第36話 鏡の前で
ハルトマン家の屋敷に戻ったシルヴィアは、珍しく書類に集中できなかった。
枢機卿ドナトゥスの名前が頭の隅に引っかかっていた。確かな情報ではない。しかし教会の最高幹部の名前が出たということは、この戦いの規模が変わるということだった。
書類を閉じて立ち上がった。
窓の向こうに夜の王都が広がっている。あの医療所にはまだ灯りがついているだろうか。
「シルヴィア様」とエレナが言った。「今日も遅くまでお仕事でしたね」
「……そうね」
「ドナトゥス様のお話、心配ですか」
シルヴィアは少し間を置いた。「情報としては把握しました。対策を考えなければならない。それだけです」
エレナが「そうですか」と言いながら、扉の向こうに出ていく前に少しだけ笑った。シルヴィアはその笑いが気になったが、何も言わなかった。
扉が閉まりかけた瞬間、エレナが「ああ」と言って戻ってきた。「お嬢様、夕刻に使者が参りました。教会の紋章のない、私的な書簡です」
シルヴィアが手を差し出した。封筒を受け取り、封蝋を確認した。見知らぬ家紋だった。「差出人の名前は」
「記載がありませんでした」
シルヴィアは封を切った。中には短い一文だけがあった。——『枢機卿が動く前に、あなたと話したい人間がいる。場所と日時は追って』
差出人の名はなかった。シルヴィアは書簡を折り、引き出しに入れた。「明日、父に見せます」
「かしこまりました」とエレナは言い、今度こそ出ていった。
* * *
一人になって、シルヴィアは寝台に腰を下ろした。
疲れていた——手を見ると、指先がかすかに震えていた。今日どれだけ動いたかを考えれば不思議ではない。それでも、震えているのを見たのは久しぶりだった。
ランプの炎が揺れた。視線がそこに止まった。
アレクのことを考えていた。気づいたのは、炎を見つめてしばらく経ってからのことだ。
そのことに気づいたとき、シルヴィアはすぐに思考を切り替えようとした。論理的に考えれば、あの人物は自分の後援者として最も適切な投資先だ。病気を治してもらった。医療制度の改革という目標が一致している。それだけのことだ。
だが鏡の前に立ったとき、自分の顔を見て気づいた。
眉間に、皺が寄っていた。
エレナに何度か指摘されたことがある。感情が出ているときに出る癖だと言われた。しかし自分では気づかない。今も気づかなかった。鏡に映った自分が、初めてそれを教えた。
シルヴィアは鏡から一歩離れた。
鏡に映った自分の顔に、また目が行った。眉間の皺は消えていなかった。——あの人が守ると言ったら守る人だということを、シルヴィアは知っている。嘘をつかない人だということも。それを考えるとき、扇子を持つ指が、鼈甲の縁を強く押さえた。
シルヴィアは鏡から目を離した。窓の外の暗い空を向いた。
礼として返すべき言葉は分かる。しかしその言葉を口の中で並べたとき、シルヴィアは扇子を閉じた。鼈甲の縁が手のひらにあたった。
シルヴィアは自分の思考が滑稽であることに気づいた。
「……馬鹿なことを考えている」
つぶやいた言葉が、静かな室内に吸い込まれた。
鏡の自分が、何も答えなかった。眉間の皺だけが、まだそこにあった。
* * *
翌朝、医療所に顔を出したシルヴィアは、アレクが新しい草案を羊皮紙に書いているのを見た。
「おはようございます」とシルヴィアは言った。
「ちょうど良かった」とアレクは言った。顔を上げずに。「医術師制度の草案に、法律的な観点から修正を入れてもらえますか。俺には分からない部分がある」
シルヴィアは一呼吸置いた。
「……分かりました」と言って、椅子に座った。
昨夜の思考は昨夜のものだ。今日は仕事がある。
* * *
草案を読み始めて、シルヴィアは集中することができた。
法律の文言は、感情とは違う場所にある。条文の言葉一つひとつに穴があれば、教会派の議員が突いてくる。第二条の「信仰の有無は問わない」という一文は、教会派から「信仰の否定だ」と読まれる余地がある。「医療行為の判断基準において信仰の有無は条件としない」と書き換える方が安全だ——そういう作業を、シルヴィアは黙々と続けた。
アレクは隣で別の項目を書いていた。費用の上限、無償診療枠の対象、認定試験の内容。手元のペンが止まらなかった。
「この第三条の条文ですが」とシルヴィアが言った。「『王権の庇護下』という表現は、教会が『教会も王権の一部だ』と主張する余地があります」
「では『王家直属の認定機関の管轄下』にしましょう」
「それで良いと思います」
会話は仕事の話だった。それしかなかった。アレクが草案に目を落としているあいだ、シルヴィアは羊皮紙の余白に条文修正案を書いた。ペンが止まらなかった。
昼前、エレナが書類を届けに来た。シルヴィアの隣に立ち、アレクとシルヴィアが羊皮紙を覗き込んでいる姿を、しばらく見ていた。
帰り道、馬車の中で、エレナが「お嬢様」と言った。
「なに」
「あの先生、本当に何も気づいておられないんですね」
「何の話」
「お嬢様の表情ですよ」
シルヴィアが「私の表情に何が出ていたの」と問い返した。
「特には。ただ、医療所にいる間のお嬢様は、屋敷で書類を読んでいる時より、少しだけ柔らかく見えます」
「気のせいよ」
「気のせいでも構いませんが」とエレナは言った。「お嬢様、素直になられた方が、楽になることもあります」
シルヴィアが扇子を開いて、口元を隠した。「侍女が主に説教する時代になったのね」
「お嬢様が説教を聞いてくださる時代になっただけです」とエレナは答えた。声に笑いがあった。
シルヴィアは何も言わなかった。窓の外を見て、馬車の揺れに身を任せた。扇子を持つ手が、また止まっていた。今度はそれに気づいた。気づいて、扇子をたたんだ。
馬車が屋敷に着いた。シルヴィアが先に降りて、玄関に入った。
夕食の前に、もう一度鏡の前に立った。眉間の皺は、今日は出ていなかった。ペンを握っていた指が、まだわずかにインクで汚れていた。明日も仕事がある。明後日も。
扇子を持って、夕食の席に向かった。父が待っていた。今夜は医療所の話を持ち出されるかもしれない。その時に、声がいつもと違わないように——シルヴィアは扇子を握り直した。
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