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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第43話 枢機卿の取引

 訪問の知らせは一日前に届いた。


「枢機卿ドナトゥスが直接面談を求めています」とシルヴィアが言ったとき、その場にいた四人の顔が変わった。カーラが壁から背中を離し、ミアが記録帳を置いた。


「ドナトゥス枢機卿」とアレクは言った。「以前、工作員が言っていた『上の者』の正体ですね」


「間違いなく」とカーラは言った。「教会の最高意思決定機関の実質的な長。会いますか」


「会います」


「罠の可能性がある」


「罠なら、来てから対処します。来る前に怯えても仕方ない」


* * *


 翌日、ドナトゥスは二人の助祭を連れて医療所を訪れた。


 六十代。白髪、穏やかな顔立ち。しかし目は鋭かった。アレクを一瞥して、医療所の室内を静かに見回した。道具棚、薬草の束、患者記録の羊皮紙。何かを計算するような目だった。


「ハルト・アレク」とドナトゥスは言った。声は穏やかだったが、重みがあった。「話が伝わっているかと思いますが、改めて——取引をしたいと思って参りました」


「内容を聞かせてください」


「お前を教会の公認医術師として認定する。報酬は充分に出す。活動の場も与える。その代わり、現在の動き——独立した医術師制度の推進は止めてもらいたい」


 アレクは「患者が払う費用は変わりますか」と聞いた。


 ドナトゥスが「……それは」と言い、少し止まった。


「答えられないなら断ります」


「費用の問題は別途——」


「答えられないなら断ります」とアレクはもう一度言った。


 沈黙があった。


 ドナトゥスが「……お前は頑固だな」と言った。怒りではなかった。何か別のものが混じっていた。


「条件が合わない取引を受ける理由がありません」


「お前の目標は患者を救うことだろう。教会の公認医術師になれば、より多くの患者に接触できる。なぜその機会を断る」


「公認医術師になれば教会の管理下に入ります。俺が治療できる患者は、教会が許可した患者になる。費用を払えない者は今まで通り外に出される。それでは何も変わらない」


 ドナトゥスが「……」と黙った。


「一つだけ聞かせてください」とアレクは続けた。「ドナトゥス枢機卿は、教会の制度を守ることが信仰だと信じておられるのですか」


 ドナトゥスが目を細めた。「そうだ。制度が崩れれば、神への奉仕も崩れる。それが私の信念だ」


「なるほど」とアレクは言った。「では俺たちの価値観は根本的に違います。俺は制度より患者が先にある。あなたは制度が先にある。この取引は成立しません」


 ドナトゥスが「……お前は恐ろしいな」と言った。感情のない声だった。


「何が恐ろしいのですか」


「確信だ。疑わない者ほど、制度を揺るがす」


 ドナトゥスが立ち上がった。助祭たちが従った。「考えが変わったら連絡せよ」と言い、扉に向かった。


 扉の前で立ち止まり、振り返った。「お前の動きは、枢機卿会議全員が注目している。その意味を理解した上で続けることだ」


 扉が閉まった。


 室内が静まった。


「……来ましたね」とシルヴィアが言った。


「来ました」とアレクは言い、手元のメモに「枢機卿会議——全員」と書いた。


* * *


 ドナトゥスが帰った直後、四人は卓を囲んだ。


 ミアが「先生、本当に断ってよかったんですか」と聞いた。「教会の公認医術師になれば、もっと楽に動けるんじゃないですか」


「楽にはなる。ただし、楽になった分だけ、患者が払う費用は変わらない。教会が管理する医療の枠の中で、俺の名前が肩書きとして使われるだけだ。それでは何も変わらない」


「枢機卿は……話を聞く人ですよね。レヴァン神官とは違う」


「話を聞く人だからこそ、断り方が重要だった」とアレクは言った。「あの人は俺の論理を理解していた。理解した上で取引を提案した。理解した相手の取引を断ると、相手は次に同じ取引を出してこない。次は別の手で来る」


 シルヴィアが頷いた。「枢機卿は『考えが変わったら連絡せよ』と言ったわ。あれは社交辞令ではないと思う。本当に、もう一度同じ条件は出さない、という意味です」


「次に来るのは何ですか」


「実力行使か、政治的な圧力か」とカーラが言った。「枢機卿が直接動いたということは、教会が組織として臨戦態勢に入ったということだ。次の手は組織で来る」


* * *


 アレクは羊皮紙にメモを並べた。


「ドナトゥスの言葉を整理する」と言った。「『制度を維持することが信仰だ』——これが核心だ。あの人にとって、神への奉仕とは、教会という制度を守ることだ。患者の命より制度が先にある」


「歪んだ信仰ですね」とシルヴィアが言った。


「歪んでいるとは限らない」とアレクは言った。「あの人にとっては、制度が崩れれば民の精神的支柱も崩れる、という論理がある。それは一理ある。間違ってはいる、しかし純粋な悪ではない」


「先生は、敵を悪く言わないですね」とミアが言った。


「悪く言うと、自分の判断が甘くなる。相手を理解した上で戦う方が、結果が早い」


 カーラが「……お前は変わらない男だ」とまた言った。今度は声に少しだけ笑いがあった。


 アレクが羊皮紙の最後に、もう一行書き加えた。


「枢機卿ドナトゥス——制度の守護者。論理が通じる相手。ただし価値観の根本が違う」


 書き終えて、ペンを置いた。「次に動くのは王だ。勅令の話が進めば、教会は議会の採決を待たずに動く必要が出てくる」


* * *


 ドナトゥスが医療所を出た直後、シルヴィアの侍女・エレナが届けに来た情報があった。


「ハルトマン家の使者の話によれば、枢機卿は医療所を訪れた後、王宮に向かったとのことです」とエレナは言った。「王にも何かを伝えに行った可能性があります」


 シルヴィアが「父に確認します」と言って、馬車を呼んだ。


 医療所を出る前に、シルヴィアはアレクの方を向いた。「先生、断ってくれてありがとう。あなたが取引を受けていたら、私の戦う場が消えていた」


「シルヴィアさんの戦う場は、議会です。それは取引の有無に関わらず存在する」


「議会でも、あなたが教会の公認医術師になっていたら、独立法案の意義が消えていた。あなたが断ったから、戦う意味が残った」


 アレクが少し考えてから「そうか」と言った。


 シルヴィアが「先生は、自分が断ったことが他人にとってどういう意味を持つか、たまに気づかない人ですね」と言って、出ていった。


 ミアが横で「シルヴィア様、また先生に何か言ってる」と小さく笑った。


 カーラは黙って壁にもたれていた。目だけが、シルヴィアの後ろ姿を追っていた。何かを観察する目だった——貴族の所作を、自分の中の何かと比べているような目だった。


お読みいただきありがとうございます。

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