第55話 二人だけの話
枢機卿会議からの動きはまだなかった。アレクとミアが東地区の経過観察に出た日、シルヴィアとカーラが医療所に二人残った。
風のない午後だった。庭先の木の葉が一枚も動かなかった。シルヴィアは机に法案の修正案を広げ、カーラは壁際で短剣の手入れをしていた。それぞれが自分の仕事に集中しているように見えた。
集中しているように見えて、二人ともときどき手が止まった。止まる回数が、普段より多かった。
珍しいことだった。シルヴィアは議会の書類整理のために来ており、カーラは定期の周辺警戒の合間に戻ってきていた。二人は同じ部屋にいたが、普段はそれほど会話をしない。
シルヴィアが先に手を止めた。書類の上にペンを置いた。少し息を吐いた。覚悟を決めるための息のようだった。
シルヴィアが書類から顔を上げて、カーラを見た。
「カーラさん」
「なんだ」
「以前から聞こうと思っていたことがある」
「言ってみろ」
シルヴィアがしばらく考えてから言った。「あなたもあの人のことが好きなんですね」
カーラが動かなかった。壁に背中をつけたまま、シルヴィアを見た。
「……なぜそう思う」
「否定しないから」
「……」
「私は論理的に考える人間なので、感情を証拠なく断定することは本来しません。でも今回は確信があります。あなたがアレク先生の隣にいる理由は、借りを返すだけではないと思うから」
カーラが壁から背中を離した。椅子を引いて座った。シルヴィアの前ではなく、横に置かれた椅子に。
「……お前は」とカーラは言った。「そういうことを口に出す人間だったのか」
「状況次第では」
「聞いて、どうする気だ」
「別にどうもしません。ただ確認したかっただけです」
* * *
しばらく沈黙があった。
壁の蝋燭が一度だけ揺れた。風はない部屋だったが、揺れた。カーラが視線をその蝋燭に移し、また戻した。
「……私もです」とカーラは言った。
シルヴィアが「そうですか」と言った。声に勝ち誇ったところはなかった。
「お前は」とカーラが言った。「そんな簡単に言えるのか」
「簡単ではありません。ただ……否定する意味がないと判断しました。認めない方が消耗するので」
「論理的だな」
「そうです。あなたの方が正直だと思います。私は認めるのに時間がかかりました」
カーラが「……そうか」と言った。それ以上は言わなかった。
「三人そろって、ですか」とシルヴィアは言った。「あの人は困るでしょうね」
「あとミアもいる」とカーラは言った。「あの子も同じだ」
「気づいていますか」
「気づいていない方がおかしい」
「そうですね」
「あの子は順番では一番先だ」とカーラが言った。「先生と過ごしている時間が一番長い。最初に出会ったのもあの子だ」
「順番は関係ないでしょう」とシルヴィアは言った。「気持ちに先着順は適用されません」
「適用されないか」
「されません」
しばらくお互いを見た。視線が一度逸れて、また戻った。
「困ればいいのよ」
シルヴィアが一拍置いた。それから自分で「……あ」という顔をした。「今の、少し意地悪でしたね」
カーラが「正直だと思っただけだ」と言った。
「意地悪なのが正直、ということにしておきます」
カーラが「……ふん」と言った。普段の無表情の中に、何かが混じっていた。
そのとき、外で足音がした。アレクとミアが戻ってきた音だった。
シルヴィアとカーラはほぼ同時に元の姿勢に戻った。シルヴィアが書類に目を落とした。カーラが壁に背中をつけた。
アレクが「ただいま戻りました」と言いながら入ってきた。
「おかえりなさい」とシルヴィアは書類を見ながら言った。
「……」とカーラは無言で頷いた。
アレクが「何かありましたか」と聞いた。
「別に何も」とシルヴィアは言った。
カーラは答えなかった。答えなかったが、今日初めて、かすかに笑っていた。
アレクは「……分かりました」と言い、次の患者の準備に移った。薬品棚を開け、道具を並べながら、二人が何かを隠しているという感覚が消えなかった。
* * *
その夜、シルヴィアは医療所の二階の小部屋で書類を整理していた。
窓の外でカーラの足音がした。屋根の上を歩く音だった。普段の見回りの音だ。シルヴィアはペンを置いて、しばらく天井を見上げていた。
あの人が好き。
その言葉を、自分の中で初めて整った形で言った。今日、言葉にしてみて、否定するより認める方が消耗が少なかった。論理的な判断だった。論理的に見ても、自分の感情の所在ははっきりしていた。
ただ、それだけで何かが解決するわけではない。
三人いる。ミアがいる。カーラがいる。自分がいる。あの人は気づいていない。気づかないことが優しさにも、鈍感にも見える。どちらでもある、というのが、たぶん正しい。
シルヴィアは書類に視線を戻した。法案の条文の修正案。明日までに仕上げる。手を動かす理由は、いつでもいくらでもある。
* * *
屋根の上で、カーラは星を見ていた。
屋根の高さからは王都の北側がよく見えた。教会の尖塔の灯りが、いつもより少なく感じられた。レヴァンが去ってから、教会内部の動きが減っているのかもしれない。それとも、組織が次の手を準備するために潜伏期間に入っているのか。どちらにせよ、見張りの仕事は続けることになる。
動きの少ない夜だった。教会方面に怪しい人影はない。ダルマン子爵の屋敷も静かだった。ミアの言うところの「先生のお腹が空いている顔」を、午前中に見た。それくらいだった。
「私もです」と、自分が口に出した言葉が、頭の中で何度か再生された。
言うつもりはなかった。言っても何も変わらないと思っていた。それでも言った。シルヴィアが先に言ったから、というだけではない。言える機会が来たから言った。それだけだった。
屋根瓦に背中を預けた。冷たかった。冷たさが心地良かった。
屋根の下では、医療所の窓から弱い灯りが漏れていた。アレクがまだ仕事をしている時間だった。たぶん次の患者の処置の検討。たぶん明日の予定の整理。あの男は止まらない。止まらない男を見ているのは、不思議と嫌ではなかった。
あの男は、たぶん、この夜にも自分の屋根の上で星を見ている人間がいることを知らない。それでいい、とカーラは思った。知られると面倒だ。それだけだ。
星が一つ流れた。カーラは何も願わなかった。願う作法を、知らなかった。
代わりに、屋根瓦に手のひらを置いた。そこから伝わる温度が、ゆっくりと変わっていく。それを感じている時間が、たぶん自分にとっての願いの代わりだった。
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