第十二章 第八話
空っ腹の若者達の食べっぷりは、それはもう見事なものだった。見慣れた味気ない携行食であろうに、一日分の食事をペロリと平らげると、夫人が差し出した熱いココアを、顔を綻ばせてしみじみと味わっていた。
『これはこちらの皆さんに』
フィオナが微笑みながら携行食の中に含まれていた紅茶を入れてレオ達に差し出し、それを照れ臭そうに受け取ったジャスティンは『どうもありがとう』とほんの僅かに知っている仏語で礼を述べて、どうだと言わんばかりにニコラスを横目で見た。
『では、このまま彼らを此処で雇い続けるという事ですか』
すっかり落ち着いた雰囲気になったダイニングで、レオが温かい紅茶のカップを手に訊ねると、シモンは『ああ』と鷹揚に頷いた。
『本当に助かっているんだ。だがもし彼らがそのケルン復興に帰りたいというなら引き止めはしない。祖国だからな』
寂しそうなシモンの言葉に、若者達は逡巡しているようだった。
『ゆっくりと考えればいい。そして何時でも帰ればいい。ドイツがお前達の故郷なんだからな』
あくまでも穏やかなシモンに若者達は苦悩を滲ませて俯いた。
しんみりとなった場ではあったが、ヴォルフが徐に顔を上げて、レオに訊ねてきた。
『そう言えば、此処に来ていたドイツ兵達は?』
『一度フランス国内の駐屯地に移送されたが、一部の凶悪犯以外は、恐らくケルン復興の担い手としてドイツに戻されるだろう』
レオの説明にホッとした顔を見せたヴォルフだったが、躊躇いを見せた後決心したように顔を上げてレオに真剣な眼差しを向けた。
『その中に、マルセル・ベームという若い男は居ませんでしたか?』
ボーマルシェ一家に聞かれたくないのか、独語で問い掛けてきたヴォルフに驚いた瞳を向けたレオだったが、彼は縋るような必死な瞳で唇を噛み締めていた。
レオ達がケルン郊外ベント村近くで保護したマルセル・ベームは、ヴォルフの弟であった。
兄の後を追って軍学校に入ったばかりだった弟の消息をヴォルフはずっと気に病んでいたが、探しに行く事も出来ない自分をずっと責め続けていた。
『生きてた……生きてた、俺のマースが、生きて無事だった』
弟の愛称を呼びながら、堪えきれない涙をボロボロと溢して泣き崩れたヴォルフを、フィオナはその言葉の意味が解らないながらも黙って抱き締めた。
『ああ。今は近くの村で住民と一緒に暮らしてる。ケルン大聖堂の修復にも出向くと言っていた。此処からは直線距離で三十km程の場所だ。車で行けば三十分も掛からないだろう』
『そんな近くに』
『何時でも会いに行けばいい。きっとマルセルも喜ぶぞ』
ニコラスが励ますようにポンポンと背を叩くと、零れた涙を拭きながらヴォルフは何度も頷いた。二人の仲間も、ヴォルフの苦悩を知っていたのか、笑顔で『良かったな』と声を掛け、顔を綻ばせて喜び合っていた。
『会いに行ったら弟を褒めてやってくれ。お前と同じように、誰も殺さず、誰も傷つけず、彼は一人必死に生き抜いてきた。誇り高いドイツ軍兵だと』
優しく微笑んでいるレオに、涙で潤んだ瞳を向けて、ヴォルフは弟を救った恩人達に感謝を籠めて何度も何度も頭を下げた。
「こんな偶然ってあるんですねぇ」
帰り道ジャスティンがしみじみと呟き、レオも「ああ」と頷いた。
「ルドルフの奴、知ってて言ってたのかなぁ」
「それは分からないな。彼の能力の検証については、本国に戻ってからだ」
ポツリと呟いたニコラスにレオは難しい顔をした。
まだ他国には察知されたくないルドルフの予知能力については、未知の部分も多く、その分析も極秘任務とされているレオはフゥとため息をついた。
「とにかく、この地域の探索はこれで一定の成果が出たという事でしょうかね」
ニコラスの普段の暢気さが頭をもたげて、ニコニコと笑いながらレオを振り返ったが、余りに順調過ぎる経過に、レオの心の中には一抹の不安があった。
――これ迄の話を総合すると千名あるいはそれ以上のドイツ兵がベルギーに逃れている筈だ。それらの大半は何処へ行ったんだ。
恐らくはブリュッセルか、更にその北の北海沿岸までかと思いを巡らせているレオを乗せて、車は夕暮れのオイペンの街を眼前に、聖ニコラウス教会の尖塔が夕陽に赤く色を染めているのを見ながら、静かに進んで行った。
朗報を受けたオイペンの街では、早速取れたばかりの麦や野菜を交易品にしようとアンドレアスが顔を綻ばせた。
『旧ホテルから押収した空ビンも、既に洗浄が終わって届けられるようになっています。そうなればもっとワインの差し入れが出来るようになりますよ』
明るい笑顔で笑ったアンドレアスの言葉に、ジャスティンは顔をにやけさせたが、レオは苦笑して首を振った。
『我々への差し入れは結構です。この域内だけで二千名ほどの方が暮らしておられるのですから、皆さんで味わって下さい』
『ですが我らには皆さんに感謝を示せる物は少ないのです。せめて』
『あなた方が前を向いて生きて下さる事こそが、我々の望みです。自分に余力が出来たら、今度はあなた方が誰かに手を差し伸べればいい。一人が出来る事は些細なことかもしれませんが、そうやって手を差し伸べ合えば、言葉の違いも宗教の違いも乗り越えていける筈です』
そう言ってフッと笑みを溢したレオは、マリアの事を考えていた。
――そうだよな? マリア。
心の奥に仕舞ってあるマリアの顔がゆっくりと頷いたのを感じて、レオは満足そうに空を見上げて微笑んだ。
翌日には交易品を積んで再び訪れたレオ達を出迎えた息子夫婦は、小麦粉や沢山の野菜類に、嬉しそうに顔を綻ばせた。
『これでこの冬は乗り切れる。ありがとうございました』
にこやかに笑ったルイとフィオナ夫妻に、レオも穏やかに微笑み返した。
『次回の輸送船が十一月にケルンに到着する予定ですが、その中の物資の一部を、オイペンを中心としたこの地区にも振り向けるよう手配しました。もう暫くお待ち下さい』
『有り難い、本当に有り難い』
笑顔を見合わせ合った夫妻だったが、フィオナが夫の袖を掴んで『ねぇ、あなた』と夫を促すように少し眉を寄せて見てから、何か言いたげな表情でレオを横目で見た。
『何か?』
レオが促すと、ルイが同じように眉を寄せて言い難そうにレオに問い掛けた。
『ザイア中尉殿はイングランドの方はご存知で?』
『ええ。自分はロンドン出身ですから』
『ロンドン! ではW校という学校はご存知ですか?』
『ええ。良く知っていますが』
『私達の娘は其処に留学していたんです。戦争が起きてから音信が途絶えてしまって。W校は今どうなっていますか?』
必死な顔で問い掛けてくる夫妻にレオは口篭った。W校は戦場となったなどとは言える筈も無いと思っていたが、フィオナの豊かな栗色の髪と栗色の瞳を見て、レオはふと思い出した。
『もしかしたら、お嬢さんのお名前はエマですか?』
『そうです! そうです! 娘をご存知ですか!?』
掴み掛からんばかりの勢いで顔を寄せてきた二人を、レオは困惑した表情で見下ろしていた。
ルイとフィオナの娘エマはW校で戦闘に遭遇したが無事保護され、英国内の安全な場所で暮らしている事、そして其処で同級生と結婚して、今は女の子も産まれている事を話すと、夫妻は肩を震わせてむせび泣き始めた。
『何時かは母に会わせたいと、産まれた娘にフィオナと、同じ名を付けたのですよ』
レオがそう話すと、フィオナは栗色の瞳に涙を一杯に浮かべて、娘の名を呼びながら泣き崩れた。
『そうですか、元気で、幸せに暮らしているのですか』
ルイに縋り付いて泣いているフィオナを抱き締めながら、ルイも泣いていた。
『その夫のワイアット・ボールドウィンは名家の出身なのですが、それでいて気さくで優しい好い男です。世界の復興が進めば英国と欧州との定期連絡船もまた運航する事でしょう。必ず逢えますよ』
レオが優しく諭すと二人は何度も頷き、騒ぎに何事かと出てきたシモンにルイが駆け寄り、興奮した様子で父親の腕を掴んで大声で説明すると、『おお、おお』と、言葉にならない様子で目を見開いたシモンは感極まって涙を溢した。
親子が喜びに震えながら抱き合って歓喜の涙を溢しているのを、レオも胸に詰まる想いで黙って微笑みを浮かべながら見つめていた。
「こんな偶然ってあるんですねぇ」
また帰り道にしみじみと言ったジャスティンに、ニコラスももう呆れたようだった。
「何だか神様に仕組まれているような気もするな」
ニコラスがそう言うのも無理は無いとレオも思った。
苦悩に喘いでいる人々が、次々とその苦しみを昇華していく様を目の当たりにして、誰かが最善の道をまるで用意しているかの様に順調に進んでいく事に、レオはやはり一抹の不安を覚えた。
――上手く行き過ぎている気がする。
その先にあるのは同じ様な平坦な道なのか、それとも急峻な崖か行き止まりなのか、一見、小石すら落ちていない長閑な道が続いている様に見えても、それは只の幻影のような気がして、背筋を這い上がった悪寒にレオは小さく身を震わせた。




