第57話 枢機卿の賭け
議会に法案を提出した翌日、ドナトゥスが王宮に現れた。
その朝、医療所では普段通り診察が始まっていた。アレクが午前の予約患者を診ていると、シルヴィアの侍女エレナが急ぎの伝令を持ってきた。「枢機卿が王宮に入った」という一報だった。
エレナが「お嬢様は、先生もいつでも動けるよう待機していてほしいと」と言った。
「分かりました」とアレクは応じた。診察の合間に手が空いたとき、ミアに「呼ばれたら出る。準備をしておいてください」と伝えた。
ミアが「分かりました」と頷いた。
カーラが扉のところで「王宮の周辺、神聖騎士団の動きはまだない」と報告した。「ただし枢機卿が王と直接話をするのは異例だ。何かを賭けに来ている」
正式な謁見の申請ではなく、国王の側近を通じた個別面談の要請だった。「枢機卿会議としての最終的な立場を伝えたい」という名目だった。
アレクはその場に呼ばれなかった。シルヴィアが「陛下に呼ばれたら来てください」という連絡を入れ、待機した。
二時間後、国王からの呼び出しが来た。
* * *
謁見の間にはドナトゥスが残っていた。国王と、国王の主要側近たち。
ドナトゥスは座っていなかった。立ったままだった。年齢を考えれば座っているべき体だったが、立つことを選んでいた。アレクが入ったとき、ドナトゥスは一度だけ振り返り、視線を合わせ、また王の方を向いた。視線の重さは、レヴァンとは違う種類のものだった。
「ドナトゥス枢機卿から話があった」と国王は言った。表情が読みにくかった。「医療独占の廃止をこれ以上進めれば、教会は王家への政治的支持を撤回すると」
「……脅迫ですか」とアレクは言った。
「言い方はともかく、そういう内容だ」
ドナトゥスが「脅迫という言葉は適切ではない」と言った。「現実の政治的帰結を伝えているだけだ。教会が王家を支持しなければ、民衆の信頼に影響する。それは王権の安定に関わる問題だ」
「枢機卿会議は全国十二か所の医療独占拠点を持っています」とシルヴィアが言った。「それが崩れれば教会財政が壊滅する。だからこその最終手段です」
ドナトゥスが「……ハルトマンの娘は賢いな」と言った。
「王家への政治的支持を条件として使うということは、教会が宗教的権威ではなく政治的勢力として動いているということです」とシルヴィアは続けた。「それは教会の存在意義とどう整合するのですか」
「……教会は二百年以上、この国の民の精神的支柱を担ってきた」とドナトゥスは言った。「制度が崩れれば、その間に積み上げてきた信頼も崩れる。国の安定が損なわれる」
「積み上げてきた信頼の中に、払えずに死んだ患者は何名いますか」とシルヴィアは言った。「東地区で先月だけで三人が、治療費が出せず手当てを受けられなかった。それも国の安定の話ですか」
ドナトゥスが黙った。
謁見の間が静まった。国王がドナトゥスを見た。シルヴィアを見た。それからアレクを見た。表情は変わらなかったが、視線の重さは変わっていた。
「陛下」とアレクは言った。国王が見た。「一点だけ申し上げます。この話し合いがどう決着しても、民が医療費を払えずに死に続けることを忘れないでください」
それだけ言って、アレクは頭を下げた。「失礼します」と言い、謁見の間から出た。
* * *
廊下でシルヴィアが「なぜ退室したんですか」と言った。
「これ以上言っても同じことの繰り返しです。最後に言いたいことを言えれば、あとは陛下が判断することです」
「……陛下が揺れています」
「知っています」
「揺れたときに、あなたが外にいていいんですか」
「揺れているときに押すと、反対に押し戻すことがある。今は待つ方がいい」
シルヴィアが「……あなたの判断は、どこまで計算していて、どこからが直感なんですか」と言った。
「分かりません」とアレクは言った。「患者の処置も同じです。判断が出てきたとき、それが計算か直感かを分けて考えたことがない」
シルヴィアが「……なるほど」と言った。
廊下の窓から、夕暮れの王都が見えた。屋根の連なり、教会の尖塔、商業街の煙。明日、国王がどちらに動くかは分からなかった。アレクが壁に背中を預けた。
「教会財政の規模は、本当に壊滅的な打撃を受けますか」とアレクは聞いた。
「受けます。全国十二か所の独占収入が崩れれば、教会の財政基盤そのものが変わります。彼らが必死になる理由が、そこにある」とシルヴィアは言った。「つまり彼らは今、後がないということです」
「そして後がない者は、最後の手段を使う」とアレクは言った。「それが何かは——まだ分からない」
シルヴィアが「教会の最終手段、何だと思いますか」と聞いた。
「読みは三つある」とアレクは言った。「一つは武力。神聖騎士団の動員。二つ目は内部告発——カーラの過去のような、こちらの弱点の暴露。三つ目は王への直接の取引」
「どれが一番可能性が高いですか」
「二つ目です。武力は反動が大きすぎる。直接取引は今日もう試した。ならば次は、こちらの弱い部分を狙う」
シルヴィアが「カーラさんの過去ですか」
「そう判断しています」
「対策は」
「先手で公開する。隠したものは暴露されますが、自分で先に出したものは弁明の余地が残る」
シルヴィアが「それを伝えますか、カーラさんに」
「伝えます。判断は本人にしてもらう」
シルヴィアが「……次が来るとしたら、いつだと思いますか」と言った。
「早い」とアレクは言った。壁から体を離し、廊下を歩き出した。
* * *
医療所に戻ると、ミアが扉のところで待っていた。
「先生、お疲れ様でした」
「ただいま」
「カーラさんは」
「もう戻っているはずです」
ミアが「……戻っていません」と言った。「夕方から見ていません」
アレクが立ち止まった。「いつから」
「私がここに戻った時点で、もういなかったです」
「シルヴィアさん、カーラに何か頼んでいましたか」
シルヴィアが首を振った。「私からは何も。今日の予定は通常の警戒だけだったはず」
アレクが「……」と短く息を吐いた。
「先生、何があったんですか」
「分かりません。ただ、ドナトゥスが直接動き始めた以上、教会側が何かを仕掛ける可能性は上がっています。カーラの過去を握っている組織もまだ動いている」
ミアが「……カーラさん、危ないですか」
「分からない。今夜中に戻らなければ、明日の朝から動きます」
ミアが「先生、もし朝になっても戻らなかったら——」と言いかけた。
「探します」とアレクは答えた。「お前には別の指示を出すかもしれない。準備をしておいてください」
ミアが「分かりました」と言った。
シルヴィアが「ハルトマン家の情報網にも声をかけておきます。教会と暗殺組織の動向、二方面から拾います」
「お願いします」
夜が深くなっていった。誰も眠らなかった。机の上の蝋燭が、何度か継ぎ足された。
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