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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第64話 先生だったらそうしたと思って

 夜が来た。


 ミアは南地区の路地の入り口に立っていた。


 第三避難所の患者は奥の部屋に移してある。老人の足を確認し、熱の子供には薬草の浸出液を飲ませた。管理人のおじさんが「なにかあったら呼ぶ」と言ってくれた。それで、今は外に出ていた。


 アレクが言っていた三か所のうちの一つ、南路地。ここが一番使われやすいと思っていた。巡回治療で何度も歩いた道だったから、地形が分かっていた。日が落ちてからの空気の流れも、夕方になると犬がどこから来るかも、覚えていた。地形を覚える、というのは、患者の体を覚えるのと同じだ——先生が前に言っていた。場所も人も、繰り返し見て、初めて異変が分かる。


 外套の襟元を一度直した。冷えていた。手のひらを腰の小袋にあてた。中には消毒液の小瓶と縫合針と細い糸が入っていた。何かあった時の応急処置の道具だった。これは先生に言われて持ち歩くようになった。動ける医術師は、いつでも動ける状態でいなければならない——そう教わった。


 石畳の向こう、街灯の届かない暗がりから、金属の音が聞こえた。


 足音を数えた。五人——いや六人。


 騎士団だ、とミアは思った。足が震え始めた。手も震えていた。でも動かなかった。


 息を一度吸って吐いた。先生がよくやる、手術前の呼吸だった。三年前まではただ怯えるしかなかった。今は呼吸を整えるという行動を選べる。それだけが、自分にできる準備だった。


「ここは医療区域です」とミアは言った。声が震えていた。分かっていた。震えていても構わなかった。「患者がいます。通れません」


 騎士が六名、歩みを止めた。先頭の男がミアを見た。年かさの、目の厳しい男だった。甲冑の胸に教会の印がある。


「どけ」


「通れません」


「子供が何を言っている」と男は言い、歩み出した。「教会の神聖騎士団だ。王国法の管轄外だ」


「医術師独立法のもとでは、認可された医療区域への無断侵入は法的に問題があります」とミアは言った。「法律が三日前に成立しています」


「そんな法律は認めない」


「認める認めないは別の話です。成立しているのは事実です」


 騎士が剣の柄に手をかけた。


 ミアの足が震えた。逃げたかった。でも動かなかった。


 ここを通したら患者がいる場所まで騎士が行く——それだけを考えていた。先生だったら、ここで退かない、とも思った。それは計算ではなかった。ただそう思ったから、動かなかった。


「どけ」と騎士がもう一度言い、剣を抜きかけた——その瞬間、路地の裏手から音がした。


 カーラだった。


 六人の騎士のうち、後ろの二名が同時に動けなくなった。気づいたときには壁に押し当てられ、短剣が腰帯のすぐ脇にあてられていた。残りの四名が振り返ったが、カーラは既に後退して暗がりに溶けていた。


 動きが速すぎて、ミアにも全部は見えなかった。後ろの二名が崩れた瞬間、空気が動いて、それから音がついてきた。順番が逆だった。カーラが動くと、いつもそうだった。


「あなたたちの今夜の作戦は失敗しました」とカーラの声が暗がりから聞こえた。「指揮系統はすでに切断されています。伝令は来ない。あなたたちは今、命令系統のない状態で動いている。撤退してください」


 先頭の男が「……」と唸った。


「枢機卿は今夜、対話の場にいます」とカーラは言った。「あなたたちが動いても、命令を下した者は別の判断をしようとしている可能性がある。確認せずに動くのは危険です」


 沈黙が続いた。石畳に風が吹いた。


 男が「……撤退する」と低い声で言った。六名が路地を戻り始めた。足音が遠ざかった。


 遠ざかる足音を聞きながら、ミアはしばらく動けなかった。剣を抜きかけた騎士の前で、自分が本当に立ち続けていたのか——それすら一瞬、現実感がなくなった。撤退を選ばせたのはカーラだった。でも、最初に立ち塞がったのは自分だった。それを、忘れないでおこうと思った。


 ミアは足の力が抜けそうになったが、壁に手をついて立った。手が汗ばんでいた。


 カーラが暗がりから出てきた。


「ミア」とカーラは言った。「なんであんな場所に一人で」


「先生だったら、そうしたと思って」とミアは言った。


 言ってから、自分でも自分の言葉に少し驚いた。先生だったら、ではなかった——先生がいないからこそ、自分が動いた。先生に頼ろうとして頼れない場面で、自分が選んだ。それは「先生のコピー」とは違う何かだった。先生の考え方を、自分の中に取り込んで動いた——その感覚に、初めて名前がつきそうだった。


 カーラが「……」と黙った。しばらく何も言わなかった。


「怪我はないか」


「……ないです」


「よかった」とカーラは言った。それだけだった。いつもより声が柔らかかった。


「カーラさん、ありがとうございました」


「礼はいらない。仕事だ」とカーラは言い、暗がりを振り返った。「まだ別の路地が動いているかもしれない。引き続き監視する。ミアはここを離れるな」


「はい」


 カーラが路地の奥に向かって歩き出した。その背中に、ミアは「カーラさんも無事でいてください」と言った。


 カーラは振り返らなかった。でも歩みが一瞬だけ、止まった。それからまた歩き始めた。


 ミアは壁に背中をつけて、空を見た。星が出ていた。先生は今ごろ何をしているだろうか、と思った。対話がうまくいっていればいい——それだけを、強く思った。


 手のひらに残っていた汗を、外套の裾で拭った。震えはほとんど止まっていた。剣を抜きかけた騎士の前で動かなかった、という事実だけが体に残っていた。


 先生は、ここで退かない人だった。患者の前では退かない。それを真似たかったわけではない——気づいたら、同じ場所に立っていた。考え方が体に染み込んでいた、という感覚だった。


 遠くで犬が一度鳴いた。それから王都の夜は、また静かになった。


 ミアは記録帳を出して、避難所に戻る前にメモを書いた。「南路地、騎士団六名、二十二時頃接近、二十二時十五分撤退、負傷者なし、患者への接触なし」——先生に渡す報告書の体裁になっていた。書きながら、これは先生の助手としての仕事ではなく、自分の仕事だ、と感じた。


 管理人の小屋に戻った。明かりが漏れていた。奥の部屋で老人がまだ起きていた。「外、何かあったかね」と聞いた。「大丈夫です。みなさん安全です」とミアは答えた。湯気の立った湯飲みを受け取り、両手で温めた。冷えた指がじんと痛んだ。同じ夜の中で、先生も、シルヴィアさんも、カーラさんも、別々の場所で動いていた——それが「持ち場」というものか、と今頃になって理解した。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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