第十二章 第十話
ブカブカの黄ばんだ古いシャツと、継ぎ当てのある汚れた茶色のズボン姿の自分を鏡に映し込んで、ビリーは納得がいかないように眉を寄せて「うへぇ」と不満を露にした。
乗ってきた軍用車の車列が一路ケルンへと向かうのを見送った後、レオ達に残されていたのはオイペン市長アンドレアス・ケスラーが乗ってきた、市庁舎公用車の七人乗りのワンボックスカーであった。
ソーラーカーで自走可能という事だったが走れるというだけで、車体はあちこちへこんで、元は白だったのであろう塗装は薄茶色の汚れがこびり付き『オイペン市庁舎』と書かれたロゴも所々剥げていたし、車内のシートも、裂け目から飛び出したウレタンを乱暴にガムテープで留めてあるだけで『力を入れすぎると、ドアが外れるかもしれない』というアンドレアスの説明を聞いて、一同の顔には不安が過ぎった。
S班がオイペンを発ち本部に戻る前、アンドレアスと打ち合わせした通り、車内には変装用の私服と、嘗てオイペン市民だった者のIDカードが積まれていた。
此処ベルギーでも、各所で太陽光などを使って一部で電力は確保されていたが、インフラの崩壊と共にインターネット回線は停止し、ドイツ兵による殺戮や病気などで亡くなった者の死亡記録は、紙上には留めてあるが、ブリュッセルにある連邦政府庁舎には届いてはいないという。
それを利用してIDを手に入れた一行は、オイペン市民に成りすましてブリュッセルに侵入しようとしていた。
リエージュ中心部にある聖マリア小教区内の職員用住宅の一室を好意で提供して貰ったレオ達は、手早く其々身支度を整えていた。
「文句を言うな。俺達はオイペンの小作民で、ブリュッセルにあるビールメーカーに交易の交渉に行くんだからな」
剥れているビリーの背中にランスが不機嫌そうな声を掛けると、ビリーは不承不承「了解しました」と返した。
同じ様な古びたシャツに袖を通していたネルソンは、口を結んだままそのビリーの後姿を見ていたが、思いついたように歩み寄るとそのビリーの頭を徐に掴んで、目の前の洗面台の中に突っ込んだ。
「……え?」
戸惑うビリーにも介さず、ネルソンはそのまま蛇口を捻り冷水を溢れんばかりに出し、ビリーの頭をずぶ濡れにしてワシャワシャと乱暴に両手でかき混ぜた。
「ブッ! って、一体何を!」
口に入る水に咽ながらビリーが抗議の声を上げると、ネルソンは無言で水を止め、ずぶ濡れになったビリーの頭に無造作にタオルを放り投げて淡々と言った。
「七年もの間、ドイツ軍に搾取されていた農民が、整髪料の臭いをプンプンとさせて小奇麗にセットしてあったら怪しまれるからな。乾かしたらそのままボサボサにしておけ」
ゲラゲラと笑っているジャスティンを不機嫌そうに睨みながら、小声で「了解しました」と返したビリーは、やはり不満そうだった。
「仕度は出来たか」
古びたタオルを頭に巻いて、黒縁のレンズの分厚い眼鏡を掛け、首にもタオルを巻いたレオが声を掛けると、班員達は一斉に敬礼を返した。
外見は一般人を装っても、眼光の鋭さは流石に隠せないなと苦笑を浮かべてから真顔に戻ったレオは、居並ぶ班員達に告げた。
「これより本班は、ベルギー国ブリュッセル首都地域へと向かい、ベルギー・ドイツ合同軍と国連援助隊間で勃発している交戦を停止させて、域内に取り残されているベルギー国民の救助を目的として展開する。危険な任務ではあるが、心して遂行せよ」
「了解しました!」
其処には覚悟を決めた男達の、揺るぎ無い決意の光が灯っていた。
リエージュからA3ハイウェイをひた走り、小一時間ほどで首都ブリュッセルの外側を取り囲むR0の分岐に辿り着いた一行だったが、予想していた通り、その手前には検問が張られていた。
「止まれ!」
フランス兵に呼び止められたその車は、ガタガタと車体を揺らしながら車を止め、動きの鈍い窓を下ろし、運転席に居たニコラスがムスッとした顔で兵士を睨み上げた。
『はぁ? 何ぞあったんかい』
訛りの強烈な独語に戸惑いを浮かべたフランス兵が、顔を顰めて「誰か、英語か仏語を話せる者は居ないのか?」と声を掛けると、ニコラスはキョトンした顔で目をパチクリさせるだけで、助手席に居たネルソンが、ぶっきら棒な台詞で兵士に英語で話し掛けた。
「何ぞあったんかいと聞いたんだ。俺らは、これからオデールゲムまで行くんだ。此処はフランデレンの筈だが、何でお前さん達英語なんだ?」
此方も独語訛りの聴き取り難い英語で、兵士達は顔を顰めたが、「そんな事はどうでもいい」と、仏頂面で返して「IDを見せろ。確認する」と手を差し出した。
『IDだとよ』
ネルソンが運転席のニコラスに独語で声を掛けると『面倒くせぇなぁ』と、ブツブツと言いながら、ニコラスは胸元のポケットから汚れたIDカードを出し『ほらよ』とフランス兵に手渡した。
「……ドイツ語共同体地区オイペン在住、ブルクハルト・ベーデか。他の奴も見せろ」
次々とレオ達がIDを示して見せると、フランス兵は面白くなさそうに「フン」と呟いて、IDカードをつっけんどんに突き返した。
「この先ブリュッセルには入れない。自分達の村に帰れ」
「何言うだ。俺達は、ビールを手に入れるまでは帰れねぇだ。一生懸命こさえた小麦が手元に残る事になったから、そんで昔みたいにビールを融通してもらうつもりで来ただ。手にいれられんかったら、俺ら村人に半殺しにされてしまうでな」
「そんな事知った事か」
あくまでも強気なフランス兵に、ネルソンは助手席から体を捻るようにして身を乗り出した。
「俺らは、七年間も我慢してきたんだぞ。野良仕事の後のビールの旨さをお前さんがたは分かっちゃいねぇ。アレがないと俺らはイカれっちまう。なんとか援助隊っちゅうのは、俺達を助けてくれるんじゃなかったんかい!」
そう言うとネルソンは後ろを振り返って独語で喚き散らし、車中からは『そうだ! そうだ!』の抗議の声が上がって、ワーワーと喚き散らす男達にフランス兵は小馬鹿にした顔を見合わせて苦笑を洩らした。
「オーデルゲムだな?」
「んだ。其処にビール工場があるだ」
覗き込むようにして問い掛けてきたフランス兵にネルソンが頷くと、「フン」と鼻で笑ったフランス兵は顎をしゃくった。
「真っ直ぐに向かえ。で、用事が済んだらさっさと帰れ」
「言われんでも帰るさ。フランデレンは空気が悪くてかなわん」
こちらも「フン」と鼻で息をしたネルソンに、フランス兵はもう何も言わずに横目で睨んだだけで、踵を返して行ってしまった。
遠くなっていくその後ろ姿を、バックミラー越しに追いながら、ニコラスが忍び笑いを堪えて「お見事」と呟くと、冷静沈着な顔に戻ったネルソンは淡々と言った。
「無駄口を叩かずに行け。オーデルゲムの東、オーギュストの森に隣接した場所にそのビール工場がある。其処へ向かえ」
「了解しました」
踏み込んでもそれほど速度が上がらないオンボロ車ではあったが、渾身の力でニコラスがアクセルを踏み込むと、車は益々ガタガタと音を鳴らしながらも速度を上げ、ひと気の無いブリュッセル郊外の街並みの中を疾走していった。




