第76話 アレクさんと呼んでいいですか
一年後。
ハルト医術師学校の第一期生二十名が各地で活動を始め、二期目の入学希望者が既に六十名を超えていた。王都の医療所は今や三名の医術師が常駐し、アレク一人でなくても回る体制になっていた。
ミアが試験に合格した、という知らせを聞いたのは、学校の廊下でカリキュラムの改定案を確認しているときだった。
使者が来て「ミア様が……」と言い始める前に、ミアが自分で廊下を走って来た。小走りから全力走行になっていた。記録帳を片手に持ったまま走るのは相変わらずだった。
「先生!」
「……合格したのか」
「はい!」とミアは言い、小走りで止まった。「正式な医術師資格です。実技満点でした。魔力感知の精度について試験官から特別コメントがあって……」
「よかった」とアレクは言った。
「先生に一番最初に言いたかったんです」
「ありがとう」
ミアが息を整えた。学校の廊下は空気が通っていた。秋の終わりから一年経った、秋の空気だった。
ミアの両手が、胸の前で握られていた。
昔からの癖だった——感動すると、自然にその姿勢になる。けれど今日のミアは、いつもとどこか違っていた。視線が下に落ちていない。アレクをまっすぐに見ていた。
* * *
「最初に診た患者のことを覚えていますか」とミアが言った。
「七歳の男の子だ。骨折」
「腕の。私が魔力感知で骨片の位置を伝えた最初の症例です」
「お前の声が震えていた」
「はい。震えていました」とミアは言った。「あの時は、自分が役に立てるとは思っていませんでした。先生が『お前は俺の右腕だ』と言ってくれた——あれが、私が初めて自分を肯定できた瞬間です」
アレクは黙って聞いていた。
「あれから——ずいぶん経ちました」とミアは言った。指を折って何かを数えるような言い方だった。「先生に教わった日々の中で、私は私の医術師になりました。だからこそ、呼び方を変えたいんです」
「先生」とミアは言った。
「何ですか」
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
ミアが「先生じゃなくて、アレクさんって呼んでもいいですか」と言った。
廊下が静かになった。遠くで誰かが道具を動かす音がした。
アレクが「……それは、どういう意味だ」と聞いた。
ミアが「正式な医術師になりました」と言った。「だから先生と弟子、ではなくなりました。対等……というのは違うかもしれないけど。でもずっと先生って呼び続けるのは——今の気持ちに合わない気がして」
「今の気持ちというのは」
ミアが少し赤くなった。「……今の気持ちは、今の気持ちです」
アレクが「……具体的に言ってもらわないと分かりにくい」と言った。
「今はまだ言いません」とミアは言い、首を傾けた。「でも呼び方は変えます。アレクさん、と呼んでいいですか」
アレクが「……」と黙った。
「……それは、どういう意味だ」と、もう一度聞いた。さっきと同じ言葉だった。
ミアが「さっきも同じことを言いましたよ」と言い、クスリと笑った。「いいですか?」
「……どうぞ」
「ありがとうございます」とミアは言い、「アレクさん」と呼んでみた。
声に出してみると、思っていたより緊張しなかった。むしろ、ずっとそう呼びたかったのかもしれないと思った。アレクが、ひと呼吸置いた。廊下の空気が動いた気がした。同じ廊下、同じ二人なのに、何かが変わった感触があった。
アレクは「……慣れるまで時間がかかりそうだ」と言った。
「私も慣れるまで少しかかると思います。でもこれから、そう呼びます」
ミアが「それでは次の患者を」と言い、歩き出した。二歩ほど進んでから「アレクさん、今日の午後は外来が三名です」と言い直した。自然だった。「先生」と呼んでいた頃より、わずかに距離が縮まった声の質だった。
アレクはその背中を見ながら、「……それは、どういう意味だ」と三度目の同じ言葉を声に出した。
ミアが歩きながら振り返り、「ご自分で考えてください」と言い、また笑って廊下を進んでいった。
* * *
アレクは廊下に残って、しばらく窓の外を見ていた。
医術師学校の中庭では、第二期生の候補たちが薬草の見本を覗き込んでいた。十二歳から二十歳までの平民の子たちだった。教会の認定試験の銀貨五十枚を払えなくて医術への道を諦めかけた者ばかりだった。
その中に、コウルがいた。孤児院から通ってきている。八歳だったコウルが、もう志願者として並んでいる年齢になっていた。
窓越しに、コウルがふと顔を上げてアレクを見つけ、両手を上げた。アレクが小さく頷き返した。
ミアの足音は、もう聞こえなくなっていた。
「アレクさん」——という呼び方が、まだ耳の中で揺れていた。
前世で田村亮介と呼ばれていた頃、後輩や看護師が自分の名前を呼ぶ声は、いつも仕事の連絡だった。「先生」も同様だった。立場の名前として呼ばれていた。
今ミアが選んだのは、そのどれでもない呼び方だった。
アレクは指を一本ずつ折った。手術前に道具を確認するときの癖が、無意識に出ていた。けれど今日は、確認するべき道具は何もなかった。
ただ、廊下の空気が、確かに変わっていた。
「……それは、どういう意味だ」と、もう一度声に出した。
誰もいない廊下に向かって。
答えは、自分で考えるしかないと、ミアが言い残していた。
* * *
その日の午後、外来診療を終えてから、アレクは中庭に出た。
ミアが薬草の棚の前で、見習いに何か説明していた。指で薬草の葉を摘み、匂いを嗅がせ、用途を一つずつ伝えていた。見習いの少女が頷きながらメモを取っていた。
ミアの教え方は、アレクが最初に教えた頃の手順とほとんど同じだった。匂いを覚えさせ、形を覚えさせ、最後に効能を覚えさせる。覚える順序を間違えないこと——医療の基本だった。
ミアが顔を上げ、アレクに気づいた。
「アレクさん」と呼んだ。
声が、自然に出ていた。
午後になっても、その呼び方は変わらなかった。ミアの中で、もう完全に定着していた。
アレクは中庭の縁に立って、薬草の棚を見ていた。最初の頃は、廃品で作った木箱を地面に並べただけだった。今は石組みの花壇になり、種類別に区画が分かれていた。
ミアが見習いに「ここまで」と言い、こちらに歩いてきた。
「何か御用ですか」とミアが聞いた。
「いえ」とアレクは言った。「教え方が、よかったので」
「ありがとうございます」とミアは言った。「先生——アレクさんが教えてくれた順序です」
「お前のやり方になっている」
ミアが少し首を傾けて笑った。「自分の医術師になりました」とだけ言った。
以前、アレクが「お前はお前の医術師になれ」と言った——その答えを、今日になって、ようやく聞き返したような気がした。
「合格、おめでとう」とアレクは、改めて言った。
「ありがとうございます、アレクさん」とミアは言い、両手を胸の前で握った。
昔からの癖だった。けれど今度は、視線がアレクをまっすぐに見ていた。
ミアが「次の見習いの指導に行きます」と言い、薬草の棚の方へ戻っていった。アレクはその背中を見送った。
今日の廊下の出来事は、まだ整理がついていなかった。けれど、ミアが新しい呼び方を選んだ意味——それを言葉にする必要は、急がなくていいのかもしれないと思った。
今は、合格の知らせを受け取った日であって、それで十分だった。
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