第77話 どちらの方がずっと困る
シルヴィアが「公衆衛生局長官補」に就任したのは、法律が成立してから半年後のことだった。
「局長官補」というのは新しく作られた役職で、実態は公衆衛生基本法の運用監督と各地の衛生状態の把握を担う仕事だった。シルヴィアが「必要な役職だから、私がやります」と言って自分から作った枠でもあった。
貴族議会では「侯爵令嬢が官吏の真似事をするのか」という声もあったが、シルヴィアは「真似事ではありません。仕事です」と一蹴した。父のハルトマン侯爵も、最終的には「娘の意志は尊重する」と認めた。
就任から半年経って、シルヴィアの執務室は医術師学校の隣の建物に置かれた。アレクの執務室と廊下を挟んで向かい合う配置だった。
二人で同じ書類を見る時間が、自然と日課になっていた。
その日も、アレクと並んで書類を処理していた。
医術師学校の予算書、各地医療所への補助金申請、衛生基準の改定案——二人とも別々の書類を見ていたが、同じ部屋で同じ机の向かいに座っていた。
「これを見てください」とシルヴィアが書類を差し出した。「南部の農村地区の報告書です。衛生状態が改善されていますが、医術師が一名しかいない。来期は二名にする必要があります」
「学校の卒業生の配置を調整する必要がありますね」
「第二期生が来春卒業します。その中に南部出身者が三名います。調整できれば」
「ミアに確認してもらいましょう。彼女が今、配置リストを管理しています」
シルヴィアが「……ミアが管理、ですか」と言い、ペンを止めた。「ミアのことを、そういう口調で言うんですね、最近」
「そうですか?」
「以前は『ミアに言っておく』という言い方でした。今は『ミアに確認してもらう』です」
「彼女が一番把握しているので」
「そうですね」とシルヴィアは言い、書類に目を戻した。「……あなたって、鈍感なの?」
アレクが「何のことですか」と言った。
「あるいは」とシルヴィアは言い、ペンを持ったまま顔を上げた。「気づいていて無視しているの、どっちなの」
「何を気づいているかが分からないです」
「……」
シルヴィアが少し間を置いた。アレクを見た。目がいつもより直接的だった。
「後者だと言ったら?」とアレクが言った。
シルヴィアの手が止まった。
「後者——気づいていて、無視しているということですか」
「どちらかを聞かれたので」
「……」
シルヴィアが「そっちの方がずっと困る」と言った。顔が赤くなっていた。
初めて見る顔だった——シルヴィアが、感情を抑えきれずに赤くなっている顔。いつも論理で整えてくる人が、論理が追いつかない顔をしている。
「困る、というのはどういう意味ですか」とアレクが聞いた。
「……分かって聞いているのですか」
「分かっているかどうかが分からないので聞いています」
シルヴィアが書類を机に置いた。「……今日はここまでにします。続きは明日」と言った。
「まだ終わっていないですが」
「分かっています」とシルヴィアは言い、立ち上がった。「でも今日はここまでにします」
アレクが「……そうですか」と言い、自分の書類に目を戻した。
シルヴィアが扉に向かいながら「あなたって本当に……」と言い、続きを飲み込んだ。
扉が閉まった。
アレクは書類を見た。後者だと言ったのは、正確ではなかった——正確に言えば「気づいているが、どう対応すればいいか分からない」だった。
ペンを持ち直した。
前世の三十年間、誰かにそういう問いを向けられた経験がなかった。「そっちの方がずっと困る」という言葉が、まだ頭に残っていた。
* * *
夕方、エレナが書類を運んできた。
「お嬢様のご様子はいかがでしたか」とエレナが聞いた。シルヴィアの侍女としての勤続も長くなり、最近は「ご機嫌伺い」が口癖になっていた。
「……普通でした」とアレクは答えた。
「普通、ですか」とエレナは言い、書類を机の角に置いた。「お嬢様、戻られてからずっと扇子を握ったまま固まっておられましたが」
「そうですか」
「お嬢様が扇子を握って動かないのは、論理が追いつかない時の癖です」とエレナは言った。「私、十年お仕えしているので分かります」
「……」
「ハルト先生」とエレナは言った。声を少し落としていた。「差し出がましいことを申しますが、お嬢様は——感情を出すことに、慣れておられないのです」
「分かっています」
「分かっておられるのですか」
「分かろうとしています」とアレクは言い直した。
エレナが「それで結構です」と言い、礼をして部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、廊下に響いた。
アレクは机の上の書類を見た。先ほどシルヴィアが置いていった南部農村の報告書が、そのままになっていた。ページの端に、シルヴィアの細い字で「来春、要・配置調整」と書かれていた。
その字を見ながら、アレクは指を一本ずつ折った。
「気づいていて、無視している」——確かにそう答えてしまった。けれど無視しているわけではなかった。気づいてはいる。ただ、自分がどう動けばいいのかが、分からなかった。
救急外科医として三十年。患者の体の状態は、見れば分かった。何をすべきかも、即座に判断できた。
けれど目の前で赤くなった顔について、何をすべきかは——どの教科書にも書かれていなかった。
窓の外で、秋の風が吹いていた。
アレクは書類の上にペンを置き、灯りを点けた。続きを片付けるしかなかった。「明日」とシルヴィアが言った以上、明日も同じ机の向かいに、彼女が来る。
* * *
翌朝、シルヴィアは普段より早く執務室に来た。
アレクが朝の往診から戻ると、すでに机の向かいに座って書類を広げていた。扇子は手元になかった。代わりにペンを握っていた。
「おはようございます」とシルヴィアが言った。声がいつも通りだった。
「おはようございます」とアレクが返した。
「南部の配置調整、ミアに渡してきました」とシルヴィアは言った。「来春の卒業生三名のうち、二名を南部、一名を東部に振り分ける案で進めます」
「了解です」
「議会の承認は来週です」
「分かりました」
仕事の話だけが続いた。
昨日のことに触れる気配は、シルヴィアにはなかった。アレクも触れなかった。互いに、いつも通りの距離を保ったまま、書類を進めた。
けれど、机の上の空気は、昨日と少しだけ違っていた。
シルヴィアがペンを止めることが、いつもより多かった。何か言いかけて、また書類に目を戻すことが、いつもより多かった。
アレクは、それに気づきながら、何も言わなかった。
昼前に、シルヴィアが「お茶を入れます」と言って立ち上がった。普段はエレナが入れてくれる役目だったが、今日はシルヴィア自身が湯を沸かし、二つの湯飲みを運んできた。
「ありがとうございます」とアレクが言った。
「……どういたしまして」とシルヴィアが言った。
お茶を一口飲んでから、シルヴィアが「昨日の話ですが」と切り出した。
「はい」
「あれは、忘れてください」とシルヴィアは言った。「今すぐ答えが必要な話ではありません」
「分かりました」
「ただし——忘れすぎないでください」とシルヴィアは続けた。「私が問うたという事実は、覚えておいてほしいのです」
アレクは「分かりました」と、もう一度言った。
シルヴィアが「それで結構です」と言い、書類に目を戻した。
けれど、その手は、扇子をポケットの上から軽く撫でていた。本人は気づいていなかった。アレクは気づいたが、何も言わなかった。
窓の外で、秋の風が吹いていた。机の上の二つの湯飲みが、湯気を立てていた。書類のページの音と、ペンが紙を擦る音が、執務室に静かに重なった。
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