第75話 ハルト医術師学校開校
開校宣言の日、王都の広場に人が集まった。
朝から空が高く、薄い雲が西から東へ流れていた。冬の入り口の光は柔らかかった。広場の石畳が冷たかったが、集まる人はだんだんと増えていった。子供を連れた家族、杖をついた老人、商売道具を抱えたままの店主——医療所で診たことのある顔が、今日は思った以上にいた。
アレクは演壇の前に立った。高い演壇ではなかった。木材を三段重ねた台だった。でもここから見ると、広場がよく見えた。百人以上の民衆がいた。商人、職人、農夫、子供を連れた母親——医療所で顔を見た人も混じっていた。孤児院のエルダが子供たちを連れて端の方に立っていた。コウルも来ていた、傷を庇いながら。
ハルトマン侯爵の姿も、後方に見えた。シルヴィアの父だった。視察として来た——というのが名目だが、おそらく娘の顔を見に来たのだろう、とアレクは思った。何度か頷いて見せると、向こうも軽く会釈を返した。
「ハルト医術師学校を、本日より開校します」
声が広場に広がった。
「この学校では、魔法の有無は関係ありません。知識と技術と、患者を救いたいという意志だけを問います。治癒魔法が使えなくても、生まれが平民でも、年齢が若くても——学ぶ意欲があれば入れます。卒業すれば、医術師として王国に認められた資格を持てます」
広場が静かになった。
「この制度を作るまでに、長い時間がかかりました。その間に、本来助けられたはずの患者が亡くなっています。それは変えられない事実です。でもこれからは、変えられます。ここで学んだ医術師が各地に散れば——治療費を払えないから死ぬという状況を、少しずつ減らせます。俺一人には限界がある。でも学校が動けば、次の世代が動く」
声を一度切った。広場の人々を見渡した。後ろの方では、子供を肩車した父親が、こちらを見ていた。子供の手が父親の頭の上で動いていた。
「俺がこの世界に来たのは、偶然のはずでした。でも、偶然をどう使うかは選べます。俺は医者として生きると選びました。一人ではなく、隣にいる人たちと一緒に動くと選びました。今日この場所が、その答えです」
一人が拍手した。続いて数人が拍手した。それが広がった。
最初に手を叩いたのは、最前列にいた老婆だった。エルダだった——孤児院の管理人で、アレクをこの世界で最初に受け入れた人物。彼女が両手を打った瞬間、その隣のコウルが続いた。それを見て、商人が、職人が、母親が——次々と手を打ち始めた。広場が音で満たされるまで、十秒もかからなかった。
アレクは拍手の音を聞きながら、演壇の後ろを見た。
三人がいた。
ミアが両手を胸の前で握って、目に光を溜めていた。泣いていないが、泣きそうだった。いつもの「感動すると両手を胸の前で握る」癖だった。少し背伸びをして、アレクの後ろ姿の向こうの広場を見ようとしていた。
シルヴィアが腕を組んで立っていた。いつもの姿勢のよさで、口元がわずかに緩んでいた。眉間の皺は今日はない。代わりに、頬の色が普段より明るかった。日差しのせいかもしれなかった。
カーラが壁に背中をつけて、腕を組んで、アレクを見ていた。いつもと変わらない顔だったが、目がいつもより柔らかかった。「今日くらい、屋根の上にはいないんですね」とシルヴィアが小声で言うと、カーラが「今日は壁で十分です」と返した。
アレクは広場を向いた。
俺は転生して、何を変えたかったんだろう——今日初めて、その答えが出た気がした。これだ。
拍手がまだ続いていた。
この学校が続いていけば、ここで学んだ医術師が王都の外に出る。南の農村にも、北の山間地にも。治療費を払えない平民の子が、魔法を持たない者が、医療を受けられるようになる。それは教会と戦ったことよりも、一人で手術を成功させたことよりも、遠くまで届く話だった。十年後、二十年後——自分が知らない場所で、自分が会わない患者が、ここで学んだ医術師の手で救われる。それを今日、始めた。
「入学の受け付けは来週の月曜日から始めます」とアレクは言った。「場所はここから北に二百メートルの旧倉庫です。学費は免除します。道具は学校が貸し出します。必要なのは、やる気だけです」
広場がまた沸いた。
最前列にいた若者の何人かが顔を見合わせた。「俺、行ってみるかな」という声が、後ろまで聞こえた。隣の女性が「行きなよ」と背中を叩いていた。学費免除という言葉が、どれほど重い意味を持つか——この広場の人々は、誰もが分かっていた。
アレクは演壇を降りた。
ミアが「おめでとうございます、先生」と言った。目が赤かった。
「ありがとう」
ミアが小さく洟をすすって、「先生」と言ってから、すぐ「アレクさん」と言い直した。それから笑った。「両方使います、しばらくは」と言った。アレクが「それでいいです」と短く返した。
シルヴィアが「……これで終わりではないですよ」と言った。声の調子は普通だったが、目が笑っていた。
「分かっています」とアレクは言った。「今日は始まりです」
カーラが「……次は何をするんだ」と言った。
「次の患者の所に行く」とアレクは言った。「それだけです」
ミアが「……それ、知ってます」と笑った。シルヴィアも扇子を畳んで「予想通りです」と言った。
カーラが「……変わらないな」と言い、かすかに笑った。
変わるとすれば——患者を一人で診ていた頃から、今日この三人がいる場所に変わった。それで十分だった、と今は思えた。
広場の片隅で、ドナトゥスの姿を一瞬だけ見たような気がした。神官の法衣ではなく、簡素な灰色の上着の老人。視線が合った気がしたが、確かめる前に人混みに紛れて見えなくなった。来ていたのか、見間違いだったのか——アレクは確かめなかった。
拍手がまだ続いていた。一年前なら、自分はこの場所に立っていなかった。半年前なら、立っていてもこの三人の姿を背中に感じることはなかった。今、自分は立っていて、三人がいる。それだけが、確かなことだった。
次の患者の所に行く——その言葉に、今日初めて、続きがあった。「次の患者の所に、四人で行く」と、心の中でだけ書き加えた。声には出さなかった。声に出さなくても、たぶん三人には伝わっている、と少しだけ思った。今は、それで十分だった。
第5章はここで区切りです。お読みいただきありがとうございます。
次回からはエピローグです。彼らが作った新しい世界の先を描きます。




