第十三章 冬の休暇編 第一話
――ハドリーもこの光景を見たんだろうか。
英国の首都ロンドン中心部を流れ下るテムズ川近くに建っている『ガイア2100』の五十六階から、ケビックは眼下のテムズ川に一艘の小船が二本の白い航跡を描いてゆっくりと海へ向かっているのを見下ろしていた。
英国を発つ前日に、ハドリーとニナがこの『ガイア2100』の屋上に立ち、あの奇跡の虹を再び見せてくれた事を思い出しながら、ケビックは手にした自分用のカップから熱い麦茶をゆったりと口に含んだが、背後の扉の開く音に振り返り「よぉ」と笑い掛けた。
「遅くなってごめんね、ケビック」
「どうした。ロジャーのオムツでも替えてたのか?」
ケタケタと笑ったケビックに、聖システィーナ地区の【守護者】クリス・エバンスはむぅと口を尖らせて、
「下の階の親父んところに寄ってたんだ。『エクセター』の改修と平行して修理してた大型カーフェリーが、一艘修理が終わったって言うからさ。スコットランドへ運ぶFCV車の移送手段についての打ち合わせの要請があったんだよ」
と、ブツブツと文句を言いながらも、この国際コミュニティ会議準備連絡室の会議用長テーブルの椅子に腰掛け、ケビックが片隅のテーブルワゴンの上に備えてあったポットからカップに並々と熱い麦茶を注いで手渡すと、「ありがとう」と笑顔になって受け取った。
「最近は、トルコからの紅茶が入ってくるようになったのに、まだ麦茶なんだね」
クスッと笑ったクリスにケビックは「おうよ」と返し、また麦茶をグビッと一口飲んだ。
「もうこの味に馴れたからな。特に夏場の麦茶の旨さは異常だぞ。まぁ冬場に湖水で飲むのはホットワインが一番多いんだけどな」
「暖まるしね」
そう言ってコクンと熱い麦茶を口に含んだクリスは、思い出したようにケビックを見た。
「そう言えば、エマには知らせたの?」
「ん? ああ。電話でな」
「喜んだだろうな、エマ」
永らく音信不通だった自分の両親が、故郷で無事であったという知らせは、『アルカディア』で夫ワイアットと共に、娘フィオナを慈しんで育てているエマを号泣させたが、自分は妻の両親の恩人であるレオを誤って殺してしまうところだったと、ワイアットに再び罪の意識から混乱が生じるのを防ぐ為に、予めレオが用意していた言葉をケビックは伝えていた。
「まぁ、何処の村でもボーマルシェの造ったワインを手に入れたいという願望があっただろうから、遅かれ早かれ彼らにドイツ残兵の捕縛が知らされ、彼らは食糧を手に入れる事が出来ただろうしな。特段S班の手柄って訳でも無いな」
レオの言葉をそっくりそのまま言ったケビックがニヤリと笑うと、クリスもクスクスと笑みを溢した。
「でもまぁ、確かに出来過ぎた話だよね」
「それをこれから検証するのさ」
ケビックが、飲み掛けのカップをトンと長机に置くのと同時に、入口の扉が開き最後の人物が入って来てカチリと鍵を掛けた。
そして、ゆったりと目を閉じたクリスによって張られた結界に、一瞬耳が痛くなるような無音の中に放り出されたケビックだったが、人払いの完了した部屋にフゥとため息をついてから、耳を馴染ませようとポリポリと掻いた。
「遅くなって済まない。始めようか」
「ああ」
ケビックは動じる事無く椅子に腰を下ろし、プロジェクターから映し出された画像がユラユラと揺れている前で、淡々とした表情で議長席に座った国連コミュニティ管理局局長のエドガー・リードに向き合った。
「本日の議題は当代の【鍵】と目されるアレックス・ザイア中尉殿に関する報告についてだが、随従するネルソン・アトキンズ少尉殿より送られた報告書には目を通して頂いたか」
エドガーが二人に視線を送るとケビックは「ああ」と素っ気無く頷いて、クリスも無言で頷いた。
「それで、今回アレックス・ザイア中尉殿だが」
「長ったらしいだろうが。レオでいいよ、レオで」
言い掛けたエドガーを遮って茶々を入れたケビックに、一瞬眉を寄せたが「いいだろう」と同意して、エドガーは先を続けた。
「――アレックス・ザイア中尉殿、通称レオ氏だが、今派遣の間に二度結界を張っている。彼は今まで結界を張った事は無いそうだが、随従のルドルフ・レッド二等准尉殿、彼は予知能力保持者と目されているが、彼によってその能力の存在を知らされたとの事だ」
「クリス、彼は結界を張る能力を持ち合わせているのか」
ケビックが疑念の籠った眼差しでクリスを横目で見た。
「それが、僕にも良く分からないんだ。確かに聖システィーナでは僕か、バーグマン尼僧だけが結界を張れたんだ。聖システィーナの番人は、バーグマン尼僧と修道院の尼僧全て、オルムステッド夫妻とヘインズ夫妻、アデス夫妻とレオだけだ。更にその内、修道院の尼僧全部とオルムステッド夫妻、ヘインズ夫妻は、筆頭番人であるバーグマン尼僧の指名に因るものだから、当然結界は張れない」
クリスは困惑した顔で話し続けた。
「でもアデス夫妻は、『発動』時に彼らの役目が終わり死に至らしめられるのを防ぐ為に僕が番人に指名した。だから結界が張れてもおかしくないんだけど、彼らは結界が張れない。同様に、僕が緊急措置で指名したレオも、張れない可能性の方が高い筈なんだけど」
「でも彼は結界を張る事が出来た」
ケビックがボソッと言うと、エドガーも難しい顔になった。
「それもかなり強大な結界だ。通常の結界は、力を持った者以外の人間には目視する事は出来ない。だからこそ見えざる壁なのだが、レオ氏がブリュッセルで張ったという結界は、横は約十五kmで、縦約三十kmの範囲を囲み、且つ、弾かれた人間にも、蒼白い炎を上げて燃え上がる壁がくっきりと見えた上に、その炎で形取られた獅子の姿がはっきりと見えたそうだ」
「蒼白い炎ねぇ」
ケビックは淡緑色の瞳を細めて、遠くを見つめた。
「レオ本人が言ってたんだが、『発動』中に彼が俯瞰して見た光景の中で、ウルルで【地球の意思】と対峙しているハドリーの姿が、蒼白い炎として見えたそうだが」
思わせぶりなケビックの言葉にエドガーもクリスも考え込んだ。
「じゃあやっぱりレオが【鍵】ってこと?」
「その可能性は高いな。それに彼が行く先々で、其々因縁を持った人物が待ち構えていたかのように存在し、苦悩を昇華して行く様は、まるで誰かに導かれているかのような気がしないか?」
ケビックは、ドイツやベルギーでレオが遭遇した事象を、手元のタブレットをなぞりながら反芻していった。
「ドイツでのカールとの出会い、そしてドイツ軍訓練兵を見出し、ベルギーではその訓練兵の兄を見出し、エマの両親の窮状を救う。最後には、隠された【核】の存在だ。彼が【鍵】であるからこそ、引き合ったとしか俺には思えんな」
「それは一理あるだろう。だが、まだ結論を出すのは早い」
結論を出そうとしていたケビックをエドガーが牽制した。
あくまでも慎重な姿勢のエドガーを、小さく眉を上げ横目で見たケビックだったが、暫くの沈黙の後「そうだな」と同意した。
「まだサンプルが少ないのには同意だ。それに結論が出たところで、また『発動』が起きるわけじゃないしな」
ポイッとタブレットを投げ出したケビックは「で」と話を変えた。
「例の件はどうなってるんだ?」
「……査問が行われる事になった」
じっと見つめ返しているケビックに視線を送り、エドガーは憮然とした顔になった。
「査問って。でもソフィーは」
不安そうな顔で、エドガーとケビックを交互に見て言葉を濁したクリスにケビックは視線を落として、フッと息をついた。
「だが仕方ない。今や、連邦当時のトップの情報を持っているのはソフィーだけだからな」
「でも……」
旧SASによる拷問を受け身体の多くを損傷しているソフィーは、四肢の再生は終わっておらず、まだ動かす事の出来ない身体なのを案じてクリスは唇を噛み俯いたが、ケビックは遠い目をして言った。
「真実を知っているのは、ソフィーだけだ」
重苦しい空気に黙り込んだ三人は、レオが本当に【鍵】ならば、この道も同じ様に用意をされたもので、その先には、これ迄レオが齎したような希望の終着点がある事を祈るだけだった。




