくれる事に疑問を持っていたレオは、その疑問をソフィーにぶつけてみた。
「それは、貴方のためというわけではないの」
その問いにソフィーはクスッと笑った。
「世界では異なる言語と文化を持つ人々が嘗ては垣根を作り、それにより自国のアイデンティティを保ってきたのだけれど、その言語の壁が其々を理解するのを阻んでいたのよ。その無理解が溝を作り、やがて決壊を起こし紛争が生まれる。そんな歴史を人類は繰り返してきたのよ。その無理解を無くすには、どうすればいいと思う?」
「……自分には」
「言語を一つに統一するか、全ての人が全ての言語に精通するかよ。言語の統一はかつて試みられた事はあったけれど、各国の思惑から失敗に終わったわ。全ての人に全ての言語教育を行う事も現実的ではない、とすれば」
ソフィーは蒼の瞳を英知の光で煌かせた。
「その機械さえあれば、例え貴方がどの国へ行ったとしても、誰とでも分かり合える、違うかしら?」
レオは、背筋に這い上がったゾワゾワとする感覚に、震えそうになる身体を必死に堪えて、両足を踏ん張って立ち尽くしていた。
――この人は、己の才知を持って、世界を一つに纏めようとしているのだ。
先の見えない大海原を進む自分達の孤高の船にとって、この人は導となる陽の光であり、道筋を照らし出す夜の星々の煌きのような存在なのだと悟って、今は穏やかな表情に戻り、傍らで心配そうに覗き込んでいる弟の顔を、悪戯っぽい顔で笑って見つめ返しているソフィーの横顔から、レオは目を離せずにいた。
その夜、『ガイア2100』の来賓用宿泊室を訪問したマリアは、一般人を装って平素の修道服姿ではなく平服で、無言で招き入れたレオは、久しぶりに真っ白に輝く美しい裸身を全身で抱き止めた。
話したい事は幾らでもある筈なのに、こうして自分に頭を預けて寄り添っているマリアが居るだけで、それだけで自分の中に満ちてくる暖かい光に、蟠りも黒々とした哀しみの澱も全部消え去っちまうんだから不思議なもんだとレオは小さく苦笑を浮かべ、艶やかなマリアの茶色の髪をそっと撫でながら、同じように感じているのか微笑んだまま何も言わないマリアの潤んだ茶色の瞳を見つめ返した。
「誰もが【鍵】の残した希望を叶えようと、懸命に生きてるんだな」
ポツリと言ったレオに、マリアは小さく「ええ」と笑みを溢して頷いた。
「物事が簡単には運ばないのは誰もが知る事、でも其々が同じ方向を見て、険しい道に一歩を踏み出そうとしているのです」
「お前の道の頂も、険しそうだな」
ゆったりとマリアの髪を撫でていた手を止め、グッと力を籠めて小さな頭を自分の胸に抱え込むように抱き締めたレオに、マリアは腕を伸ばして縋り付いた。
「ええ。ですが、多くの方のご協力とご尽力を頂いて少しずつ前に進んでおります。国内を纏めて、それを世界へと広げていく手段はMr.リンステッドより学びました」
「そういやローラが、『最近尼僧はケビックと仲がいいのよ』って、俺を嗾けてたな」
クスクスと笑ったレオに、マリアは困惑して眉を寄せた。
「決してそんな事は」
「分かってるさ。アイツの女好きは口先だけで、アイツはシスルにぞっこんだからな」
本当は、今日はレオと同室で此処に泊まる筈だったケビックは、「俺はジャスミンの料理が食べたいんだ」と言い放って、さっさと聖システィーナに行ってしまったが、マリアが此処を訪ねてくる事を察して気を効かせたんだろうと、鼻歌を歌い知らん顔をしていたケビックの顔を思い出してレオはクスッと笑った。
「俺達は、他の人の苦しみや哀しみを取り除いていく事だけでしか己の罪を拭えない」
レオはニコラスが言った言葉を思い出しながら、ベッドサイドの仄かな明かりだけが照らす、薄明かりに沈んだ天井を見上げた。
「それなのに俺は、修道尼であるお前をこうして手中にして、まだ咎を増やしている」
「ザイア中尉様、それは私の咎でございます」
小さく笑いながら言ったレオに、マリアは顔を上げてレオを覗き込むようにして眉を寄せて首を振った。
「お前の咎は俺の咎だ。それなのに」
レオはマリアの張り詰めた腰のくびれに手を這わせながら、それに反応して少し頬を染めたマリアを見上げ耳元に唇を寄せて囁いた。
「まだ俺はお前を欲して咎を増やそうとしている」
「あ……」
恥じらいに頬を染めたマリアが小さく吐息を漏らすと、体を入れ替えたレオは、嘆息の漏れるマリアの赤い小さな唇を塞いで、白い裸身に手を滑らせていった。




