第56話 三本柱
アレクが国王に医療改革案を提出したのは、異端審問から一週間後だった。
羊皮紙十枚の提案書だった。ミアが清書し、シルヴィアが法的観点から修正し、カーラが提出ルートを確認した。四人の仕事が、一つの文書に集約されていた。
提出の前夜、四人で文書を読み合わせた。条文の表現、根拠の数字、想定される反論への備え。一文ずつ確認し、矛盾や曖昧さを潰していった。
ミアが「先生、ここの『無償診療枠』の対象範囲なんですが——」と指摘した。「このままだと、貧困層の定義が曖昧で、現場で混乱します」
「修正案は」
「収入で線を引くより、症状の緊急度で判断するほうが早いです。緊急性のある重症患者は所得を問わず無償。それ以外は所得証明で段階分け」
「いいですね。それで通します」とアレクは即答した。シルヴィアが「条文の言い回しは私が整えます」と続けた。
ミアが「私の意見、取り入れてもらえるんですね」と少し驚いた顔をした。
「現場を一番見ているのはお前です」とアレクは言った。「現場の声が一番正確です」
ミアが「……はい」と頷いて、また文書に視線を戻した。
「公衆衛生制度・医術師学校・無償診療枠」
三本柱の医療改革だった。
第一の柱は、国家規模での衛生制度。水路の管理、感染症の早期通報、手洗いと煮沸の啓蒙——疫病で得た教訓を制度化する。第二は医術師学校。教会の認可制度に依存しない、独立した養成機関。第三は無償診療枠。最低限の救急医療を、貧困層にも届ける枠組み。
三つは一つにまとまる。衛生で予防し、学校で人を育て、無償枠で命を取りこぼさない。それを可能にする最小単位の設計だった。
国王が一枚ずつ読んだ。側近たちが横に立っていたが、国王は誰にも話しかけなかった。
「費用はどう賄う」と国王は言った。
シルヴィアが前に出た。「貴族有志からの拠出と、教会の医療独占撤廃による税収の再配分で賄えます。現在、治療費の三十パーセント以上が教会に流れています。その部分が民間に残れば、制度の維持は可能です」
「根拠は」
「計算書を添付してあります。四ページ目です」
国王が四ページ目を開いた。数字を見た。
「……シルヴィア」と国王は言った。「これはお前が作ったのか」
「はい、陛下」
「ハルトマン家に、こういう娘がいたとは知らなかった」
シルヴィアが「……恐れ入ります」と言った。
* * *
執務室の外で待っていたとき、ハルトマン侯爵が廊下に来た。
「シルヴィア」と侯爵は言った。「中で話が長引いているようだが」
「陛下がご覧になっています」
「……そうか」
侯爵がアレクを見た。アレクが頭を下げた。
「ハルト先生」と侯爵は言った。「娘の病気を治してくれたのは感謝している。ただあなたが危険な人物だとも思っていた。教会の対立軸になるということは、リスクが大きい」
「そうです」とアレクは言った。
「しかし——」と侯爵は続けた。「娘が今日、王の前で計算書を説明したと聞いた。娘は以前、自分の意見を外に出せなかった。病気で自信を失っていたから。それが変わった」
「それはシルヴィアさん自身の力です」
「そのきっかけを作ったのはあなただ」と侯爵は言った。「……認めよう。危険な人物かもしれないが、信用に値する人物でもある」
アレクが「ありがとうございます」と言った。
侯爵が「過大な感謝はいらない。今後も娘を危険な目に遭わせれば、黙っていないとだけ言っておく」と言い、廊下を歩いていった。
シルヴィアが「父が……」と言いかけた。
「良い父上です」とアレクは言った。
シルヴィアが「……そうですね」と言った。珍しく素直な声だった。
シルヴィアが続けた。「父が認めるのは、珍しいことです」
「あなたが変わったから、父上が変われたのではないですか」
「私が変わった」
「ええ。病気で自信を失っていた令嬢が、今は議会で計算書を説明している。父上はそれを誇りに思っているはずです」
シルヴィアが返事をしなかった。少しだけ、扇子を持つ手が止まっていた。
* * *
国王が文書を読み終えて部屋から声をかけた。
「ハルト・アレク」と国王は呼んだ。アレクが扉から再び室内に入った。
「法案として議会に提出せよ」と言った。「朕が後押しする」
アレクとシルヴィアが頭を下げた。
廊下に出たとき、シルヴィアが「動きました」と言った。
「はい」とアレクは言い、次の課題を頭の中で並べた。議会の調整、教会の反応、財政の詳細。
「一つ聞いてもいいですか」とシルヴィアは言った。「法案が議会を通る前に——教会が何か仕掛けてくる可能性がある。その場合、あなたはどう動きますか」
「状況次第です」
「状況に何が来ると思っていますか」
「まだ読めていない」とアレクは言い、廊下の先を見た。「ただ——ドナトゥスが直接来るとすれば、想定より早い」
シルヴィアが「……ドナトゥスが?」と言い、足を止めた。
「枢機卿が直接動くのは、組織として後がない局面です」とアレクは言った。「レヴァンが去り、教会の医療独占が崩れる目処がついた。次は枢機卿会議の判断が問われる段階に入っている」
「ドナトゥスが、何か取引を提案してくる可能性ですか」
「取引、または脅迫。どちらかです」
「脅迫、というのは」
「教会が王家への政治的支持を撤回する、という形です。教会は王権の正統性に深く関わってきた。撤回するという脅しは、王にとっては内政の不安定化を意味する」
シルヴィアが「……陛下は揺れますか」と言った。
「揺れます」とアレクは即答した。「だから揺れさせない準備をしておく必要があります」
「準備、とは」
「揺れたときに、王が自分の判断でこちらを選ぶ理由を、王自身が持っていればいい。今日の三本柱の提案は、その理由の一つになります。費用が賄えるという数字、これが大きい。あなたがそれを見せたから、王は『使える案だ』と認識した」
シルヴィアが「……そういう設計だったんですね」と言った。
「そういう設計です」
「先回りしすぎでは」
「先回りしないと間に合わない場面です」
シルヴィアが「……あなたって本当に」と言いかけて、止めた。それから扇子を開き、口元を隠した。「本当に、というのは何でもないです。続きは別の機会で」
アレクが頷いた。続きを聞かなかった。シルヴィアの方も、それでよかった。
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