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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第71話 同じ月を見ていた

 その夜、月が出た。


 秋の終わりの、よく澄んだ夜だった。風はわずかに冷たく、雲は一つもなかった。王都の上空にある月が、どこの裏庭からでも、どこの屋根からでも、同じ大きさに見える夜だった。


* * *


 ミアは医療所の裏庭にいた。


 今日の診察が全部終わって、記録帳を整理して、道具を片付けた後で、なんとなく外に出た。理由は特になかった。ただ、夜の涼しい空気が欲しかった。石畳が月の光を反射して白く光っていた。


 外套を肩にかけ、両手で襟を合わせた。月の光は冷たく見えるのに、頬には不思議と温かく感じられた。気のせいだ、と分かっていた。気のせいでも、そう感じることが、今夜は大事だった。


 空を見た。


 明るい月だった。秋の月は冬の手前の、最後の明るさを持っているような気がした——気のせいかもしれなかったが。


 先生は今日、「お前はお前の医術師になれ」と言った。二日前にも似たことを言っていた。でも今日の方が、もっと真剣に聞こえた。俺のコピーじゃなくて——そう言った。


 嬉しかった。でも、嬉しいだけではなかった。


 ミアは石畳に目を落とした。月光が足元を照らしていた。


「うん」と言った後で、アレクの顔がちょっとだけ柔らかくなった——確認したわけではない。でも確かに、変わった。そういう瞬間が、最近増えている。


 先生はまだ気づいていないけど、私はもう知っている——とミアは思った。


 知っている、というのは、自分の気持ちのことだった。先生がどう思っているかは分からない。先生がいつそれに気づくかも、分からない。でも自分の気持ちは、もう自分では分かっていた。それだけで、今は十分だった。試験に合格して、正式な医術師になったら、それから先のことを考える。それまでは、毎日先生の隣で動ける——それが今の自分の場所だった。


 あの人は本当に気づいていないのだろうか。三人が、ばらばらに同じ気持ちを抱えているということを——それとも気づいていて、見ないふりをしているのか。どちらにしても、あの人らしかった。


 ミアは月を見ながら、考えた。


 今日も仕事ができた。患者と話せた。先生の隣で動けた。それで十分だと思っていた——でも最近、ふと「それ以上」のことを考えることがある。


「……急がなくていいか」とミアは独り言で言った。


 自分への言葉だった。誰かに言われたわけではなかった。ただそう思った。医術師の試験が終わったら、正式な医術師になったら——その後のことを、初めてゆっくりと考えてみようと思った。


 月の光の下で、息を吐いた。白く小さく、空気の中に消えた。冬が近かった。


* * *


 シルヴィアは書斎の窓から月を見ていた。


 今日も書類が山積みだった。医術師学校のカリキュラム草案、議会への提出書類、各地の移管拠点への通達文——全部やらなければならないことだった。でも窓の外の月が目に入って、ペンが止まった。


 書斎の燭台に灯した蝋燭の火が、窓ガラスに映って、月の隣に小さく揺れていた。月と蝋燭が並んで見える夜、というのは、たぶん人生で何度もない、と思った。今夜の景色を覚えておこうと、無意味なことを考えた。


 あの人は鈍感なのか、気づいていて無視しているのか——先ほど訊こうとして、やめた。


 ペンが机の端で止まっていた。


 どちらを聞いても、どちらかが答えだとしても、それで何かが変わるわけではないのかもしれない。あの人らしい選択だとしたら、どちらだろうと思った。


「あの人は、全然気づいていないんでしょうね」とシルヴィアは独白した。


 エレナに言ったわけではなかった。書斎には一人だった。


 でも、気づいていたとして——知っていて、黙っているとしたら。あの不器用で正直な医者が、意図を持って、それを選んでいるとしたら。


 それは、もっとずっと困る話だった。


 窓の外の月が、書斎の床に長い影を作っていた。シルヴィアはペン先で頬の脇を一度だけ撫で、それから自分の動作に気づいて、ペンを机に戻した。十代の頃のように、誰かのことを考えて落ち着かない夜——そんなものが二十歳を過ぎてから来るとは、思っていなかった。


 シルヴィアはペンを取り直した。書類の続きをやらなければならない。でも月がまだ気になった。しばらく、どちらも中途半端なまま、窓の外と書類の間で止まっていた。


* * *


 カーラは医療所の屋根の上にいた。


 夜回りの習慣で、月に一度か二度、建物の周囲と屋根を確認する。今夜もそうするつもりで上がったが、月が出ていたので、そのまましばらく座っていた。


 三週間前に「借りを返し終わった」と言った。本当にそのつもりだった。あとはどこかに行くだけだと思っていた。


 どこかとは、どこだろう。


 自分で考えてみて、どこにも行き先が思い浮かばなかった。


 屋根の瓦が、足の下で微かに軋んだ。


 それが意外だった。暗殺者として動いていた頃は、「次はどこへ」という問いに即座に答えが出た。行先はいつも依頼だった。今は依頼がない。自分で決めていい。なのに、どこにも行く気がしなかった。


 行きたい場所がない、というのとは違った。むしろ逆で——ここにいたかった。それを認めるのに時間がかかっただけだった。「居場所が欲しい」という気持ちを、自分が持てるとは、半年前まで思っていなかった。


「まだ決めていない」と言ったとき、アレクが「急がなくていい」と言った。分かりやすすぎて困る言葉だった。


 月を見た。


 ミアも、シルヴィアも、今夜どこかから同じ月を見ているかもしれない——そんなことを初めて考えた。同じ月を、別々の場所から見ている三人。あの人はそのことを知っているのかどうか。


 知らないだろう、と思った。それでよかった。今は、それでよかった。


 カーラは何も言わなかった。月を見上げたまま、しばらく動かなかった。瓦の下で、医療所の中の蝋燭の灯りが揺れていた。誰かがまだ起きている気配だった。多分アレクだろう、と思った。確かめなかった。確かめて、何かを変える夜ではなかった。


 風が来た。冷たかった。カーラは外套の襟元を一度だけ寄せ、それからまた、月を見上げた。


 屋根の瓦の冷たさが、足の裏から伝わってきた。それでも、もうしばらくここにいようと思った。月が雲に隠れるまで、あと一時間か、二時間か。それが過ぎたら下に降りる——今夜はそういう夜だった。


お読みいただきありがとうございます。

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