第79話 先生は逃げないから
三人が医療所の台所に集まったのは、昼食の後のことだった。
特に理由があったわけではない。ミアが「台所にお茶があります」と言い、シルヴィアが「休憩します」と言い、カーラが「私も」と言い、なんとなく集まった。アレクは書類の続きをするつもりだったが、ミアに「アレクさん、お茶どうぞ」と呼ばれた。
医術師学校の隣に建てられた医療所の台所は、昔の孤児院の台所をそのまま引き継いだ間取りになっていた。窓から中庭が見える。第二期生の見習いたちが薬草の手入れをしていた。
四人分のお茶が並んだ。
「最近どうですか、みなさん」とミアが言った。
「書類が多い」とシルヴィアが言った。
「夜回りが忙しい」とカーラが言った。
「患者が増えた」とアレクが言った。
「……先生は相変わらずですね」とミアが言い、笑った。
「何が」
「患者のことしか言わない」
「仕事の話を聞かれたので」
シルヴィアが「アレクさんって呼び始めたんですね、ミア」と言った。
「はい。正式な医術師になったので」とミアは言い、少し胸を張った。「合いますよね。アレクさん」
アレクが「……まだ慣れていない」と言った。
「慣れてください」
カーラが「……私は何と呼んでいいのか、まだ決めていない」と言った。「先生でもアレクさんでも、どちらでも違和感がある」
「ではハルト先生は」とシルヴィアが言った。
「……それも変だ」
「アレク、は」
「……それはもっと変だ」
ミアが「カーラさんらしくていいと思いますよ。自分のタイミングで決めてください」と言った。
「そうする」
シルヴィアが「でもこの状況って、客観的に見ると面白いですよね」と言い、お茶を飲んだ。「医術師、元侯爵令嬢、元暗殺者が同じ台所でお茶を飲んでいる」
「そこに転生外科医もいる」とミアが言い、アレクを見た。
「転生のことは広めないでください」
「分かっています。ここだけの話です」
カーラが「……この四人が同じ場所にいる確率はどれくらいだろう」と言った。珍しく柔らかい言い方だった。
「計算できないですね」とミアは言った。
「縁、とでも言うのか」
「縁」とシルヴィアが繰り返した。「教会が全部繋いでくれましたね、ある意味で」
「恩を感じるのは難しいが」とカーラは言い、「でも——ここにいる、ということは事実だ」と続けた。
アレクが「そうですね」と言った。
少しの間、四人でお茶を飲んだ。
ミアが「でも先生——じゃなくてアレクさんは、私たちのことをどう思っているんですか」と聞いた。声に茶目っ気があった。
アレクが「……同僚です」と言った。
「それだけですか」
「……チームです」
シルヴィアが「……」と言い、カーラが「……」と言い、ミアが「まあ、急がなくていいじゃないですか」と言った。にっこりと笑った。「先生は逃げないから」
アレクが「どこにも逃げるつもりはないですが——」と言い始めた。
「でしょう」とミアは言い、笑ったまま、お茶を飲んだ。
アレクは「……」と黙った。顔が熱くなった気がした。湯飲みを両手で持った。それが何かは、まだ言語化できなかった。
* * *
ミアが「そういえば」と話を逸らした。アレクの顔を、これ以上は見ないでおくつもりらしかった。
「論理的に検討すれば」とシルヴィアが続きを取った。これも逸らし方だった。「アレクさんが赤くなっている事実は、いま記録に残しておく価値がある」
「記録するな」とアレクが言った。
「冗談です」とシルヴィアは言い、湯飲みを置いた。けれど目元が緩んでいた。
カーラが立ち上がった。「茶のおかわりを」と言いながら、台所の奥へ歩いていった。背中が、わずかに揺れていた。笑いを噛み殺しているようだった。
ミアが「アレクさん」と呼んだ。
「はい」
「私は急ぎませんよ」
「……はい」
「シルヴィアさんもカーラさんも、それぞれのペースで動いていると思います」とミアは言った。「先生——アレクさんも、アレクさんのペースで考えてください」
「分かりました」
「分かったの?」とシルヴィアが横から言った。
「分かろうとしています」とアレクは言い直した。先日も同じ言い方をした、と気づいた。
シルヴィアが「……あなたって本当に」と言い、続きを飲み込んだ。
カーラが茶のおかわりを持って戻ってきた。湯飲みに茶を注ぎ、自分の席に戻った。「医療護衛官として、この場の警備は問題ない」と言った。
「警備が必要な場面ではないでしょう」とミアが言った。
「念のためだ」
「カーラさん、最近よく口数が増えましたよね」とミアが言った。
「そうか」
「役職の名前が落ち着いたからかもしれません」
カーラが「……かもしれない」とだけ答えた。
四人で湯飲みを傾けた。
窓の外で、見習いたちが何かを笑い合う声が聞こえた。中庭の奥で、コウルが薬草の見本を抱えて走り回っていた。秋の陽射しが、台所の窓から斜めに入っていた。
アレクは指を折った。手術前の癖が、また無意識に出ていた。けれど今日は、確認すべき道具は何もなかった。
ただ、温かい湯飲みが手の中にあった。
「次の患者の予定は」とアレクが言った。話題を変えるつもりだった。
「午後三件です」とミアが答えた。「外来二件と、往診一件」
「往診はどこへ」
「東地区の老婆です。先週も診た方」
「分かりました」
ミアが、アレクの顔を見て、にっこりと笑った。「逃げる暇もないですよ、アレクさん」
アレクが「逃げる気はないです」と、もう一度言った。
台所の中で、湯気が静かに立ち上っていた。
* * *
午後の往診を終えて医療所に戻ると、すでに夕方になっていた。
東地区の老婆は、先週よりも顔色が良くなっていた。「先生のおかげです」と何度も言われた。アレクは「お薬をきちんと飲んでくれているからです」と返した。老婆が「それでも、先生のおかげです」と言った。
帰り道、ミアと並んで歩いた。
「アレクさん」とミアが言った。
「はい」
「お昼の話、気にしないでくださいね」
「気にしていないです」
「嘘です」とミアは言った。「アレクさん、湯飲みを両手で持っていました。気にしている時の癖です」
アレクが「……気づいていたのか」と言った。
「ずっとお傍にいましたから」とミアは言った。
石畳の上を、二人で歩いた。秋の夕暮れの光が、屋根の上に橙色を作っていた。
「シルヴィアさんも、カーラさんも、それぞれにアレクさんに何かを期待していると思います」とミアは言った。「私もです。でもアレクさんは医者なので、患者を診ることが最優先で、それは変わらない方がいいと思っています」
「ありがとう」
「だから、急がないでください」とミアは言った。「私たち、誰も逃げませんから」
「逃げるつもりはないです」
「アレクさんも、逃げないでください」とミアは言い、にっこりと笑った。
医療所の門が見えてきた。
その手前で、シルヴィアとカーラが立って待っていた。シルヴィアは扇子を持ち、カーラは壁に背中をつけていた。二人とも、何かを待っているような雰囲気だった。
「往診から戻りました」とアレクが言った。
「ご苦労様でした」とシルヴィアが言った。
「お疲れ様」とカーラが言った。
四人で医療所の門をくぐった。
誰も、お昼の話には触れなかった。けれど、四人とも歩く速度が、いつもより少しだけ近かった。距離が、ほんの一歩ぶん詰まっていた。
アレクは指を一本ずつ折った。手術前の癖だった。けれど今日は、確認すべき道具は何もなかった。ただ、四人の足音が、同じ石畳の上で響いていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




