第32話 悪魔の噂
謁見から三日後、ミアが暗い顔をして帰ってきた。
薬草の買い出しから戻るはずが、いつもより一時間遅かった。アレクが問いかけると、ミアは道具袋をテーブルに置き、少し迷ってから話した。
「市場で……聞いてしまったんです。私の知らない人たちが話していて」
「何を」
「先生のことを。前世の記憶を持つ異邦人だって。だから知識がある。悪魔に魂を売った者だから、魔法なしでも病気が治せるんだって」
アレクはその話を聞きながら、消毒液の瓶に蓋をした。「誰から広まっていましたか」
「分からないです。でも……何人もが同じことを言っていて。薬草屋のおじさんも、最初、私の顔を見たときに変な目をして。それで分かったんです、先生の弟子として知られてるから、その目が向いてるんだって。普段は優しい人なのに、その目が向いた瞬間だけ……変わった」
「そうですか」
「怖くないんですか」と聞いた。
「怖い理由がない。証明できないことを信じる必要はない。俺の技術は見れば分かる」
ミアは頷いたが、まだ顔の曇りが取れなかった。「でも、市場の人たちは先生の治療を直接見ていないから……それに、見ていても怖いという気持ちは残るかもしれない。見たけど怖いっていうのは、あり得ると思う」
「それはその通りだ」とアレクは言った。「だから今まで通りやり続ける。それが唯一の答えだ」
* * *
カーラが翌朝、情報を持ってきた。
「教会が流している」と壁際で言った。「レヴァンの指示だ。謁見で手詰まりになったと判断して、世論工作に切り替えた。標的はお前そのものではなく、周囲——お前を信頼している者たちだ」
「証明できますか」
「出所は確認した。教会系の説教師が市場周辺で話を広めている。文書はない。問いかけに答えるのは平民の口だから、追跡が難しい」
「文書がなければ法的に追えない」とアレクは言った。
「追わなくていい。対応策を考えた方が早い」
シルヴィアが腕を組んでいた。「悪魔に魂を売った、というのは民衆に効きます。教会を信仰している人間にとって、それは最大の拒絶理由になる。実績を積んでいても、出所のはっきりしない噂には対抗しにくい。論理より先に恐怖が動く」
「噂に反論する必要はない」とアレクは言った。「俺の治療を受けた患者が答えを知っている」
「感情は論理で動かせません」とシルヴィアは言った。声が少し鋭くなっていた。「それをあなたは分かっていない。民衆が教会を信じる根拠は、論理ではなくずっと昔からある習慣と恐怖です。それを実績で覆すには——」
「時間がかかる。分かっています」とアレクは言った。「だから俺は実績を積み続ける。論理が感情を変えるのは時間がかかる。でも積み重なった事実は最終的に感情を動かす。それだけです」
シルヴィアが黙った。言い返せないのではなく、言い返すための言葉を持てていないのだと分かった。
カーラが「……そういう男だ」と壁際でつぶやいた。誰に言うわけでもなかった。
アレクは「レヴァンの意図は分かった」と言った。「周囲を削るなら、俺への信頼が基盤になっている場所を狙う。患者が俺を避け始めれば、実績を積む機会が減る。実績がなければ、風評を覆す根拠がなくなる。その連鎖を狙っている」
「理解しているなら、対抗策は」とシルヴィアが言った。
「患者を診続けることだけだ。一人でも多く診て、一人でも多く治す。それが唯一の対抗手段だ」
「それが届かない人間が、どんどん増えていくんです」とシルヴィアは言った。「噂は先生が診ていない人間の間でも広がる。診ていない人間は——」
「最終的には知人から聞く」とアレクは言った。「知人が先生に診てもらって助かったという事実は、噂より近い。それを積み上げる」
シルヴィアが黙った。
カーラが壁から離れて言った。「……教会の条文がある」
二人がカーラを見た。
「聖典の中に、『魔法なき治癒は悪魔の業』という条文がある。レヴァンはそれを根拠に動いている。条文そのものを崩せれば、噂の根拠が消える」
「崩せますか」とアレクは聞いた。
「条文がいつ、誰によって書かれたかを確認できれば。古い改竄なら証明できる可能性がある」
アレクは頷いた。「それは時間がかかる仕事だ。今すぐはできない。今は患者を診ることが先だ」
* * *
翌日、ミアが患者の母親に言われた。
骨折の少年を連れてきた母親が、処置の後でミアに小声で言った。「あの先生は……本当に大丈夫なの。悪魔と取引をした人に触れさせるのは怖くて」
ミアはすぐに「違います」と言った。「先生は夜中でも患者のもとへ行く人です。処置の後で毎回説明を欠かさない。弟子の記録帳を毎日確認する。——そういう人を悪魔と呼ぶなら、私には反論できません。でも先生を見ていた人間として、違うと言います」
「あなたがそこまで言うなら」と母親は言った。まだ不安の残る目だったが、足取りは来た時より軽かった。
ミアはその夜、一人でいるとき、その目のことを思い出した。
先生が救った人たちが、それでも不安を持っている。この世界の信仰がどこまで深いか、ミアは教会の見習いだったから知っていた。神の名前は、人の心の深いところに繋がっている。論理より前にある。先生の言う通り実績を積めば変わるかもしれない——でもその「変わる」までの間に、ミアのことを悪い目で見る人が増えていく。
証明より感情が先に動く——先生の言葉も、シルヴィアの言葉も、どちらも正しい。だからこそ難しい。
「でも先生は変わらないと思う」とミアはつぶやいた。
一人でいる部屋の中で、その言葉は誰にも届かなかった。それでも言わずにはいられなかった。
——翌朝、薬草屋の前に見慣れない男が立っていた。市場の往来から外れた場所に、動かずにいた。ミアはその男から目を離さないまま、足を止めた。
男は薬草屋の中を見ていた。ミアを見ていない——しかし周囲の動きを確認しているような立ち方だった。孤児院の方向から来た人間だと、その角度で分かる。
ミアは足を踏み出すより先に、一度立ち止まって周囲を見回した。先生だったら、この状況でどう判断するか。観察する。情報を集める。逃げるかどうかはその後だ。
男がミアに気づいた。目が合った。男は動かなかった。ただ、ミアを見ていた。
ミアは「……先生の弟子です」と言った。声が震えないように気をつけながら。「何か御用ですか」
男は何も言わなかった。そのまま市場の人込みに消えた。
ミアは孤児院まで早足で戻り、アレクに報告した。「市場で、見慣れない人が」
「特徴は」
「背が高くて、外套を着ていて……動き方が、カーラさんと似ていました。訓練された人の動き方」
アレクが「分かった」と言った。「カーラに連絡する。今日から出入りを少し変える」
「危ないですか」
「分からない。分からない間は動かない方がいい部分と、動き続けないといけない部分がある」
「どちらが先ですか」
「診療は続ける」とアレクは言った。「それは変えない」
ミアが頷いた。怖かった。しかし怖いという感情は、先生に伝えた時点で半分になっていた。理由は分からなかったが、そうだった。
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