第66話 手が震えた
神聖騎士団の活動停止命令が出て、街が落ち着きを取り戻すまでに二日かかった。
その二日の間、重傷者が続出した。
騎士団が来ると聞いて逃げた人、路地で転んだ人、恐慌状態の群衆に押し倒された人、路上で夜を過ごして体調を崩した人——それぞれが翌日翌々日に医療所に来た。切り傷、打撲、骨折、発熱。軽傷から重傷まで、途切れることなく続いた。
最初の重症患者は、肋骨が三本折れて肺を傷つけかけていた中年の男だった。呼吸のたびに喘鳴が混じり、顔が蒼かった。アレクが触診で位置を特定し、肋骨を固定する処置をした。「呼吸を浅く、ゆっくりです」と指示した。一時間。次の患者は脛の開放骨折だった。骨が皮膚を破って覗いていた。出血を止め、整復し、感染を抑える薬草を当てた。一時間半。
次の患者が右肩の脱臼で運ばれてきた。整復した。次の患者が頭部の裂創。頭髪を剃って消毒し、縫合した。次が腹部の打撲——内臓出血の可能性を疑い、二時間かけて経過観察と圧迫処置をした。次が、次が、と続いた。
アレクは止まることができなかった。
十二時間を超えたのは、二日目の午後だった。手首から肘にかけての複雑骨折の整復を終え、固定帯を巻いている途中だった。
処置室の窓の外で太陽の位置が動いていた。最初の患者を診始めた朝四時から、もう半日を超えていた。視界の周辺がぼやけ始めていた。物の輪郭が二重に見える瞬間が、十秒に一度ほど起きていた。それでも手は動いていた——動かしているうちは、止まらない。前世でも経験のある状態だった。
ふと、患者の前腕の血管が一瞬だけ二本に見えた。アレクは手を止め、目を閉じて、また開いた。一本に戻った。視覚の歪みだった。脳が酸素を要求していた。深く息を吸った。
「先生」とミアが声をかけた。「手が」
「問題ない」とアレクは言った。
「震えています」
アレクは縫合糸を持つ手を見た。確かに震えていた。軽い振戦——疲労と低血糖の複合だった。診断は簡単だったが、自分を患者として扱う習慣が、長年の現場仕事で薄くなっていた。
縫合糸を持ち直そうとした指が、思った位置に届かなかった。一瞬遅れて反応した。前世で「指が言うことをきかない」と感じた、あの感覚と同じだった。三十年現場に立って、指の限界を一番よく知っているのは自分だった。それでも止められなかった。次の患者がいる、と思っていた。
ミアの声が、少し遠くに聞こえた。
「もう一人いる」とアレクは言い、次の間に向かおうとした。
ミアが、アレクの手を握った。
縫合糸を持ったままの手だった。ミアの指が、手の甲を覆うように被さった。冷たい指だった。それで、アレクの手の動きが止まった。物理的な接触だった。
「先生が倒れたら誰が次を診るんですか」とミアが言った。声を低くしていた。普段の柔らかさが消えていた。意識して低くしていた——それが、アレクにも分かった。
アレクが振り返った。
ミアは記録帳を胸に抱えて立っていた。声は静かだった。怒ってはいなかった。ただ正確に言っていた。
「先生が倒れたら、誰が教えてくれるんですか。私はまだ、一人で全部はできない。先生に指示してもらわないと分からないことがある。倒れたら指示もできない」
「……」
「だから休んでください。指示だけしてくれれば——私が動きます。先生の手の代わりに、私が動きます」
廊下の椅子に座らされた。ミアが水と、乾燥した果物を数切れ持ってきた。「食べてください。血糖が下がっています」と言った。医療用語を使えるようになっていた。
「次の患者は」
「左前腕の複合骨折。今夜は固定と副木だけで足ります。先生が教えてくれた通りのやり方です。ちゃんとできます」
「副木の長さは」
「肘から手首まで。内側と外側の二本組みです」
「腫れの確認は」
「触診で確認してから当てます。血の巡りも魔力感知で確認します。異常があればすぐ呼びます」
アレクが「……分かった」と言い、果物を口に入れた。甘かった。体が求めていたものだった。
ミアが処置室に向かった。扉を開ける音、患者に「お待たせしました、私が処置を始めます」と告げる声、椅子が動く音——それらが廊下越しに伝わってきた。
アレクは廊下の椅子に背中をつけた。目を閉じた。
十二時間以上——前世でも経験があった。手術室に入り続けて、出てきたときに足が動かなくなったことが何度もあった。その都度、自販機のコーヒーを飲んで、壁に寄りかかって、また戻った。廊下の壁が、背中に冷たかった。それしか方法がないと思っていた。一人でいれば、誰かに心配させなくていいと思っていた。
処置室から、ミアの声が聞こえた。患者に「力を抜いてください」と話しかけていた。落ち着いた声だった。十五歳だったあの頃の、怯えた声ではなかった。
アレクは目を開けた。
俺は——頼ってよかったんだな、と思った。今日初めて、その感覚を言葉にできた気がした。
前世から続いていた思い込みが、廊下の冷たい壁の前で、解けていく感覚があった。一人でいれば誰にも心配させなくていい——それは「優しさ」のつもりだった。実は違った。誰かに頼れない自分を「優しい」と呼んで誤魔化していただけだった。ミアが手を握ったときの、あの冷たい指の感覚が、まだ残っていた。あれは「指示を出してください」という命令だった。命令を出させてくれる相手が、ここにいた。
処置室から、患者の「ありがとう、お嬢さん」という声が聞こえた。それからミアが「無理は二日、絶対にしないでください」と返している声。落ち着いた、相手を一人の人間として扱う声だった——アレクが患者と話す時の声に、似ていた。学んだのではなく、ミア自身がたどり着いた声だ、とアレクは思った。
ミアが処置室から出てきた。「終わりました」と言った。「血流確認も問題ありません」
「よかった」とアレクは言った。
「先生、もう一人は本当に明日でいいです。今夜は休んでください」とミアは言った。
アレクは「……そうします」と答えた。
「ミア」
「はい」
「お前、いつからそういう顔ができるようになった」
ミアが「どういう顔ですか」と聞いた。
アレクは答えなかった。廊下の壁に寄りかかったまま、目を閉じた。それが何を意味するのか、自分でもまだ言葉にできなかった。
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