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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第44話 議会の採決

 貴族議会の本会議は月に二度、王都の議会堂で開かれる。


 シルヴィアが「医術師独立認定法案」を正式提出したのは、ドナトゥスの訪問から五日後だった。侯爵の名前を連名にすること、支持を表明していた三貴族家の署名を添えること——事前の準備をすべて整えてからの提出だった。


 アレクは議会に同行しなかった。


「あなたの場は手術室よ」とシルヴィアが出かける前に言った。「私の場は議会。それでいいでしょう」


「お願いします」とアレクは言った。


 ミアが「……シルヴィア様、頑張ってください」と言った。シルヴィアが「頑張りません。勝ちに行きます」と返した。


* * *


 議会の結果は夕方に届いた。


 シルヴィアが戻ってきたとき、表情を読むのが難しかった。疲れていたが、崩れてはいなかった。


「採決は?」とアレクが聞いた。


「継続審議」とシルヴィアは言った。「賛成が三十二、反対が三十八、保留が十五。過半数には届かなかったが、反対が議会の過半数ではないという状況です」


「それは勝ちですか、負けですか」


「どちらでもない」とシルヴィアは言い、椅子に座った。「継続審議というのは、議会が明確な態度を取れなかったということです。教会派は阻止できなかった。改革派は通せなかった。膠着状態です」


「教会はどう動きましたか」


「レヴァン神官が議会に顔を出して、法案の危険性を演説しました。魔法なき治療の蔓延が神への冒涜だという論法で。しかし支持した貴族たちは動かなかった」


「それは良い兆候ですね」


「そう見ています。ただし教会は次の手を打ってくる。継続審議の期間、議員たちへの個別接触が始まるはずです」


「こちらも同じことをする必要がある」


「ええ。私は今夜から各議員の立場と動向を整理します。カーラさん、教会が接触している議員の情報を取れますか」


「動く」とカーラは言った。


 シルヴィアが「ありがとう」と言った。カーラは「借りを返しているだけだ」と言ったが、今回は少し早かった。


「一つ面白い話がありました」とシルヴィアは言った。「法案の質疑中、ある議員が『魔法なき治療が本当に有効なら、過去の患者記録を議会に提出せよ』と言いました。記録を出せれば、事実として議員たちの目の前に置けます」


「記録はありますか」とアレクは言った。


「ミアさんが全部つけています」


 ミアが「……はい、あります」と言った。「先生が最初に指示してくれた通り、全員分」


 アレクが「よかった」と言い、ミアの方を見た。「その記録帳が、最初からこのために存在していた」


「その記録が、次の採決を動かすかもしれません」とシルヴィアは言った。「負けではないし、勝ちでもない——でも教会が初めて『守り』に入りました。それは確かです」


「次の審議まで何日ありますか」


「三十日。その間が勝負です」


* * *


 その夜、シルヴィアが議会の議事録の写しを持ってきた。


「採決のとき、議員の発言を全部記録してきました」とシルヴィアは言った。羊皮紙が十数枚あった。「賛否の根拠を整理すれば、次の三十日間で誰を説得すべきかが見える」


 四人が卓を囲んで、議事録を読み始めた。


 反対派の発言は二つに分かれていた。「教会の権威を脅かす」という宗教的な反対と、「貴族領内の自治権が侵害される」という政治的な反対。前者は説得が難しい。後者は条文の修正で対応できる可能性がある。


「政治的な反対派の中で、説得できそうなのは誰ですか」とアレクが聞いた。


 シルヴィアが議事録の上で名前を指差した。「ベルクハイム伯爵、ヴァイス子爵、ガルニエ男爵。この三人は領内自治権の話をしていました。条文を調整すれば賛成に回る可能性があります」


「三人を引き寄せられれば、過半数に届きますね」


「届きます。ただし、教会が同じ三人を狙ってくる。賄賂か、家族への圧力か、領地への政治的な脅迫か」


 カーラが「私が三家の周辺を監視する」と言った。「教会派の動きが見えれば、こちらが先回りできる」


「お願いします」


* * *


 夜が更けて、ミアが記録帳を持ち出してきた。


「シルヴィア様、患者の例を議員への説明に使うとお話しでしたよね」とミアは言った。「どの例が良いか、選んでいただけますか」


 シルヴィアが記録帳を受け取った。患者の名前は伏せて、症状と処置と結果だけを書き出してある。一人ひとりの記録が、丁寧に並んでいた。


「ミアさん、これは……すごいわね」とシルヴィアが言った。


「先生に言われた通りに書いただけです」


「言われた通りに書ける人が珍しいの」とシルヴィアは言った。「これは説明資料の核になる。匿名化を進めて、議員に配れる形にしましょう」


 ミアが「私もお手伝いします」と言った。


「お願いします。あなたしかこの記録の意図を正確には伝えられない」


 ミアが頷いた。アレクの隣で、シルヴィアの隣で、自分が役割を持っている——それを実感したのは、初めてではなかったが、今夜は特に確かに感じた。


* * *


 深夜、シルヴィアが帰り際にアレクに言った。


「次の三十日で勝てば、王の勅令が議会の追認を得る。負ければ、勅令だけが残って、議会との対立が深まる。どちらにしても、あなたは前に出続ける必要があります」


「分かっています」


「先生、一つだけ確認させてください。次の三十日で、教会が実力行使に出る可能性は」


「ある。可能性はある」とアレクは言った。「しかし枢機卿ドナトゥスは制度の守護者だ。実力行使に出るのは、彼にとって最後の手段だ。先に政治的な手を打ってくる」


「政治的な手というのは」


「議員への個別接触。世論工作。それだけでは足りないと判断したら、実力行使に切り替える。その時が一番危険だ」


 シルヴィアが頷いた。「気をつけます」


「シルヴィアさんも気をつけてください。議会で目立つ立場になれば、教会の標的になる」


「すでになっています」とシルヴィアは言った。声に揺れはなかった。「ただ、それを承知の上で前に出ています。あなたと同じです」


 アレクが「そうですか」と言った。それ以上は言わなかった。


 シルヴィアが医療所を出ていった。馬車の音が遠ざかっていった。残った三人は、卓の上の議事録に視線を戻した。三十日間が始まっていた。


* * *


 翌朝、ミアがアレクに「カーラさんの動きは、私たちには分からない方がいいですか」と聞いた。


「カーラの仕事は本人が一番分かっている。詳しい場所や手順をこちらが知っていると、カーラ自身が動きにくくなる場合もある。基本は本人に任せる」


「でも、カーラさんが危ないことになっていないか心配で」


「心配は分かる」とアレクは言った。「ただ、心配を理由に動きを縛るのは、カーラの仕事を奪うことになる。あの人は『自分の役割で動きたい』と言っている。それを尊重する」


 ミアが頷いた。「分かりました」


 午後、シルヴィアの侍女・エレナが医療所に来て、議員への配布資料の原稿を持ち帰った。ミアの記録帳から抜粋した患者の例を、シルヴィアが法律的に整理した文書にしたものだった。羊皮紙が十数枚あった。


「これを五十部に複写します」とエレナは言った。「議員全員に配ります」


「ありがとうございます」とミアが言った。


 エレナが帰り際、「先生、お嬢様は最近、屋敷に戻ってからも医療所の話ばかりしておられます」と言った。


「議会の準備で忙しいですからね」


「議会の話だけではないのです」とエレナは言った。それ以上は言わなかった。扇子を閉じる音が一度して、エレナが出ていった。


 ミアが横で、アレクの様子を見ていた。アレクが何か気づいたのかどうか、表情からは読めなかった。ミアは小さく息を吐いて、自分の仕事に戻った。


お読みいただきありがとうございます。

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