第十二章 第十四話
長い夜が明け始めたブリュッセルの街に、人間の営みとは無縁の小鳥の声が響き始め、既に全ての準備を終えたのであろう国連軍がこの兵舎からも見える運河の向こう側に、作戦開始の指示を待って密かに待機をしているのを、僅かに開けたカーテンから覗き見て、レオは深いため息をついた。
レオ達に残された時間はあと僅か一日半しか無かった。それも、リエージュの移動まで掛かる時間を考えると、二十四時間以内には決着をつけねばならなかったが、女王はまだ目覚めなかった。
しかし昨晩よりは呼吸が落ち着いて、チアノーゼ状態だった唇もほんのりと薄い赤色に戻ってきたのを見て、アラン大佐は、跪いて泣き崩れた。
『どうだ』
女王に付き添っているネルソンにレオが声を掛けると、ネルソンは疲れた様子も見せずに顔を上げて、レオに厳しい顔を見せた。
『心拍及び呼吸は改善しています。ですが血中の酸素濃度が平常値の九割ほどですので、もう暫く改善には時間が掛かるかと』
『ふむ』
レオは眉を寄せて考え込んだ。
女王の体調は回復に向かい危機は脱したように見えたが、結界の効果が元に戻る事は無く、次第に弱まっていく結界の力を、レオは感じ取っていた。
――彼女の【守護者】としての役目が終わろうとしているのか。
何れ国連軍が掃討作戦を開始し、此処も直ぐ戦場になってしまうのだろうと案じたレオは、解決の手立てを求めて思考を巡らせた。
昨晩よりは顔色が少し良くなった少女は、長い睫に彩られた瞳を固く閉じたままゆっくりと呼吸を繰り返していた。
小さな子供の頃から外で遊んだ事などないのであろう少女の肌は、透き通るように白く、触れればサラサラと心地よい音を立てそうな金色の長い髪は白の枕から流れて、ゆったりと広がっていた。
――【核】だった貴女が此処まで生き長らえたのは、【守護者】だったからか。
少女に目を落として、問い掛けるように心の中で呟いたレオは、心中の澱を吐き出すようにフゥと息をついた。
彼女が【核】であると判明した時から同じ病を持つ先王の容態が悪化し、ドイツの【核】の死の一報が届くと、自分の娘の代わりに亡くなった少女を想って先王は涙を溢されたのだと、アラン大佐は遠くを見ながらレオに話して聞かせた。
その後、ベルギー国内も混乱に陥り、多くの人々が暴徒によって蹂躙されていくのを目の当たりにした先王には、もうそれに耐えるだけの体力は残されてはいなかったと、そう語ったアラン大佐は、寂しげに女王に目を向けた。
だが逆にそれが彼女にとって幸運だったのかもしれないとレオは思った。その直後に起きたニナの逆行により、全ての【核】は死に至ったと聞いていたレオは、【守護者】を継承したが故に、彼女はその死の縄目を抜け出して生き残る事が出来たのだろうと思った。
――しかし、このままではベルギーは国連軍によって蹂躙され、分割され消えてしまうのだ。
歯痒さを噛み締めて歯軋りをしたレオは、そのタイムリミットが近づいている事に焦りを感じていた。
夜も更けると結界の気配はいよいよ薄くなっていき、ジリジリとその包囲を狭めてくる国連軍と、ルーク達であろうかパルチザンと思われる市民との小競り合いが続いているとの緊急報告を受けて、レオは益々焦りを浮かべて、昏々と眠る少女の枕下に立った。
額に浮かんでいる汗に、レオが嘆息を洩らしそっと手を触れた時、少女の体が小さくビクンと反応した。
その掌から感じる【核】の悲哀が、渦を巻くようにレオの思考を取り囲んでグルグルと回るのを感じて、立眩みを感じて体をよろけさせたレオを、すかさずネルソンが手を伸ばしてその体を支えた。
「班長殿」
思わず英語が出たネルソンが狼狽しているのは明らかだったが、それ以上にレオは混乱していた。
――何故、俺が【核】に反応するんだ。
自分は【核】や【鍵】と直接の関わりは無かった筈だと思い直し、「大丈夫だ」とネルソンに短く告げて、ふらつく体を起こし直したレオの眼前で、長い眠りから覚めた少女がゆっくりと瞳を開けた。
『陛下! 女王陛下!』
気付いたアランが枕元に駆け寄って、ゆっくりと開かれた少女の空よりも青い美しい蒼の瞳を覗き込んだ。
『アラン大佐……客人は何処です?』
弱々しい声ながら澄んだ声で仏語で囁いた女王に、アラン大佐は『はっ』と頭を下げ『陛下の左側に居られます』と、女王を呆然と見下ろしているレオに顔を向けた。
『貴方様が……』
言い掛けた女王にレオは小さく首を振って彼女を諌めた。
『お話しになってはいけません、陛下。結界の解除にも若干の力を必要としますので』
そう告げてからレオはゆっくりと彼女に微笑んだ。
『陛下、結界をお解き下さい』
小さく『ええ』と頷いた女王は、開いた瞳を一度閉じて、スゥと息を吸い込むと空に向けて力を放った。
『結界が消失した。作戦の開始を命令する!』
それまで国連軍を手こずらせていた結界が消えた事を確認すると、指揮官である仏軍のアバロ中佐は全軍に指令を出した。
だが、一斉にR20を超えようと雪崩を打って押し寄せた軍勢は、次の瞬間にはR0の域外にまで飛ばされていた。
自分達の眼前に、山のように聳え立つ巨大なドームが蒼白い炎を煌かせて出現し、揺らめく炎がゆっくりと獣の形を形取ると、その炎を四方に撒き散らしながら悠然と吼えるのを目の当たりにして、誰もがただ呆然と座り込んでいた。
『一体、何が、あったんだ……』
R0の外周沿いにある公園の泉の中に放り出されたアバロ中佐は、目の前で踊るように駆け回りながら咆哮を上げ続ける蒼く輝く獅子の姿を、全身ずぶ濡れのまま、呆然と目で追っているだけであった。
『ありがとうございました』
朝焼けが、輝きながら真紅のカーテンをより赤く染める兵舎内の女王の部屋で、深々と頭を下げたアラン大佐とオットー中尉に、
『どうか頭をお上げ下さい』
と、困惑した顔で告げたレオの表情にも明るさが戻ってきていた。
『この先は国連軍とどう交渉するか次第です。どうか穏便な着地点を見出して頂けるよう切に願います』
『お任せ頂きたい。我々とて国民にこれ以上被害を与えたくは無い』
女王の回復とまるで同期を合わせているかのように、顔色の良くなったアラン大佐は悠然と微笑んでレオの手を握った。
『既に国連では、結界が強大な力を持ち且つ目撃された獅子からも、それがベルギー国王によるものであろう事を確認しており、国王がご健在で領民を守る行動を取られたという事から、反乱は発生していないとの観測が強まっておりますので、国連軍がこれ以上攻撃に出る事は無いでしょう』
淡々と説明するネルソンにもアラン大佐は手を差し伸べて感謝の握手を求めた。
『アトキンズ少尉殿、貴殿のお陰で陛下は危篤状態を脱せられた。なんと感謝を申し上げれば』
『いいえ。陛下の病が、自分の妻のものと同じであると気付かせてくれたルドルフ・レッド二等准尉が居ればこそです。それに、この場所に我々を導いてくれた仏軍のシャルル・フランソワ少尉もです』
少しだけだが照れた笑みを浮かべたネルソンが背後を振り返ると、敬礼を返したまま立ち尽くしているS班と並んで、フランソワ少尉も緊張した面持ちの中にも僅かに笑みを浮かべていた。
『しかし、薬は三日分しかありません。残りの薬を手に入れるにも時間が必要で――』
眉を寄せた難しい顔になり唯一の懸念を溢したネルソンだったが、それを聞いて「あ」とニコラスが小さく声を上げた。
「なんだ、ティペット二等准尉」
「もう頼んじゃいました」
クスクス笑っているニコラスが、ポケットから取り出したレオの携帯を振って見せると、その携帯が唐突に震えて着信を示し始め、「わっ」と慌てたニコラスは、そのまま携帯をレオに差し出して、その発信者の名前を見てレオは不機嫌そうに眉を寄せた。
「おい、今は――」
「おー、レオか。悪いけどな、一々フランス経由かオランダ経由にしてる時間なさそうだから、ベルギーのアントウェルペンに、直接入港出来るよう手配してくんないかな」
取り込んでると言い掛けたレオを遮って、行き成り不躾な口調で声を掛けてきたのはコンラッドで、レオは訝しげに眉を寄せた。
「って何の事――」
「聖システィーナから薬を運べって言ったのは、そっちだろうが。もう直ぐカレーを過ぎるぞ。さっさとしろ」
不機嫌そうなコンラッドの声に押されて、仔細を把握したレオが苦笑を浮かべながら、
『その薬が間もなく届きます。それで我が国イングランド海軍所属フリゲート『エクセター』が貴国のアントウェルペンに入港したいと申しておりますが、許可願えますでしょうか』
そうアラン大佐に告げると、驚愕を浮かべた顔で、アラン大佐はオットー中尉と顔を見合わせた。
「手筈もあるだろうから、お前から直接言え。ベルギー陸軍司令部参謀部長であられるアラン大佐殿だ。失礼の無いように話せよ」
電話口で、慌てふためいている様子のコンラッドを笑いながら、流暢な英語に切り替えたアラン大佐が、喜びを浮かべて話しているのを、レオも目尻を緩めて見守っていた。




