第5話 町外れの少女
ダリウスから刃物の第一丁が届いたのは三日後だった。
鋼の薄刃、刃長四・八センチ。思っていたより仕上がりがいい。刃先を指で確認すると、紙が抵抗なく切れた。ダリウスは職人だった。布を巻いた持ち手の安定感も合格点だ。
これで最初の道具が揃った。消毒液の粗製も進んでいる——ニンニクと薬草アルコールを混ぜた溶液は、傷口に使えるかどうかはまだ試していないが、手洗い用としては機能している。孤児院の子供たちが毎朝手を洗う習慣が定着し始めた。
次の患者が来る前に、一つずつ埋めていた。
* * *
ミアを見つけたのは、翌朝の早い時間だった。
市場への道とは逆の方向、町の外れに向かう細道——廃屋の裏に、少女が倒れていた。十五歳くらいだろうか。白に近い薄茶色の服が汚れている。顔は青白く、唇が乾いていた。教会の見習い治癒師が着る服の色に似ていたが、襟元の徽章がない。剥がされているか、剥ぎ取られたのか。
脈を確認した。弱いが規則的。呼吸はある。体温は低い。皮膚の弾力がない——脱水だ。体から水分が失われている。放置すれば意識を失う。それと、腹部に筋緊張がある。空腹からくる収縮か、それとも何か食べていないだけか。
重篤ではない。しかし放置すればいずれそうなる。
「起きられるか」と声をかけた。
少女がゆっくりと目を開けた。灰緑色の瞳だった。アレクを見て、一瞬だけ瞳が細くなったが、立ち上がる力も出せずにいた。
「今から孤児院に連れていく。抵抗するなら後にしろ。今は歩けないだろう」
少女は何も言わなかった。
* * *
孤児院に運んで、まず水を飲ませた。一気に飲もうとするのを止めた。「一口ずつ飲め。胃に負担がかかる」。塩を溶かした水を作り、少量ずつ飲ませる。これだけで体の水分バランスを整えられる——前世の経験則だ。食塩水の浸透圧は、体液の浸透圧に近い。
次に食事。孤児院の厨房から薄い麦粥を用意してもらった。固形物は後にする。
一時間かけて少女は色を取り戻してきた。
「教会の見習いだったか」とアレクは聞いた。
少女が微かに頷いた。「……昨日、破門されました」
「理由は」
「魔力が弱いから、って。治癒魔法が使えないから、見習いでいる意味がないって」
アレクは少女の両手を確認した。薬草の汁で染まっている。教会で薬草調製を担当させられていたのだろう。これは見習いの下働きだが、目は鋭い。何かを観察する癖がある。
「教会では何をしていた」とアレクは聞いた。
「調薬と、患者の様子を記録するのが主で。あとは……魔力で体の中を見ることが、わずかにできて。それで患者の回復具合を測ったり」
アレクは止まった。
「今言ったことを、もう一度言ってくれ」
少女が戸惑いながら繰り返した。「体の中が、光の歪みみたいに見える時があって。どこかが悪い時は、歪みが大きくなる気がして」
魔力感知だ。
教会では「治癒魔法を使えない役立たず」として切り捨てられた能力——しかしアレクの目から見れば、これは生体をリアルタイムで感知できる診断補助能力だ。現代医学の精密検査機器をひとりで代替できる可能性がある。
「なんで見捨てなかったの」と少女が言った。声が静かだった。「誰も助けてくれないと思ってた。今更こんな場所で、死ぬのかって」
「見捨てる理由がないから」とアレクは言った。「それだけだ」
少女がアレクを見た。しばらく黙って、それから言った。「あなたって、本当に変な人ですね」
「よく言われる」
少女はもう一度アレクを見た。今度は警戒でも困惑でもない、恐怖とは別の何かが目に混じっていた——感謝か、それとも好奇心か。
名前を聞いた。「ミア」と言った。
アレクは頷いた。そして手元の道具——新しい刃物と消毒液の入った小瓶——を片付けながら、頭の中で考えていた。
この子には、使い道がある。いや、違う。この子には、使い方を教える価値がある。
その違いは大きかった。
* * *
ミアは夕方になっても眠り続けた。
脱水と栄養失調から立ち直る体は、休息を要求している。アレクは塩水の補給を二時間おきに続けた。意識が朦朧とした状態でも、声をかけると素直に唇を開けた。少しずつ、頬に色が戻ってきた。
エルダが「あの子、こっちで預かるのかい」と聞いた。
「明日まで様子を見る」とアレクは答えた。「立てるようになったら、本人に決めさせる」
「教会から逃げてきた子じゃないだろうね」
「破門されたと言っていた」
「同じことだよ」とエルダは言った。「教会は破門した子をしばらく追わない。でもあんたが匿った、と知れたら話が変わる」
アレクは頷いた。それでもミアを返す気はなかった。理由は単純で、返すと死ぬからだ。教会は自分が捨てた者にもう一度手を貸さない。それは制度ではなく性質の問題だった。
* * *
夜中、ミアが目を覚ました。
アレクが土間で消毒液の小瓶に栓をしている時だった。背後から「あの」と細い声がした。振り返ると、ミアが上半身を起こしていた。毛布をきつく握っている。
「水を飲むか」
「……はい」
水を渡した。ミアは両手で杯を持ち、ゆっくり飲んだ。一口ずつ、間を空けて。教会で誰かに教わったのか、それとも本能なのか分からなかった。
飲み終えたミアが、杯を膝の上に置いて、こちらを見た。
「先生」と言った。
「先生、と呼ぶのか」
「ここの子が、そう呼んでて。私もそう呼んでいいですか」
「好きにしろ」
ミアが少しだけ笑ったような気がした。もう一度、視線が落ちた。
「先生、私、置いてもらってもいいんですか」
「明日、立てるようになったら自分で決めろ。今は休め」
「……はい」
ミアは毛布を引き寄せて、また横になった。目を閉じる前に、もう一度だけアレクの方を見た。何かを言いたそうな目だった。けれど、言葉は出なかった。
アレクは消毒液の作業に戻った。栓をきつく締め、棚に並べる。明日になれば、新しい刃物と消毒液で、また一つ処置ができるようになる。
ミアの寝息が静かに聞こえてきた。アレクは、その寝息を確認してから、ようやく自分も腰を下ろした。
翌朝、アレクはまだ何を言うか決めていなかった。ただ、ミアが目を覚ます前に、自分の中で一つだけ確かめておくことがあった。
破門された見習いを匿うことの、リスクと意味——その釣り合いだった。
破門は教会の判断だ。覆すには、それなりの根拠が要る。今のアレクにはない。しかし「本人を治療し、保護する」ことには、いくつかの建前を立てられる。栄養失調と脱水の患者を診療した。本人が回復した後、孤児院の住人として受け入れた。それだけだ。教会から正式な抗議が来た時、その筋を通せば反論される。
反論されても、こちらの選択は変わらない。
アレクはランプを消した。窓の外、明け方の薄い光が差し始めていた。
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