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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第38話 貴族の視察

 シルヴィアが動いた。


 翌週、ハルトマン家の名前で複数の貴族に招待状が送られた。「医療所の視察と、医術師制度草案の説明会」という名目だった。五家族が応じた。


「五家族というのは、期待以上ですか以下ですか」とアレクはシルヴィアに聞いた。


「期待通りです」とシルヴィアは言った。「招待した十二家族のうち五家族が応じたということは、関心がある。残りの七家族は様子見か、教会寄りかのどちらかです」


「教会寄りの七家族に情報が流れると思いますか」


「確実に。だからこそ、この視察でしっかり見せる必要がある」


* * *


 視察は二日間にわたって行われた。


 一日目は医療所の見学だった。アレクが衛生管理の方法を説明した。煮沸消毒の意味、手洗いの効果、傷口の清潔保持。貴族たちは半信半疑の顔で聞いていたが、孤児院の子供たちが元気に走り回っているのを見て、表情が少し変わった。


「子供たちは病気をしないのですか」と一人の婦人が聞いた。


「夏の流行り病で、周辺の家から何人もが寝込んだとき、ここの子供たちは全員元気でした。衛生管理の差です」とアレクは答えた。


「教会の治癒師なしでそれが可能なのですか」


「治癒師は病気になってから呼ぶものです。病気にならなければ治癒師は不要です。それが予防医療の考え方です」


 二日目は草案の説明だった。シルヴィアが話した。


 貴族たちが最も反応したのは、「費用」の話だった。「現在、治癒師への支払いにどれほどの金額が動いているか。そのうちどれほどが教会の管理費として徴収されているか」というデータを、シルヴィアが提示した。


「私の屋敷で一年間に支払った治療費の三十パーセント以上が教会本体に渡っていた計算です」とシルヴィアは言った。「独立した医術師制度が機能すれば、その部分が医療そのものに使えます」


 貴族たちがざわめいた。


 視察の翌日、シルヴィアは手応えを報告した。「三家族が支持を明言しました。あと二家族は検討中です」


「十分です」とアレクは言った。「教会が反発するより先に、貴族側の声が議会に届けば、論議の構図が変わる」


「急ぐ必要がある。レヴァンは教会内部に視察の情報が届いていると判断するはずです」


「枢機卿会議が動く前に」


「そうです」


 アレクは「分かりました」と言い、草案を手に取った。


 次は王だ。


 この動きが本格化すれば、教会は黙っていない。レヴァンの次の手が来るまでの時間は限られていた。


 シルヴィアが「教会に対して、貴族として正式に異議申し立てを行う時が来た」と言った。声に覚悟があった。


 アレクは答えなかった。代わりに羊皮紙の草案を、もう一度最初から読み始めた。穴があれば今のうちに塞いでおく。教会は論理ではなく権威で動く組織だが、権威も根拠のある論理には弱い——そう判断していた。


 カーラが壁際で立ち上がった。「私は周辺の監視に戻る。視察の情報が漏れているなら、今夜から動きが変わるかもしれない」と言い、足音を立てずに出ていった。


* * *


 視察の三日後、医療所の前で異変があった。


 朝、扉を開けたミアが、入り口の石段に羊皮紙が一枚置かれているのを見つけた。封蝋はなかった。広げて読むと、短い文だった。


「医術師ごっこは、命を賭けるものだ。賭け方を知っているのか」


 ミアが息を止めた。それからすぐに、その紙を持ってアレクのところに行った。


 アレクは紙を一読して、「カーラに見せる」と言った。動揺は見せなかった。「これは脅迫文の体裁だが、実は警告文だ。本当に動く者は文章を残さない。これを書いた者は、こちらに『動いてくれるな』と伝えたい」


「警告で済むんですか」


「済まない。警告の後には実力行使が来る。来る前に動く必要がある」


 ミアが頷いた。怖いと言いかけて、それを口にしないことを選んだ。先生の言葉の中にすでに「対処する」という意思が含まれていた。それで十分だった。


* * *


 昼過ぎ、シルヴィアが医療所に戻ってきた。父・ハルトマン侯爵への説得を終えてきたという報告だった。


「父は支持を表明します」とシルヴィアは言った。「ただし条件付きで。法案の文言の中で、貴族領内の自治権が侵害されないように調整することが条件です」


「妥当な条件です」とアレクは言った。「貴族領内の医療をどう運営するかは、各領主の判断に委ねる。そう書き換えましょう」


「それで父は議会で発言します」


「侯爵が動けば、流れが変わる」


 シルヴィアが頷いた。「父が動くまでに、ここまで来るのに長い時間が必要でした。父は私の病気を治してくれたあなたに感謝はしている。でも貴族としての立場と、感謝の感情は別物です。父は今日、両方を一致させた」


「侯爵にとっては大きな決断ですね」


「そうです」


 ミアが「シルヴィア様、お父様にお礼を言いたいです」と言った。


「先生がお礼を言うべきです」とシルヴィアは答えた。「父が動いたのは、あなたの治療所で患者が助かっているという事実があるからです。事実を作ったのは先生」


 アレクは「考えておきます」と言った。


 シルヴィアが羊皮紙の草案に視線を落とした。「次は王への提出です。侯爵連名で出せば、王も無視できません」


「日取りは」


「五日後。侯爵が王宮に登城する日に合わせます」


「分かりました」


 会話が一段落した。シルヴィアが立ち上がりかけて、止まった。


「先生」とシルヴィアは言った。「父が言っていました——『あの男は嘘をつかない。だから周りが嘘をつかなくなる。それが一番厄介だ』と」


「褒め言葉ですか」


「父にとっては、最大の褒め言葉です」とシルヴィアは言った。「貴族社会で『嘘をつかない』というのは、それ自体が珍しいことなので」


 アレクは「俺は嘘のつき方を知らないだけです」と言った。


 シルヴィアが扇子をたたんで「……それも父の言う通りね」と言い、医療所を出ていった。


* * *


 夜、カーラが情報を持って戻ってきた。


「視察に応じた五家族のうち、三家族の屋敷周辺で教会の使者が動いている」とカーラは壁にもたれて言った。「賄賂の打診か、脅迫か、まだ判断はつかない。ただ動きが早い」


「教会の動きが早いのは予想通りだ」とアレクは言った。「シルヴィアさんに伝えてください。三家族の方に先回りで連絡を取り、教会の使者が来たら受けないように依頼を」


「分かった」


 ミアが「先生、私たちが視察に応じた家族の方々を巻き込んでしまったんですね」と言った。


「巻き込んだ、というのは正確じゃない。あの家族は自分の判断で視察に応じた。教会の動きは想定の範囲内だ。想定内の動きには想定の対応をする」


「その対応は、誰がしますか」


「シルヴィアさんと、ハルトマン侯爵だ。貴族同士の話は貴族でしか動かない」


 ミアが頷いた。


 カーラがしばらく壁にもたれていた。それから「お前、いつも冷静だな」とアレクに言った。


「冷静なのではなく、慌てる理由がないだけです。慌てると判断が鈍る」


「私の仕事だと、慌てる場面が多いんだ」とカーラは言った。「お前の仕事は慌てない場面が多いのか」


「手術中は慌てない方が患者が助かる確率が上がります。それが習慣になっただけです」


 カーラが「……そうか」とつぶやいて、目を閉じた。今夜はここで眠ると決めたらしかった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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