第十二章 第十一話
嘗ては本当にオイペン市と取引関係にあったそのビール工場は、豊かなオーギュストの森に守られるようにして、ひっそりと建っていたが、幾つかある貯蔵倉庫は開け放たれ、中に山と積まれていた筈のビールの在庫は根こそぎ消え、ひと気も無く閑散としていた。
「略奪にでも遭ったのでしょうか」
降り立ったネルソンが顔を顰めながら辺りを見渡し、後部座席で目立たないように座っていたレオは、窮屈な座席から解放されて、腰を伸ばしながらも顔を顰めた。
「分からん。幾ら交戦中とは言え、フランス軍もカナダ軍も統制の取れた正規軍だ。一般市民の物資を略奪するとは思えないが」
「じゃあ、ベルギー軍かドイツ軍が接収したんですかね」
こちらも大きな体を狭いシートに押し込んでいたジャスティンが、気持ちよさそうに伸びをしながら呟くと、
「鍵は壊されていない。とすると、軍政府の接収か、それとも」
ネルソンはフゥと息をついて言った。
「此処の住民がパルチザンとなって域内に運び込んだかだ」
置き去りにされて間もないと思われる車が数台、ポツリポツリと残されているだけの広い駐車場に、隣の森から降り掛かる落葉樹の落ち葉が、そよ吹く風にカサカサと小さな音を立てているのを眺め渡して、皆押し黙ってその光景を見つめていた。
その無人の工場内に拠点を設けたS班一行は、どうやって封鎖されているR20域内に侵入するか、慎重に検討し始めた。
「このR20で囲まれたエリアの東端にブリュッセル公園があり、その南側パレ広場を挟んだ向かい側にあるのがベルギー王室の宮殿です。このオーデルゲムの西にあるブリュッセル大学構内を抜けて、クロンヌ通りからトロール通りを経て、この場所、トロール広場から侵入するのが最短ルートです」
ブリュッセル中心部の地図を広げて、一つ一つを指し示しながらネルソンが説明し終えると、ランスが眉を寄せた顔を上げた。
「しかしこの宮殿の位置はR20から近すぎます。防御を考えると現在国王家は別の場所に移動していると考えられないでしょうか」
「そうだな、俺もそう思う」
R20に隣接するように建っている宮殿に、まだ国王が留まっているとは思えなかったレオも、ランスの意見に同意した。
「ちなみに現在のベルギーの国王は?」
「はっ。二千百一年の崩壊当時では、アルベール四世殿下であられましたが、その後は所在生死共に不明であられます」
レオの問いに澱み無く答えたネルソンだったが、ボサボサの髪にようやく馴れたビリーが考え込みながら言った。
「しかし、アルベール四世殿下はまだ三十代半ばの筈だし、王太子であられるブラバント女公マリア・テレジア殿下は当時まだ八歳であられたから、ご存命だと思うのですが」
「でも、アルベール四世殿下はご病気の治療で英国に来られていた事があったろう。確か心臓病の持病をお持ちと聞いたぞ」
ニコラスが記憶を辿りながらビリーに突っ込んだが、ネルソンが話を止めるように手を上げた。
「仔細は内部に辿り着いてみないと判らない。此処で論じ合っても意味が無い」
「そうだな。先ずは、内部に潜入する事だ。ティペット二等准尉、ローグ曹長、R20近辺まで探索を行って周辺の状況を報告せよ。但し十分に注意しろ。決して国連軍に気取られるな」
「了解しました」
強張った表情で返した二人に、レオは黙したまま頷いた。
日が落ち闇の気配が濃くなってから出発したニコラスとビリーの二人は、国連軍警備兵の居る大通りを避け、街灯すら灯っていない月明かりだけの裏通りを慎重に駆け抜けて、R20外周部にある街イクセルに到達していた。
通り沿いに赤い屋根の住宅が連なる美しい街並みは、ひっそりと闇に沈んで人の気配すらしなかったが、破壊は少なく、建物一階の窓ガラスが多少割られているだけで、略奪の痕跡も見受けられない街は、主の帰りを待っているかのように密やかであった。
この辺りは物陰が少なく、身を隠す場所を探しながらも、次第にR20に接近していた二人だったが、通りが近づくにつれて増えてきた見回りの国連軍兵の姿に、ニコラスは小さく舌打ちした。
「どうしますか」
小声で囁いたビリーに、民家の隣に繁った木々の間に身を隠したニコラスは「そうだな」と考え込んでから呟いた。
「あのタワーの上はどうだ」
R20に面して建っている高層の建物を指して言ったニコラスに、ビリーは手元の地図を覗き込み「バスティアン・タワーですね」と言ったが、難しそうに顔を顰めた。
「あの通りではこのタワーが最高層ですが、それだけに、上階には警備兵が置かれているんではないでしょうか」
「だろうなぁ」
自分で言っておきながら同意したニコラスは考え込んでいたが、裏通りを駆け抜けて行く人影に気付いて、木々の間に体を深く入り込ませて「シッ」と短くビリーに囁いた。
明らかに軍人と判る身のこなしで、一人辺りを窺うように建物の影に身を潜めながらR20に向かって行く人影をじっと目で追って、背後に隠した短銃に手を伸ばし、気配を殺して息を潜めていたが、交差点でR20の方角を覗き込んだその人物が、踵を返して此方の方角に戻ってくるのを見て、ニコラスは小さく「クソッ」と呟いた。
思わず腰の浮き掛けたビリーを後ろ手に制し、近づいてくる人物に気取られないよう、音を立てずに腰を屈めてやり過ごそうとしたニコラスであったが、目前の人物の顔が、半月が照らすほの明るい月明かりの中で浮かび上がると、思わず小さく「あっ」と声が出てしまった。
『……誰だ?』
その声に反応して、建物の影に身を入れ此方を警戒しながらまた暗闇に沈んだ顔を半分覗かせている男は、ニコラスもビリーも良く見知った人物だった。
『それはこっちの台詞ですが。フランソワ少尉殿』
ニコラスが苦笑混じりに声を掛けると、一瞬の逡巡の後、ドイツ西部探索で、レオ達と共に行動したフランス班第四班の組長であるシャルル・フランソワ少尉の怪訝そうな声が返ってきた。
『S班か?』
『大当たりです、少尉殿』
ニコラスはクスクス笑っていたが、事態が飲み込めないビリーは困惑した顔をニコラスに向けていた。
そもそもフランス班とは言え、先遣隊は全て本国パリに戻されている筈であった。
粘り強くベルギー・ドイツ共同軍と交渉を重ねていたクロード・ロッシュ中尉であったが、指令本部から掃討の指示が出されると、掃討部隊と入れ替るように全て本国に戻されていた。
S班が一度パリに戻った時には、F班には休暇命令が出ているとブノア中佐に告げられた事を知っているニコラスは、此処に居る筈の無いフランソワ少尉が何の為に来ているのか察しはついていた。
『少尉殿も、この交戦を止めに来られたんですね』
先ほどまで隠れていた木々の奥にひっそりと建つ民家の玄関先で、階段に腰を下ろして座り込んでいるフランソワ少尉の顔を覗き込むようにビリーが訊ねた。
『我々の交渉は、遅々とした歩みではあったが、確実に前に進んでいたんだ。地域住民にも配慮し、理解を得られていた。それなのに本国は我々の懇願を無視して部隊を派遣した。休暇とは名ばかりで実質は謹慎だ。どうせ更迭されるのであれば、俺はブリュッセルの人々を救いたいと思ったんだ』
言葉の端々に悔しさを滲ませながら話すフランソワ少尉の言葉を、ニコラスもビリーも黙って聞いていた。
『じゃあ、救いましょうか』
長い沈黙の後、ニコラスは顔を上げたフランソワ少尉に、笑顔で話し掛けた。




