第70話 どこへ行くんだ
枢機卿の宣言から三週間後、カーラが報告書を机に置いた後で「以上で、私の役割は終わりです」と言った。
部屋の空気が少し変わった。
報告書は厚い束だった。各地の独占拠点の閉鎖状況、暗殺組織の解体経過、強硬派の動向、王都の治安変化——三週間分の情報が時系列で整理されていた。アレクは束の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「……どういう意味ですか」
「教会系の暗殺組織は実質的に解体されました。各地の独占拠点の閉鎖も、残り二か所を除いて確認できています。私はもともと『借りを返す』という目的でここにいました——化膿の手術をしてもらった、その借りを返すために。借りは返しました」
アレクが「……そうですか」と言った。
「これで私はどこにでも行ける」とカーラは言った。「行かなければならないわけではないけれど——どこへでも行けるようになった、という意味です」
「どこに行くんだ?」
カーラが「……まだ決めていない」と言った。窓の外を見た。
窓の向こうに、医療所の前庭の枯れた葉が舞っていた。秋の終わりだった。あと一か月もすれば雪が来る。雪が来る前に行先を決めなければならない理由は——本当はなかった。それでもカーラは何かを区切りたかった。区切らないと、自分の役割が曖昧になる、と感じていた。
「決めていないなら、急がなくていいです」
「急がなくていい、とはどういう意味ですか」
「次に行く場所が決まるまで、ここにいればいい——という意味です」
カーラが「……厄介な言い方をする」と言った。
「分かりにくかったですか」
「分かりやすすぎて困る、という意味です」
アレクは「分かりやすすぎる」と「困る」が同居する論理を考えてみたが、結論は出なかった。それは医術の話ではなかった。彼が苦手な領域の話だった。
アレクが「……そうですか」と言った。何が分かりやすいのか、具体的には分からなかったが、それ以上追わなかった。
扉が開いた。シルヴィアが書類を持って入ってきた。書状の束を脇に抱え、もう一方の手にはペンを握ったままだった。
「カーラ、昨日の報告書に確認したいことがあります——」と言いかけて、立ち止まった。シルヴィアの視線が、机の上のカーラの報告書と、椅子に座ったカーラの背中を行き来した。それから、アレクの方を見た。「何か深刻な話をしていましたか」
「別に」とカーラは言った。
「でも何かあったでしょう。顔が違います」
「借りを返し終わった話をしていた」
シルヴィアが「……それはつまり」と言い、アレクとカーラを交互に見た。「去るおつもりですか、カーラ」
「決めていない」
「決めていない、というのは——」
「先生と同じことを聞かないでください」とカーラは言った。
シルヴィアが口元に手を当てて、少し間を置いた。それから「……なるほど」と言い、ゆっくりと微笑んだ。含みのある笑い方だった。
「なるほど、とはどういう意味だ」とカーラが言った。
「別に」とシルヴィアは言い、アレクを見た。「先生は鈍感ですか?」
「何が」
「なんでもないです」とシルヴィアは言い、カーラに向き直った。「カーラ、昨日の報告書の三ページ目、署名が抜けています。今日中に補完してください」
「後で」
「今でお願いします」
「……うるさい」とカーラは言い、立ち上がった。シルヴィアの後について歩き出しながら、ほんのわずかに——苦笑していた。怒ったふりをした、苦笑いだった。
「うるさい」と言ったとき、口元の筋が一瞬だけ緩んだ。怒っていない口の動きだった。シルヴィアもそれに気づいていた——「ご機嫌が直りませんね」と扇子を畳みながら言った。「直っているんです」とカーラは抗議し、それからまた、ほんのわずかに笑った。
「カーラの『うるさい』は、本当に怒っているときと、怒ったふりのときがあります」とシルヴィアが言いながら廊下に出た。「今のは後者です。私は分かります」
「分かるな」とカーラが追いかけて言った。
二人が出て行った。
アレクは「鈍感、というのは何の話だったのか」と独りごちた。答えは誰も教えてくれなかった。
窓の外の空は、昼に差しかかろうとしていた。白い雲が流れていた。あと少しで冬になる。
カーラが去ると言わなかった——それだけが、確かなことだった。「分かりやすすぎて困る」という言葉の意味を、アレクはまだ考えていた。論理的に組み立てると矛盾するが、矛盾していないように使われる言葉が、人にはある——それは前世でも、何度も出会った類のものだった。
医術師学校の設立申請書を机の上に置いた。カリキュラムの草案が半分できていた。今日中に仕上げなければならない。
第一期の入学定員は、まずは十名程度を考えていた。建物の収容と教員の確保を考えると、それ以上は無理だった。教員は当面、自分とミアが担当することになる。シルヴィアが法律と歴史を教える枠を引き受けると言ってくれていた。カーラは「私は教えるのは苦手です」と言ったが、護衛と施設管理を引き受けると言っていた。三人がそれぞれに居場所を持つ形になっていた。
ペンを持った。紙に向かった。しかし最初の一行を書こうとして、止まった。
「学校で最初に何を教えるか」——シルヴィアがそう聞いてきた声が、まだ耳に残っていた。「教える」という行為について、本気で考えたことが、前世でも今世でも、実はあまりなかった。指導医として研修医に教えることはあったが、それは「やり方」を見せて覚えさせる類のものだった。学校という場で「最初の一日」に何を教えるか——別の問いだった。
アレクは紙から顔を上げて、窓の外を見た。医術の知識か。患者との向き合い方か。——ペンを持ち直した。
「最初に教えるのは、患者を一人の人間として見ることだ」と書いた。それから線で消した。教えるものではなく、現場で身につけるものだ、と思い直した。
書き直した。「最初の半年は、見学と記録から始める。見ることと書くことは、最も基本的な医術の所作である」
ペンを置き、紙に書かれた一文を読み返した。これでいい、と思った。
廊下の奥から、シルヴィアとカーラの声がかすかに聞こえた。書類の確認をしているらしい言葉のやりとりに、時々短い笑い声が混ざった。アレクは耳を澄ませなかった。それは自分が踏み込む場面ではなかった。
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