表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/69

第36話 鏡の前で

 ハルトマン家の屋敷に戻ったシルヴィアは、珍しく書類に集中できなかった。


 枢機卿ドナトゥスの名前が頭の隅に引っかかっていた。確かな情報ではない。しかし教会の最高幹部の名前が出たということは、この戦いの規模が変わるということだった。


 書類を閉じて立ち上がった。


 窓の向こうに夜の王都が広がっている。あの医療所にはまだ灯りがついているだろうか。


「シルヴィア様」とエレナが言った。「今日も遅くまでお仕事でしたね」


「……そうね」


「ドナトゥス様のお話、心配ですか」


 シルヴィアは少し間を置いた。「情報としては把握しました。対策を考えなければならない。それだけです」


 エレナが「そうですか」と言いながら、扉の向こうに出ていく前に少しだけ笑った。シルヴィアはその笑いが気になったが、何も言わなかった。


 扉が閉まりかけた瞬間、エレナが「ああ」と言って戻ってきた。「お嬢様、夕刻に使者が参りました。教会の紋章のない、私的な書簡です」


 シルヴィアが手を差し出した。封筒を受け取り、封蝋を確認した。見知らぬ家紋だった。「差出人の名前は」


「記載がありませんでした」


 シルヴィアは封を切った。中には短い一文だけがあった。——『枢機卿が動く前に、あなたと話したい人間がいる。場所と日時は追って』


 差出人の名はなかった。シルヴィアは書簡を折り、引き出しに入れた。「明日、父に見せます」


「かしこまりました」とエレナは言い、今度こそ出ていった。


* * *


 一人になって、シルヴィアは寝台に腰を下ろした。


 疲れていた——手を見ると、指先がかすかに震えていた。今日どれだけ動いたかを考えれば不思議ではない。それでも、震えているのを見たのは久しぶりだった。


 ランプの炎が揺れた。視線がそこに止まった。


 アレクのことを考えていた。気づいたのは、炎を見つめてしばらく経ってからのことだ。


 そのことに気づいたとき、シルヴィアはすぐに思考を切り替えようとした。論理的に考えれば、あの人物は自分の後援者として最も適切な投資先だ。病気を治してもらった。医療制度の改革という目標が一致している。それだけのことだ。


 だが鏡の前に立ったとき、自分の顔を見て気づいた。


 眉間に、皺が寄っていた。


 エレナに何度か指摘されたことがある。感情が出ているときに出る癖だと言われた。しかし自分では気づかない。今も気づかなかった。鏡に映った自分が、初めてそれを教えた。


 シルヴィアは鏡から一歩離れた。


 鏡に映った自分の顔に、また目が行った。眉間の皺は消えていなかった。——あの人が守ると言ったら守る人だということを、シルヴィアは知っている。嘘をつかない人だということも。それを考えるとき、扇子を持つ指が、鼈甲の縁を強く押さえた。


 シルヴィアは鏡から目を離した。窓の外の暗い空を向いた。


 礼として返すべき言葉は分かる。しかしその言葉を口の中で並べたとき、シルヴィアは扇子を閉じた。鼈甲の縁が手のひらにあたった。


 シルヴィアは自分の思考が滑稽であることに気づいた。


「……馬鹿なことを考えている」


 つぶやいた言葉が、静かな室内に吸い込まれた。


 鏡の自分が、何も答えなかった。眉間の皺だけが、まだそこにあった。


* * *


 翌朝、医療所に顔を出したシルヴィアは、アレクが新しい草案を羊皮紙に書いているのを見た。


「おはようございます」とシルヴィアは言った。


「ちょうど良かった」とアレクは言った。顔を上げずに。「医術師制度の草案に、法律的な観点から修正を入れてもらえますか。俺には分からない部分がある」


 シルヴィアは一呼吸置いた。


「……分かりました」と言って、椅子に座った。


 昨夜の思考は昨夜のものだ。今日は仕事がある。


* * *


 草案を読み始めて、シルヴィアは集中することができた。


 法律の文言は、感情とは違う場所にある。条文の言葉一つひとつに穴があれば、教会派の議員が突いてくる。第二条の「信仰の有無は問わない」という一文は、教会派から「信仰の否定だ」と読まれる余地がある。「医療行為の判断基準において信仰の有無は条件としない」と書き換える方が安全だ——そういう作業を、シルヴィアは黙々と続けた。


 アレクは隣で別の項目を書いていた。費用の上限、無償診療枠の対象、認定試験の内容。手元のペンが止まらなかった。


「この第三条の条文ですが」とシルヴィアが言った。「『王権の庇護下』という表現は、教会が『教会も王権の一部だ』と主張する余地があります」


「では『王家直属の認定機関の管轄下』にしましょう」


「それで良いと思います」


 会話は仕事の話だった。それしかなかった。アレクが草案に目を落としているあいだ、シルヴィアは羊皮紙の余白に条文修正案を書いた。ペンが止まらなかった。


 昼前、エレナが書類を届けに来た。シルヴィアの隣に立ち、アレクとシルヴィアが羊皮紙を覗き込んでいる姿を、しばらく見ていた。


 帰り道、馬車の中で、エレナが「お嬢様」と言った。


「なに」


「あの先生、本当に何も気づいておられないんですね」


「何の話」


「お嬢様の表情ですよ」


 シルヴィアが「私の表情に何が出ていたの」と問い返した。


「特には。ただ、医療所にいる間のお嬢様は、屋敷で書類を読んでいる時より、少しだけ柔らかく見えます」


「気のせいよ」


「気のせいでも構いませんが」とエレナは言った。「お嬢様、素直になられた方が、楽になることもあります」


 シルヴィアが扇子を開いて、口元を隠した。「侍女が主に説教する時代になったのね」


「お嬢様が説教を聞いてくださる時代になっただけです」とエレナは答えた。声に笑いがあった。


 シルヴィアは何も言わなかった。窓の外を見て、馬車の揺れに身を任せた。扇子を持つ手が、また止まっていた。今度はそれに気づいた。気づいて、扇子をたたんだ。


 馬車が屋敷に着いた。シルヴィアが先に降りて、玄関に入った。


 夕食の前に、もう一度鏡の前に立った。眉間の皺は、今日は出ていなかった。ペンを握っていた指が、まだわずかにインクで汚れていた。明日も仕事がある。明後日も。


 扇子を持って、夕食の席に向かった。父が待っていた。今夜は医療所の話を持ち出されるかもしれない。その時に、声がいつもと違わないように——シルヴィアは扇子を握り直した。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ