第十二章 第七話
もう老人と呼べる年齢であろうその男は、灰色というよりは白に近い髪と伸び放題の白い髭を蓄えて、眼光鋭く前方を真っ直ぐ見たまま、構えた散弾銃の銃口を車に向けて、しわがれた声でレオ達を威嚇した。
『お前達は何者だ!』
投げ掛けられた言葉は独語ではなく仏語で、小声でレオに「仏語です」と囁いたニコラスの言葉に、レオは無言で頷いた。
この翻訳機は言語を判別して自動で切り替わる機能を備えていて、ソフィー・フェアフィルードの知能の高さを物語っていた。
『我々は国連援助隊UNACの者です。世界の被災地を救助すべく派遣されています』
流暢な仏語で返したニコラスだったが、男は警戒を緩める事無く寄せた眉の下の黒い瞳を少し細めて怪訝そうな顔をした。
『連邦か? 連邦だな?』
『いえ、我々は――』
ニコラスが言い掛けたところで男は威嚇するように銃口を上げて空に向かって発砲した。
静かな森に響いた銃声に、森の木々で羽を休めていたのであろう鳥達が甲高い鳴き声を上げて飛び立つ音が駆け巡って、咄嗟に身を伏せた三人が顔を上げると、まだ銃を構えたまま男がこちらを睨んでいるのが見えた。
「どうしますかね」
「説得するんだ。言語や服装から察するにドイツ兵ではなく此処の住民だ。我々をドイツ兵と勘違いしているんだろう」
前方の男を警戒しながら振り向かずに訊ねたニコラスに、レオは厳しい顔で言った。
『我々はドイツ軍ではありません。スコットランド軍です』
『だったら連邦だろう! 彼らは渡さないぞ!』
身構えたままの男の言葉の意味を探るようにレオは目を細めた。
「彼らを連邦には渡さないって事は……彼らとはドイツ兵か」
「へ? あの男はドイツ兵を匿ってるんですか?」
小声で囁き合っている二人の後ろ姿を見ながら、レオは思案を巡らせた顔で考え込んでいたが、徐に車のドアを開け外へ降り立った。
「班長殿!」
思わぬ行動に目を見開いて叫んだ部下達を尻目に、レオは前方で険しい顔で睨んでいる男が、自分に銃口を向けてもたじろがずに、真っ直ぐに背を伸ばして静かに立っていた。
『近づくな! 近づいたら撃ち殺すぞ』
男の威嚇にもレオは表情も変えず、静かに口を開いた。
『此処にはもう何年もドイツ兵以外来なかった筈だ。その彼らが悠々と出回れると言う事は、連邦軍の脅威は無くなったと言う事だ。そして此処にはもう略奪をするドイツ兵は来ない。それはお前達も良く分かっているだろう。ワインが出来上がっても、奴らが来ないからな。彼らは、自分達が全て捕らえた。そのアジトに残っていた空のボトルを返したいんだ。そのボトルにまたお前達が丹精籠めて造ったワインを詰めて、この近隣の人達にささやかな幸せを、希望を届けて欲しいんだ』
レオの静かな言葉を、男は黙って聞いていた。
『近隣の農地も悪夢から解放されて、豊かな実りが其々の手に残された。オイペンでは、是非お前達の造ったワインと、交換したいと言っている。それに我々はライン川を使ってオランダよりドイツのケルンへ物資の輸送を始めている。この地ならハイウェイを使って此処まで陸送も可能だ。世界中が支援の手を差し出しているんだ。その手を握り返してくれないか』
『その証拠は、証拠は何処にあるって言うんだ!』
逡巡し始めた男の言葉には微かに狼狽が浮かんでいた。
『嘘だと思うのなら、その銃で俺の胸を撃ち抜けばいい』
グッと唇を噛んだ男の引き金に掛けられた指先が僅かに震えてるのが見えると、運転席から飛び出したジャスティンが、レオの前に立ちはだかって「やめろ!」と叫んだ。
「あのバカ!」
助手席のニコラスは男の視界に入らないように銃を手にすると、何時でも応戦出来るように身構えたが、男は発砲する事なく静かに銃を下ろした。
『……リンブルクでは、何軒かの家で子供が産まれていた。世界は元に戻ったのか?』
それでもまだ不審げに訊ねた男にレオは『ああ』と言った。
『世界は滅亡を免れた。ベルギーでもドイツでも、英国でも子供達が産声を上げ始めている。また豊かな世界を取り戻すために』
静かに語ったレオの顔を男は黙ったままじっと見つめ返していた。
森の中のぽっかりと開いた空間に、赤いレンガ造りの瀟洒な建物が木々に守られるようにひっそりと建っていた。
母屋と思しき平屋の建物と、高い屋根と白っぽいレンガで出来た塔を備えた醸造所があり、その隣に隣接する窓の無い分厚いレンガ造りの建物は保管庫と思われた。
その向こうには、小さな平屋の建物が半分保管庫に隠れるように顔を覗かせて、古びて蔓草の這っているそれらの建物が、長い間、この地で密やかにワインを造り続けていたのを物語っていた。
『今は、俺と俺の息子夫婦、そして若い奴三人とで細々とワインを造っている』
シモン・ボーマルシェという老人は、レオ達を連れてボソボソと小さな声で喋った。
『その若い奴というのがドイツ兵なのですか』
『彼らは、連邦に追われて此処へ逃げ込んできた。俺達を脅す事も無く、連邦軍が去ったら此処を出て行くと言っていた。真っ直ぐな綺麗な目をしていた。だから俺達は匿ったんだ』
『敵なのに?』
不思議そうに問い掛けたニコラスをキッと振り返って、シモンは少し声を荒げた。
『敵? 俺達にとって敵なのは連邦の方だ』
唇を震わせて怒りを露にしている老人を、ニコラスは返す言葉も無く呆然と見返した。
この辺りの地域はベルギー国内ではあったが、ベルギーには単独の【核】は存在しておらず、その運命はドイツと共にあったのだと、シモンは母屋に向かって歩きながら言った。
『だからドイツの【核】の死は、我々ベルギー人にとっても滅亡への宣告だったんだ』
『しかし、当時は【核】の存在は明らかにはされていなかったようですが』
怪訝そうなレオを、シモンは何も知らないのかと軽蔑を浮かべた瞳で振り返った。
『連邦の内部告発があったんだ。ドイツの【核】はまだ八歳の少女だった。しかも重い心臓病を患っていて、出産の見込みは無かった。それを知ったドイツ系の研究員が密かにドイツ自治政府に通告していたんだ。『このままではドイツは滅亡する。カナダだけが生き残り、やがて世界はカナダ一国に支配されるだろう』と』
母屋の重い木の扉の前で、シモンは怒りを籠めて真鍮の取っ手を握り締めた。
『他の【核】は、やがて秘密裏に殺されるだろう。連邦は【核】を虐待していると彼は言ったそうだ。その矢先に、ドイツの【核】が死んだ。我々は連邦の報復だと思った。そして暴動が起こったんだ』
シモンが開いた木の扉の奥に、中年の男女が寄り添うようにして強張った顔を向けていた。
その二人は奥の部屋へと続く入口をまるで守るかのように塞いで、恐怖を浮かべた顔でじっとレオ達を見入っていた。
『コイツらは連邦でも独軍でも無い。スコットランド軍だそうだ』
シモンが声を掛けると顔を見合わせた二人であったが、まだその顔色は青褪めたままだった。
『しかし、父さん』
『これは息子のルイと嫁のフィオナだ』
顎をしゃくって示したシモンにレオは無言で頷いて、その目配せを受けたニコラスが独語で二人の奥へ向かって呼び掛けた。
『自分達はスコットランド軍だ。君達を捕らえに来たのではない。軍も住民も、皆を救うために来た』
その呼び掛けにゆっくりと開いた扉の向こうに、強張った顔付きの若い男が三人、警戒を解かぬまま暗がりの向こうからギラギラとした瞳を光らせてこちらを見つめていた。
ドイツ陸軍局第四部資材管理部に所属していたというこの三人の若者は三等軍曹で、ケルンの南南西約三十五kmにあるオイスキルヒェンにある兵舎で勤務していたが、ケルン空爆の一報を受けて、緊急出動したのだという。
『だが本部は真っ先に空爆を受けていて壊滅していた。軍学校もだ。空爆の後に進駐してきた連邦軍に追われて、俺達はベルギー領内に逃げ込んだ』
ヴォルフ・ベームと名乗った男は、この年月の間に伸びた黒髪を後ろで縛って、黒い瞳に沈鬱を浮かべて、すっかり馴染んだ仏語でポツリポツリと話した。
『だが、仲間は皆散り散りになった。この森に逃げ込んだ俺達を、ボーマルシェさんは疑いも無く匿ってくれた。もう何日も食べてなかった俺達に食べ物を出してくれて、連邦が居なくなるまで隠れていればいいと、ワイン保管庫の地下の中に密かに俺達を隠したんだ。そんな日々が暫く続いて、連邦軍の姿がすっかり消えた後、俺達は自分達が何処にも行く場所が無い事に気付いたんだ』
遠い目をしているドイツの若者達は、失った祖国を探し求めるかのように悲しげな瞳を空に漂わせた。
ダイニングに置かれた大きな木のテーブルで、向かい合って話を聞きながら、レオも物憂げな瞳を曇らせ、口元で握った拳に自然に力が入っていた。
彼らはその後、恩返しのために、此処で働き始めたのだと言う。各国同様人口の減少が著しかった此処ベルギーでも、労働力人口は激減し、老人だけが残されていた。
それからは、従業員というよりはまるで家族のようにひっそりと暮らしていたのだと、ヴォルフは暗い瞳を俯けた。
『でも直ぐに、此処にもドイツ兵達がやってきた。最初は仲間だと思ったが、応対に出たボーマルシェさんを脅してワインを強奪していく姿を見て、あれはもう仲間じゃないと思った』
仲間の二人の若者も顔を見合わせて、無念の表情で頷いた。
『俺達が此処に居る事を知られたら必ず殺される、そう思って俺達は奴らの前にも出ないように気をつけて暮らしていたんだ』
『武器はあったんだ。でも、此処に来た奴らを撃ち殺しても、別の奴が来てボーマルシェさん一家を皆殺しにするだろうと思ったから手出しは出来なかったんだ』
口々に言い合う若者達を前にして、レオ達も暗い表情で頷いた。
『じゃあ日々の食事は一体どうしていたんだ? 穀物類は栽培してなかったんだろう?』
レオが問い掛けると、ヴォルフは痩せた自分の腕に目を落として深いため息をついた。
『あいつらが僅かな麦を置いていった。それと森の恵みだけが俺達の食糧だった』
長い隠遁生活で真っ白に色の抜けた胸に、くっきりと浮き出した鎖骨の下は、同じ様に肋骨が浮いているのだろうと思って、レオはギリッと奥歯を噛み締めた。
「ウォレス曹長」
「了解しました」
レオが声を掛けただけで察したジャスティンが、踵を返して車に積んできた携行食を取りに戻り、レオは若者とボーマルシェ一家に向かって穏やかに微笑み掛けた。
『簡素だが栄養価の高い食品を少し持って来てある。そして速やかに必要な食糧を届けさせるよう手配するから心配はいらない』
驚いた顔を見合わせている六人が、互いに視線を交わしている中、ダンボール箱を抱えたジャスティンが急ぎ駆け戻って、テーブルに置いたダンボールから次々と食材を取り出し「お湯を沸かして下さ……あ」と、英語で言ってから困り顔でポリポリと頭を掻いた。
『お湯を沸かして下さいだ。いい加減覚えろ』
呆れたニコラスがボソッと呟き、六人の顔からクスクスと笑いが漏れて、気まずそうな顔でそれでも笑っているジャスティンに、皆ゆったりと微笑み掛けた。




