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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第49話 まだ生きてる

 二日目の夜、重篤患者の一人が急変した。


 三十代の男性で、最初に確認したときは発熱と下痢だった。しかし夜になって様子が変わった。熱が四十度を超えた。呼吸が浅くなった。皮膚が白く冷たくなっていた。


 ミアが「先生、こちらの患者さん、急に……」と呼びにきたとき、アレクはすでに動いていた。患者の顔色を見て、頸動脈に手を当てて、瞳孔を確認した。三秒で状態を把握した。


「敗血症性ショック」とアレクは言った。感染が血液に入り込み、全身に炎症反応が起きている。体が自分自身を攻撃し始めた状態だ。治癒魔法が効かない類の症状だった。


 処置を始めた。


 点滴相当の液体を静脈に送る方法——この世界に注射器はないが、細い管と圧力を使った代替手段があった。煮沸消毒した布で感染部位を覆う。体温を安定させるために毛布を重ねる。


 血圧が低い。指先が紫がかっていた。瞳孔の反応が遅い。体の末端から血が引いていくサインが揃っていた。


「腹腔に膿が溜まっている可能性がある」とアレクは言った。指で触診し、患者が呻いた。「ここは硬い。腹膜に炎症が来ている。緊急で開けます」


 ミアが「開ける、というのは——」


「切ります。膿の溜まりを抜かないと、感染源を残したままになる」


 道具を煮沸湯から取り出した。メス、鉗子、針、糸。すべて手の届く位置に並べた。指を一本ずつ折りながら数を確認した。八本。揃っていた。


 ミアが「私、何をすればいいですか」


「光の歪みを見続けてください。心拍と血の流れ。光が消えそうになったら教える。すぐに教える」


「はい」


 呼吸の確保のために頭の位置を調整した。気道が塞がらないよう、布を巻いて顎の下に当てた。患者の意識は半ば落ちていたが、呼吸は続いていた。皮膚に紫斑が出始めていた。出血傾向が出ている。敗血症の進行段階としては末期に近い。


 メスを入れた。


 切開は最小にした。血の量が少なくて済むよう、皮膚から腹膜まで層ごとに開いた。腹腔に膿が出ていた。予想通りだった。鉗子で膿の溜まりを排出し、消毒した布で何度か拭った。感染部位の洗浄を続けた。


 ミアが隣で魔力感知を使い続けた。


「まだ生きてます。心拍は弱いけど……続いてます」


「分かった。続けて」


「血の流れが……全体的に弱くなってきています」


「脈を見ます」


 患者の手首を取った。脈は弱く、不規則だった。アレクは処置の手順を頭の中で確認した。輸液、感染部位の管理、体温維持——順番通りにやる。体内で何が起きているかは分かっている。分かっているから、焦る必要がない。


「ミア、この状態はどのくらい続いているか分かりますか」


「発症は今日の夕方から、だと思います。七時間か八時間くらい?」


「まだ戦える。処置を続けます」


 夜が更けた。患者の状態は一進一退だった。


 ミアが「まだ生きてる、まだいける」と言い続けた。声が呪文のようになってきた。


 アレクが「お前が言うなら生きている」と言った。


「私が言えば生きているんですか」


「お前の感知は正確だ。お前が『まだいける』と言う間は処置を続ける価値がある。それだけです」


 ミアが「……分かりました」と言い、また感知を続けた。


 縫合の前に、ミアが「先生、光が……消えそうです」と言った。


 アレクが手を止めた。「どこの光ですか」


「全身です。心拍の光が、すごく……薄い」


「補液を増やします。鉗子、ここを押さえてください」


 ミアが鉗子を受け取り、押さえた。手が震えたが、指の位置はずれなかった。アレクが点滴相当の管を太いものに切り替え、血管に圧をかけた。液体が流れ込む音がした。


「……戻りました」とミアが言った。「光が戻ってきました」


「分かった。続けます」


 縫合に入った。腹膜、筋膜、皮膚。三層を順に閉じた。針を通すたびに患者が小さく動いた。意識が完全には落ちていない。痛み止めが足りない。アレクは縫合の速度を上げた。布の一部が血で重くなった。


 縫い終えてから、患者の脈をもう一度取った。弱いが、続いていた。


「まだ生きてる」とアレクは言った。


 ミアが「まだ生きてます」と繰り返した。


* * *


 変化が来たのは夜中の二時過ぎだった。


「先生、血の流れが……強くなってきてる気がします」


「気がするじゃなくて、どうですか」


「……強くなっています。心拍も少し整ってきた」


 アレクが脈を確認した。確かに改善していた。危機を脱しつつあった。


「よかった」とアレクは言った。感情のない言い方だったが、そういう言い方をするときにアレクが何を感じているかは、ミアには分かるようになっていた。


 処置を続けながら、次第に余裕が生まれてきた。


 気づいたとき、ミアはアレクの肩に寄りかかっていた。いつからそうなっていたか分からなかった。眠りに落ちていた。


 アレクは動かなかった。


 ——軽い。


 それだけ思った。昼から十時間以上動き続けたのだ。眠るのは当然だった。患者の状態は安定に向かっている。このまま朝まで処置を続ければいい。


 夜明け前、外で物音がした。シルヴィアが封鎖区域の見回りから戻ってきていた。隔離部屋の入り口で立ち止まり、中を見て、何も言わずに引き返した。靴音が遠ざかった。


 アレクは患者の脈をもう一度取った。安定していた。


 夜明けが来た。患者が目を覚ました。


「……生きてる」と患者は言った。


「生きています」とアレクは言った。「ミアさん」と呼ぶと、ミアがはっと目を覚ました。アレクの肩から顔を上げて、患者を見て、それからアレクを見た。


「寝てました」とミアは言った。顔が赤かった。


「疲れていた」


「先生の肩で寝てたんですか、私」


「そうです」


「……ごめんなさい」


「謝る必要はありません。診察を続けてください」


 ミアが「は、はい」と言って患者の確認に移った。


 封鎖区域の外から、朝の音が聞こえてきた。夜が明けた。患者は目を覚ましていた。疫病はまだ終わっていない——しかし、ここの一人は越えた。


 ミアが患者の状態を確認しながら、何度かアレクの方を見た。視線が合わなかった。ミアが「先生、私……」と言いかけて、止めた。


「なんですか」


「いえ、何でもないです」


 アレクが「言ってください」


「先生の肩、軽くなかったでしょう」


「軽かったです」


「……」


 ミアが顔を背けた。耳まで赤くなっていた。「軽い」と言われたことが、誉められたのかどうか、本人にも分からない顔だった。


 アレクが患者の処置の続きに戻った。そのまま、何も追加で言わなかった。言うべき言葉を、まだ持っていなかった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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