第73話 多数決
ハルト医術師学校の工事が始まって一週間後、カーラが情報を持ってきた。
「強硬派の残党が、学校の工事現場を狙っています」とカーラは言った。「今夜か明日夜に動く可能性があります。ドナトゥスの宣言を受け入れなかった一部の神官が、独自に行動しています。目的は工事の妨害——最悪の場合、放火を試みる可能性があります」
地図を机の上に広げた。学校の予定地に赤い印、その周辺の路地に黒い線が引かれていた。残党が使う可能性のある経路だった。三本ある——一本は東の城門経由、一本は商業街の裏道、一本は孤児院寄りの細い路地。残党の人数は把握できているだけで五名、隠れている可能性のある者を含めても十名以下、とカーラは付け加えた。
「工事を止めるわけにはいかない」とアレクは言った。
「止める必要はない。ただ、夜間に無人にしておくのは危険です。警備を増やすか、別の対策が必要です」
「囮が有効か」
「状況次第では」とカーラは言った。「ただ、適した人間が誰かという問題があります」
アレクが「俺が囮になります」と言った。
部屋が静かになった。一秒ほどの沈黙の後——
「駄目です」とミアが言った。
「駄目です」とシルヴィアが言った。
「駄目です」とカーラが言った。
三人がほぼ同時だった。声のタイミングが揃いすぎて、少し間の抜けた空気になった。
三人が一瞬、お互いの顔を見合わせた。台詞が完全に重なったことに、自分たちでも驚いていた。それからミアが小さく笑い、シルヴィアが扇子を口元に当てた。カーラだけが真顔だったが、目の奥が揺れていた。
アレクが「……珍しく、俺が多数決で負けた」と言った。
「多数決ではありません」とシルヴィアは言った。眉間に皺が寄っていた。「全員が同意見なだけです」
「意味は同じです」
「違います。多数決は少数意見を押し切ることです。今回は満場一致の反対です。先生の提案に合理性がないから、全員が反対している」
「……つまり俺の意見が通らないという結果は同じですね」
「そうです」とシルヴィアは言い、机の上の地図を広げた。「現実的な話をします。先生がそれをすることに意味がない。先生は医療で役立つ人間です。格闘は専門外です。傷を負ったら困ります。先生に何かあった場合、誰が学校を動かすんですか」
シルヴィアが机を指で軽く叩いた。それは議会で論点を整理する時の癖だった。「役割分担です。戦術論理の問題ではなく、適材適所の話です。先生が自分で動こうとするのは、その配置を歪めます」
「俺でなければ誰がやるんですか」
「何もしません」とカーラが言った。「その発想を捨てましょう。工事現場の夜間警備を増やす。私が陣頭に立ちます。残党の動きは今日中にもう一度確認できます。事前情報があれば、動く前に対処できる」
「それで十分ですか」
「十分です」とカーラは言った。「先生は病人でも負傷者でもない。でも今、先生がいなくなると困る患者がいる。この役割を引き受けることは、その患者への責任を放棄することです」
アレクが「……それは、正しい指摘です」と言った。
「工事現場には私も行きます」とミアが言った。「何かあったとき、怪我人が出るかもしれない。医術師がいた方がいい」
カーラが「……一緒に来るなら、合図の出し方を教えます。私の合図があるまで、絶対に動かないこと」
「分かりました」
「先に動かないこと。先の判断で動かないこと。必ず確認してから」
「この前の路地のことですか」
「……あれも、結果的によかっただけだ。今回は私が隣にいる。信頼してほしい」
ミアが「……はい」と言った。声が少し変わった。信頼しています、ではなく、カーラへの信頼を新たに積み上げている声だった。
以前なら、こういう場面でカーラに「私もやります」と言えなかった。半年前のミアなら、ただ頷くだけだった。今は、頷いた後で「それで自分は何をすべきか」を考えていた。
シルヴィアが「私は議会側で強硬派の動きを記録します。事件が起きた場合、法的対処ができるよう証拠を整えます」と言った。
「俺の役割は何ですか」とアレクが聞いた。
「今夜は医療所にいてください」とミアは言った。「何かあればすぐ呼びます。でも先生に呼ぶ事態が起きないことを祈っています」
「それでは何もしないことになります」
「何もしないのが今夜の役割です」とカーラが言った。「他の医療所に応援に出るとも言わないでください。今夜だけは、医療所の中にいてください」
「……分かりました」
三人の話し合いが終わった。それぞれが動き出した。
アレクは「……分かった」と言い、椅子に残った。
「珍しく、俺が多数決で負けた」と独りごちた。
「それは多数決じゃありません」とミアが振り返らずに言った。廊下から声が来た。「全員正しいことを言っているから、全員反対しているんです」
「……同じことです」
「違います」とミアは言い、出ていった。
アレクは「……なぜ廊下で聞いているんですか」と言ったが、返事は来なかった。足音が遠ざかっていった。
窓の外で、薄い雲が太陽を一度横切った。部屋の中の影が一瞬だけ濃くなり、また戻った。
多数決で負けた、というのは、半分は冗談だった。半分は本気だった。前世から含めて——自分の判断が「論理的に間違っている」と他人に言われて取り下げた経験は、ほとんど記憶になかった。今日それが起きた。三人が同時に「駄目です」と言って、自分の判断より三人の判断の方が現実的だと示した。
悪い気はしなかった。むしろ——少し新しい感覚だった。
アレクは机の上の地図に視線を戻し、ペンを取った。今夜の警備配置を、自分が動かないという前提で組み直した。ミアの位置、カーラの位置、応援の動線。それを書きながら、自然と「もし何かあればこの位置から駆けつける」という線も追加していた。動かないつもりだったが、動ける用意は整える——それが今夜の役割だ、と決めた。
道具袋を確認した。止血帯、縫合針と糸、消毒液、副木の木材。緊急用一式が整っていた。それを玄関の脇に置いておけば、走り出す時に時間が要らない。手の動きが先行している自分に気づいて、アレクは小さく苦笑した。「動かないでください」と言われてから、五分も経たないうちに、動く準備をしていた。
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