第60話 法律が変わった日
貴族議会の採決は、昼前に始まった。
議事堂の入り口にはシルヴィアが朝早くから入り、最終確認の根回しを行っていた。カーラは議事堂の周辺を見回り、不審者の有無を確認していた。アレクは医療所に残った。議会には入る資格がなく、結果を待つ以外にできることがなかった。
「医術師独立法」と「公衆衛生基本法」——二つの法案が同日に採決される。シルヴィアが数週間かけて議員の一人一人と話し合い、整えた状況だった。
アレクは議会には入れない。傍聴席もない。医療所で診察をしながら、待った。ミアが記録帳を持ちながら、一時間に一度廊下に出て外の様子を見に行った。
「先生、緊張していますか」とミアが昼に聞いた。
「していません」
「私はしています」
「そうですか」
「先生の分も緊張します」とミアは言った。
アレクは「ありがとう」と言い、次の患者の記録を見た。
* * *
結果が届いたのは夕方だった。
シルヴィアが医療所に戻ってきた。扉を開けた瞬間、表情で分かった。勝ちでも負けでもない顔ではなかった。
「可決しました」とシルヴィアは言った。「両法案とも」
ミアが「……本当ですか」と言った。
「賛成が過半数を超えました。教会側の反対は三十一票。改革派が四十五票。残りは棄権でしたが、採決としては成立です」
アレクが「教会への通達は」と聞いた。
「議会の書記官が明日付けで送ります。法律として成立した以上、教会は従わなければならない。従わなければ違法になります」
「……そうですか」
ミアが「先生、勝ちました」と言った。
「勝ったとは言いません」とアレクは言った。「制度の構築が始まる地点に立っただけです」
「それでも、勝ちです」とミアは譲らなかった。「教会の独占が、法律で終わったんです。今日、そういう日になりました」
アレクが「……そうですね」と一拍遅れて認めた。「そういう日です」
カーラが壁際で「……終わった」と言った。
「ここが終点ではないです」とアレクは言った。「法律が成立しても、制度が機能するまでには時間がかかります。医術師の試験制度、学校の設立、無償診療枠の財源——まだやることはある」
「分かっています」とシルヴィアは言った。「でも今日は、終点ではなくても、通過点の中では最大のものです」
* * *
翌日、ドナトゥスが一人で医療所を訪ねてきた。
午前中の診察が終わったばかりの時間だった。扉のノックが二度。低い音だった。ミアが扉を開けて、立ちすくんだ。「ど、ドナトゥス枢機卿……」と小さく言った。アレクが奥から「お通ししてください」と返した。
助祭も連れていなかった。老人が一人で扉を開けて入ってきた。
ドナトゥスがゆっくりと医療所の中を見回した。煮沸した道具、整理された薬棚、手洗い用の石鹸の置き場。教会の治癒師の祭壇とは、何もかも違う場所だった。
「……神の時代が終わる」とドナトゥスは言った。窓の外を見ていた。誰かに言ったわけではなく、独り言のようだった。
アレクが「神の時代は終わりません」と言った。声は低かった。聞こえるか聞こえないかの声で。「ただ神を利用した詐欺の時代が終わるだけです」
ドナトゥスが振り返った。アレクを見た。
何も言わなかった。しばらく立っていて、それからまた窓を向いた。
「……そうかもしれない」とドナトゥスは言った。「私はまだ、何かを間違えているかもしれない。分からなくなってきた」
「それは正しい感覚だと思います」とアレクは言った。
ドナトゥスが「お前は……」と言いかけて止まった。「面倒な男だ」と言い、扉から出ていった。
ミア、シルヴィア、カーラが、それぞれの場所でアレクの背中を見ていた。
誰も何も言わなかった。
「先生」とミアが、しばらくしてから言った。「ドナトゥス枢機卿——なぜ一人で来たんでしょう」
アレクが「……それが、次の問いです」と言った。ペンを持ち、記録を開いた。
* * *
夕方、議会から帰ってきたシルヴィアが「教会の動きが変わりました」と報告した。
「全国十二か所の医療独占拠点のうち、三か所がすでに『地域医療への協力体制』として運営方針を切り替えると発表しました。教会内部から自発的に動き始めている」
ミアが「ドナトゥスが指示を出したんでしょうか」と聞いた。
「分かりません。ドナトゥス枢機卿の名は出ていない。ただ、上層からの黙認がなければあの規模の方針転換は起きない」
アレクが「枢機卿会議の中で、ドナトゥス以外にも揺れている人間がいる」と言った。「あるいはドナトゥスが沈黙によって舵を切ったか」
カーラが「……どちらでも、こちらに不利な動きではない」と言った。「ただし安心はできない。残る九か所が抵抗する可能性は残っている」
「そうです」とアレクは言った。「だから次の動きが要ります。学校の設立準備、医術師の試験制度、無償診療枠の財源確保。法律が成立しても、制度が動かなければ意味がない」
シルヴィアが「私が議会で進めます」と言った。「父の協力も得られる範囲で取り付けます」
「ミアは試験制度の作成に入ってください。受ける側の視点が重要です。お前の経験を反映させたい」
ミアが「私が作るんですか」と驚いた。
「お前が中心の一人で作る。最終調整はこちらでやる」
「分かりました」
カーラが「私は教会内部の残存勢力を引き続き調査する。ドナトゥスの真意も含めて」と言った。
四人が頷いた。
窓の外で、夕日が王都の屋根を赤く染めていた。法律が変わった日。それはひとつの通過点だった。
ミアが「先生」と呼んだ。
「なんですか」
「今日、患者さんから聞いたんです。庶民街で、子どもが熱を出してもすぐに診てもらえるようになった、って。料金が変わったって」
「変わるのは、これからです」とアレクは言った。「今日変わったのは法律だけ。実際の医療現場が変わるには、まだ時間がかかります」
「でも、変わり始めています」
「……始まりました」とアレクは認めた。
ミアが頷いた。羊皮紙にペンを走らせた。記録に「医術師独立法、公衆衛生基本法、可決」と書き込んだ。日付を入れた。
今日の日付が、後の人々に何を意味する日として伝わるのか——アレクは、まだ知らなかった。記録を残すことは、それを後の人間に判断してもらうための手続きにすぎない。記録はただ、続くものだった。
第4章はここで区切りです。お読みいただきありがとうございます。
次章はいよいよ最終決戦編です。医術を守るための戦いを見届けていただけると嬉しいです。




