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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第72話 前世の夜

 学校の設立申請書が全部揃った夜、アレクは一人だった。


 ミアは帰った。シルヴィアも書類を仕上げて帰った。カーラは夜回りに出ていた。医療所の灯りはアレクの部屋だけになっていた。


 窓の外で梟が一度鳴いた。それきり、また静かになった。風もなかった。


 机の上には筆と硯と、書きかけの羊皮紙が並んでいた。明日からの作業のために、自分用のメモを取っておくつもりだった。でもペンを握って、書き始める気にならなかった。


 医療所の中の他の部屋は、すべて灯りが消えていた。誰もいない静けさは、前世の当直明けの病院の廊下に似ていた。違うのは、ここには「帰る場所」がもう既にあるということだった——医療所そのものが、いつの間にか「帰る場所」になっていた。


 机の上に申請書の写しが重なっていた。カリキュラム草案、教員候補のリスト、施設の図面。一か月かけてまとめた書類だった。シルヴィアが法律的観点で整え、ミアが記録書式を揃え、カーラが施設の安全確認をした。自分一人でやった書類は、実際にはほとんどなかった。


 アレクはペンを置いた。


 珍しく、何もしない時間が来た。次にやることを探す前に、動きが止まった。


 手術と手術の間、待機室で椅子に座る瞬間に近かった。次の患者が運ばれてくるまでの十分間。その十分間に、自分が何を考えていたか、前世ではほとんど思い出せなかった。多分、何も考えないようにしていた。今夜は、考えてもいい時間だった。


 前世のことを考えた。


 田村亮介。三十歳。救急外科医。手術室で死んだ。


 向こうでの記憶は鮮明だった。手術台の上の患者の顔、血管の色、縫合糸の感触——そういう記憶は消えない。重症外傷で搬送されてきて、手を尽くして、それでも間に合わなかった人たちの顔が、今でも出てくることがある。


 手術室の蛍光灯の白さ、心電図のモニター音、麻酔器の作動音——あの空間にしかない感覚。今この世界には存在しない技術だった。それでも、覚えている。手が覚えている。指の角度、力の入れ方、糸を結ぶ時の指先の小さな動き——全部、向こうで身につけたものだった。


 アレクはペンを机に置いた。


「向こうでも、患者のことしか考えてなかった」とアレクは独りごちた。


 それは事実だった。誰かの隣にいることを考えたことがなかった——一人でいた方が、患者に集中できると思っていた。三十年、それを正しいと信じていた。多分、向こうで死んでいなければ、その信念のまま定年まで走っていただろう。家族を持つことも、誰かと暮らすことも、考えなかった。患者がいる、それで十分だった。


 今でも患者は最優先だ。それは変わらない。ただ、それだけで生きていく必要は——もしかしたら、なかったのかもしれない。


 亮介として死んだとき、誰にも看取られなかった。それを当時は寂しいとは思わなかった。一人で死ぬのが医者の仕事のうちだと、勝手に思い込んでいた。今この世界で、もし同じ状況になったら——三人のうちの誰かが、間違いなく駆けつけてくる。それを当然のことのように想像してしまう自分が、今夜は新しかった。


 アレクは手元を見た。


「魔法があれば助かったかもしれない」と思っていた、あの頃。この世界に来てみたら魔法があっても同じことが起きていた。制度の問題だった、人の問題だった——そこに気づいたのは正しかった。


 もし向こうで死ななかったら、と考えてみた。考えても意味のない問いだった。でも今夜は、考えてみた。多分、定年まで救急外科医を続けて、同じ病院の中で老いて、同じ手術室で次の世代に何かを残そうとして、そのまま死んだだろう。それも悪くない人生だった。ただ——今夜の蝋燭の隣で考えると、何かが足りない気がした。


 でも今夜は、別のことを考えていた。


 三人の顔が浮かんだ。


 ミアの「……うん」という笑顔。師弟の距離が縮まった感覚。あれが何だったのか、まだ言葉にできていない。「アレクさん」と呼ばれたとき、ほんのわずかに胸の奥が動いた——その動きを、医者として診断するならどう書くか、と一瞬考えて、すぐにやめた。診断するものではなかった。


 燭台の光が壁に影を映していた。影が二度ほど揺れた。


 シルヴィアの「お礼を言うな、と言いましたよ」という言い方。彼女が最初に来た頃の高飛車な態度とは、今は全然違う顔をしている。たまに見せる、ふっと崩れた口元の動き——あれが、たぶん本物の彼女の顔だった。


 カーラの「でも——よかったな」という後ろ向きのまま言った言葉。あれは——今まで聞いた中で、一番意外な言葉だったかもしれない。背中で言うことで、向き合わずに済む——それがカーラなりの距離の取り方だと、最近分かってきた。


 アレクは蝋燭を見た。小さな火だった。揺れていた。


 医者としてではない自分が——今夜初めて、問われている気がした。誰かの隣に立ちたいという感覚が、気づいたら、そこにあった。


 蝋燭がまた揺れた。


 アレクはしばらくそれを見ていた。


 答えは出さなかった。答えを出そうとして机に向かってきた人生だった。今夜は、答えを出さない方がいい問いがある、と気づいただけで十分だった。


 明日になれば、また患者が来る。新しい医術師学校の準備も進めなければならない。三人もそれぞれの場所で動いている。今夜はただ、そのことを認めた。それだけだった。それ以上のことは、明日の自分が考える。


 蝋燭の火が、最後にもう一度大きく揺れて、それから落ち着いた。アレクはペンを取り、申請書の余白に、自分用の覚書を一行だけ書いた。


「次の患者の所に行く。そしてその後で、ここに帰る場所を持つ」


 書いてから、自分で読み返して、長くなったな、と思った。前は「次の患者の所に行く」だけだった。後ろの一文が、今夜、加わった。


 羊皮紙を畳み、机の上の他の書類の下に挟んだ。明日の朝この覚書を読むかどうかは、分からなかった。書いたという事実だけで、十分だった気もした。捨てなかった、ということが、答えだったかもしれない。


 蝋燭を吹き消した。部屋が暗くなった。窓の外の月が、机の表面にうっすら影を映していた。三人がそれぞれ、どこかで同じ月を見ていることを、アレクは知らなかった。それでも、月は同じだった。


お読みいただきありがとうございます。

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