第54話 言えなかった言葉
レヴァンが去った翌日、医療所は不思議なほど静かだった。
長い戦いの一つが終わった。敵が一人いなくなった。枢機卿会議はまだ動いている——それでも今日は、静かだった。
朝の診察も普段の半分の人数だった。審問の話が広まり、住民が様子見をしているのかもしれなかった。教会との対立がどう着地するか、まだ分からないと判断した者が多かったのだろう。
アレクは記録の整理に時間を使った。審問の傍聴記録、レヴァンとの最後の対話の要約、これからの教会内部の動きの予測。
ミアは午前の診察を終えてから、薬草の整理をしていた。台の上に束を置いて、ひとつずつ整えていると、指が止まった。
——先生って、敵にも優しいんですね。
昨日廊下で言った自分の言葉が戻ってきた。言いながら、別のことを考えていた。先生は患者に優しい。敵にも優しい。だったら——私への気持ちは、何だろう。
「ミア」とアレクが声をかけた。
「は、はい」
「薬草の整理、終わりましたか」
「もう少しで終わります」
「終わったら、蒼熱病の経過記録を確認してほしい。シルヴィアの快復データを議会に提出するための追記が必要だ」
「分かりました」
ミアは整理を続けた。
* * *
夕方、二人になった。
シルヴィアは議会の用事で出かけており、カーラは見回りで外にいた。二人だけ、というのは久しぶりだった。普段は誰かが必ず一人は同じ部屋にいる医療所が、夕方の光の中で静まっていた。
アレクが帳面に書き込んでいた。ミアが隣のテーブルで蒼熱病の経過を整理していた。
ミアは何度か口を開きかけた。そのたびに止まった。
「先生」
「なんですか」
ミアが少し考えた。手の動きが止まった。
「先生は……私のこと、どう思っていますか」
アレクが手を止めた。「どういう意味ですか」
「えっと……弟子として、ということじゃなくて」
沈黙があった。
アレクが手を止めて、ミアを見た。視線がぶつかった。ミアが視線を逸らした。
「お前には、もっと広い世界を見てほしい」とアレクは言った。「弟子として優秀だ。しかしまだ俺の医療所しか知らない。もっと多くを見て、自分の医術師像を作ってから——今の俺が言えることはまだ、それだけです」
ミアが手元の薬草を一束、握ったまま動かなかった。
「……それは、答えじゃないです」と言った。
「今は答えを言う立場にない」
「じゃあいつなら」
「お前がお前自身の医術師になったとき」
ミアが「……ずるい」と言った。
「ずるくない。論理的な判断です」
「ずるいです」とミアは繰り返した。「先生はいつもそうやって、正しいんだけど、なんか違う気がする答えを言う」
「どこが違いますか」
「どこが、と言われても」
ミアが手元の羊皮紙に視線を戻した。手が動かなかった。
「……分かりました」とミアは言った。「じゃあ私、もっと広い世界を見ます。先生がそれを聞いてくれる日まで」
アレクが「それが正しい」と言った。
「先生に言われる前に自分で言いたかったです」
「言ったのはお前です」
ミアが「……そうですけど」と口を尖らせた。
「お前が決めたことを、俺が後押ししただけです。決めたのはお前」
「分かってます。分かってますけど」
ミアが「……意地悪」と小声で言った。声には笑いが混じっていた。
アレクはペンを取り直した。ミアも視線を紙に落とした。
しばらくして、ミアが「先生」とまた言った。
「なんですか」
「……広い世界を見るために、試験を受けてみたいと思っています。正式な医術師試験が整ったら」
「受けてください」とアレクは言った。「受かります」
「先生が言うと受かる気がするから、ずるい」
「さっきもずるいと言いましたね」
「二回言ったのは二回ずるいからです」
アレクが「……論理が分からない」と言った。ミアが「分からなくていいです」と返した。
しばらく作業を続けていると、ミアがふと顔を上げた。「先生、枢機卿会議が動くって言ってましたけど——具体的にいつ来るんでしょう」
「分からない。でも早い」
「どんな手を使うと思いますか」
アレクが「まだ読めていない」と言い、ペンを置いた。
「読めなくても、先生はきっとどうにかするんでしょうね」とミアは言った。
「根拠はありますか」
「あります」とミアは言った。「先生を見てきたから」
アレクが何も言わなかった。
しばらくして、ミアがまた口を開いた。「先生」
「なんですか」
「『広い世界を見てから』と言いましたよね」
「言いました」
「広い世界、って——例えばどんなものですか」
アレクが筆を置いた。考える顔をした。
「他の街の医療所を見ること。教会の認可を受けた治癒師の働き方を見ること。違う土地の患者を診ること。場合によっては、王都を離れて長期に出ることもあり得ます」
「離れる、ですか」
「離れた方が学べることがある。俺の元にずっといると、俺の医術しか学べない。それは一つの形にすぎない」
ミアが一拍置いてから「先生は、私が離れた方がいいと思っているんですか」と聞いた。
「思っています」
「……」
「ただし、すぐに離せという話ではありません」とアレクは続けた。「医術師制度が整い、試験ができてから。お前が一人で動ける段階になってから。それまでは弟子のままでいい」
ミアが「……それも、ずるいです」と小声で言った。
「なぜ」
「離れた方がいいって言っておいて、すぐ離せという話ではない、って——どっちですかって思います」
「どちらでもあります。お前の準備ができたとき、お前が決めることです」
ミアが「決めるのは、私なんですね」と言った。
「お前の人生はお前のものです」
ミアが「……分かりました」と言った。手元の羊皮紙にまた視線を落とした。文字を書く手が、しばらく止まっていた。
窓の外で、教会の鐘が鳴った。日没を告げる鐘だった。アレクとミアが、どちらも振り返らなかった。鐘が鳴り終わってから、ミアが「先生」と言った。
「なんですか」
「私、頑張ります」
「分かりました」
それだけの会話だった。それだけの会話だったが、ミアの手の動きは、しばらくしてから戻った。
窓の外がすっかり暗くなった頃、シルヴィアが議会の用事から戻ってきた。「ただいま戻りました」と言って入ってきたとき、室内の空気を一瞬、何かを察したような顔で見回した。
「何かありましたか」
「別に何も」とミアは言った。声が普段より少し高かった。
シルヴィアが「……そうですか」と言い、それ以上は聞かなかった。聞かないところがシルヴィアの気遣いだった。
ミアが「明日の患者リスト、整えておきます」と言って、机の方に戻った。
アレクは記録の続きに視線を戻した。書きかけのページに、まだインクが乾いていなかった。
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