第80話 夜明けの往診
知らせが来たのは、夜明けの一時間前だった。
「下町の子供が高熱を出している」——使いの男がそう言った。「三日前から熱があって、今朝から意識が混濁しはじめた。教会に行ったが、夜明け前は門が閉まっていて。ハルト先生のことを聞いて来ました」
「分かりました、行きます」とアレクは言い、道具袋を手に取った。
道具袋の中身は、最初の頃と比べると、ずいぶん整っていた。煮沸消毒した麻布、酒精、解熱の薬草、聴診の管、縫合の糸、メス。一つずつ、指で確認した。
廊下を歩いて、外に出た。
王都の下町は医療所から歩いて二十分ほどだった。夜明け前の空は暗く、星が出ていた。石畳が冷えていた。
三分ほど歩いたところで、後ろから足音がした。
振り返ると、ミアだった。道具袋を抱えて走ってきた。
「……起きていたのか」
「使いの声が聞こえました」とミアは言い、息を整えた。「先生——じゃなくて、アレクさん一人で行かせるわけにいかないでしょう」
アレクが「付いて来なくていい」と言った。
「来ます」とミアは言った。
そのまま並んで歩いた。
もう一ブロック行ったところで、また足音がした。シルヴィアだった。外套を羽織ったまま、エレナも連れずに一人で来ていた。
「何ですか」とアレクが言った。
「私も行きます」とシルヴィアは言った。「子供が重症なら、記録を取る人間が必要です」
「……記録係ではないでしょう」
「今日は記録係です」とシルヴィアは言い、アレクの隣に並んだ。
三人で歩いた。
下町に入る手前の路地の角で、カーラが壁に背中をついて待っていた。
「……どこから情報を」
「使いが来た方角から、行き先は分かる」とカーラは言い、三人の顔を一度見た。「護衛として同行する」
「全員来るつもりか」とアレクは言った。
「そうなる」とカーラは言った。
四人で夜明けの王都を歩いた。
石畳を踏む四人の足音が、静かな路地に響いた。遠くで鶏が鳴いた。東の空が、ほのかに白み始めていた。
「前に、夜中の往診は一人でしていた」とアレクは言った。独り言のような声だった。
「知っています」とミアが言った。「でも今は違います」
「そうですね」
下町の路地を抜けると、使いの男が立って待っていた。「ありがとうございます」と言い、家の中に案内した。
子供は七歳くらいの女の子だった。薄い布団の上に横になっていた。顔が赤く、呼びかけに反応が遅かった。
アレクが「ミア、感知を」と言った。
「はい」とミアは言い、両手を翳した。「……高熱、脱水、呼吸は安定しています。臓器への影響は今のところない。ただ熱が高い——四十度近い」
「感染症の可能性があります」とアレクは言い、皮膚と喉を確認した。「発疹はない。咽頭に軽い炎症。細菌性の喉頭炎でしょう」
「薬草の処方で対応できますか」
「できます。ただ解熱と水分補給が先です」
シルヴィアがすでに記録を取り始めていた。カーラが扉の外で周囲を確認していた。
三十分後、子供の熱が下がり始めた。水を少量ずつ飲ませた。目がはっきりしてきた。
「おじさん、誰?」と子供が言った。
「医者です」とアレクは言った。
「……魔法の人じゃないの?」
「魔法は使えません」とアレクは言った。「でも治ります」
子供が「……うん」と言い、また目を閉じた。今度は眠る顔だった。
親が「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返した。
四人が家を出ると、東の空が赤くなり始めていた。夜明けだった。王都の石畳の上に、朝の光が広がり始めた。遠くの教会の塔が橙色に染まっていた。
「次は誰を救いに行く?」とミアが言った。
「決まってる」とアレクは言った。「次の患者の所だ」
誰も何も言わなかった。でも誰も離れなかった。
四人が朝日に向かって歩き出した。
* * *
制度が変わり、学校が生まれ、医術師が増えた。それでも四人の足音は、次の角へ向かって続いていた。
石畳の上に、長く伸びた四つの影があった。アレクの影、ミアの影、シルヴィアの影、カーラの影。歩く速度がそれぞれ違っていて、影の頭の位置がずれていた。それでも一歩ごとに近づき、また離れ、また近づいた。
遠くで、市場の準備をする声が聞こえ始めた。パンを焼く匂いが風に乗ってきた。教会の鐘が朝の祈りを告げた。鐘の音は、もう以前のような重さを持っていなかった——ただの朝の音になっていた。
「アレクさん」とミアが言った。
「はい」
「次の患者は、誰ですか」
「分かりません」とアレクは言った。「来たら診ます」
「それが答えですよね」とミアは言った。
シルヴィアが「記録は、いつも通り取ります」と言った。「次の患者の名前と症状を残します」
「お願いします」
カーラが「先導は私が」と言い、半歩前に出た。「医療護衛官の仕事だ」
「お願いします」
四人で歩いた。誰も急いでいなかったが、誰も止まらなかった。
前世の田村亮介として、救急外科医として三十年——一人で走り続けた。手術台に倒れ込むように生きて、誰かと並んで歩く時間は、ほとんど持てなかった。
この世界に来て、最初の数年はやはり一人だった。道具を作ることから始めた。煮沸消毒の鍋を見つめる夜が長かった。
今は、隣に三人がいる。
誰かと並んで歩くのが、これほど自然になる日が来るとは思っていなかった。
石畳の先に、橙色の光が広がっていた。光は王都の屋根を順に染め、医療所の方向へ伸び、医術師学校の塔の先で一度立ち止まったように見えた。
「次の角まで」とアレクは言った。
「はい」と三人が同時に答えた。
声が揃った。それがおかしかったのか、ミアが小さく笑った。シルヴィアが「揃いましたね」と言った。カーラが「……」とだけ言った。
夜明けの光が、石畳の先まで伸びていた。
四人の足音が、次の角へ向かって続いた。
角を曲がる時、シルヴィアが「医療所に戻ったら、朝食を作ります」と言った。
「あなたが作るのか」とカーラが聞いた。
「私が作ります。エレナはまだ寝ているので」
「料理はできるのか」
「できます」とシルヴィアは言い、「最近、覚えました」と付け足した。
ミアが「シルヴィアさんの目玉焼き、半熟がちょうどいいんです」と笑った。
「それは、いい知らせだ」とカーラが言った。
「カーラさんも食べていきますか」
「いただく」
四人で歩きながら、その日の朝食の話を続けた。患者の話、書類の話、見習いの話。何気ない会話だった。けれど一つ一つの言葉が、次の日常へと繋がっていく言葉だった。
医療所の方角から、薬草を煮る匂いが流れてきた。誰かが朝の準備を始めていた。コウルかもしれないし、見習いの誰かかもしれなかった。
アレクは前を見た。
石畳の先に、医療所の屋根が見えた。屋根の上に、夜明けの光が降りていた。医術師学校の塔も、その隣で朝日に染まっていた。
次の患者は、まだ来ていなかった。けれど、いつか必ず誰かが来る。来たら診る。
それだけのことを、ずっと続けていく。
四人の足音が、医療所の門の前まで近づいた。
夜明けの王都に、新しい一日が始まっていた。
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