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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第25話 影を見た

 三日間、孤児院の周囲に人影があった。


 最初に気づいたのは二日目の深夜だった。窓の外、路地の暗がりに、何かが動いた。獣ではない。人間の動き方だ。気配を消そうとしているが、長時間同じ場所に留まっているため見えた。


 アレクは黙って確認した。翌朝、路地に足跡があった。靴の跡ではなく、足先だけの跡——つま先立ちで歩いている。これは訓練された動きだ。


 ミアには言わなかった。


* * *


 三日目の朝、ミアが孤児院の玄関で立ち止まった。扉の隙間に何かが挟まっていた。


 封筒だった。中を開けたミアの顔色が変わった。アレクに差し出した時、手が震えていた。


 中に羊皮紙が一枚。文字はなく、絵が描いてある——紙の中央に、人の首を表す記号が描かれていた。


 脅迫状だ。


「先生、これは——」


「読んだ。分かった」


「でも——誰から。なんのために」


 アレクは封筒を裏返した。何も書いていない。紙質は普通だ。ただし——封を閉じる蝋の押し付け方が特殊だった。指の腹ではなく、指の側面で押しつけている。これは利き手の使い方の特徴だ。右利きで、指の感触を使いたくない——手袋をして蝋を押したか、あるいは指先の感触が鋭すぎる職業の人間か。


 暗殺者、あるいはそれに近い訓練を受けた者。


 ミアが「先生、怖いですか」と聞いた。「怖くない」とアレクは言った。


「でも脅迫ですよ」


「脅迫と殺害は別だ」とアレクは言った。「暗殺者なら、もう俺の顔を見てるはずだ。見てて殺さなかったなら理由がある」


「理由って——何の理由ですか」


 アレクはしばらく考えた。「様子見か、殺すかどうかを判断している最中か。あるいは——別の目的がある」


 ミアが震えているのが分かった。アレクはそれを見て、何かを言おうかと思ったが、やめた。怖がることは正しい。ただしその怖さが判断を狂わせなければいい。


「コウルたちは今日、外に出さないでくれ。エルダに頼む」


「先生は」


「俺はここにいる」とアレクは言った。「来たければ来い——茶ぐらい出す」


 ミアが「先生は怖くないんですか」と聞いた。


「怖い」とアレクは言った。「ただし、逃げても解決しない。向こうを潰す方が速い」


 脅迫状を折り畳んで、棚の上に置いた。今夜、また影が来るかもしれない。来ればいい——茶ぐらい出す。


* * *


 昼前、シルヴィアが孤児院に来た。記録の配布の進捗を伝えに、エレナを連れて来ていた。


 扉を入った瞬間、シルヴィアの目が棚の上の脅迫状を捉えた。一秒、止まった。


「それは何ですか」とシルヴィアは言った。声は静かだったが、扇子を握る手が止まっていた。


「脅迫状だ」とアレクは言った。「中身は人の首の絵だけ」


 シルヴィアが扇子を閉じた。「いつ届きましたか」


「今朝」


「父に伝えます。ハルトマン家の警備を一部、孤児院の周辺に回せます」


「待ってほしい」とアレクは言った。「警備を増やせば、影が動きを止める。動きを止められると、向こうの正体が分からないままになる。今は誰が送ったかを特定する方が、警備より優先する」


 シルヴィアが目を細めた。「論理的に考えれば」と言った。「あなたは囮になるつもりですね」


「囮ではない。観察者だ」


「言い方を変えただけです」


 シルヴィアが扇子を膝の上に置いた。エレナが「お嬢様」と小さく言ったが、シルヴィアが手で制した。


「分かりました」とシルヴィアは言った。「父には伝えません。ただし、毎日、エレナを朝晩二回、様子を見に来させます。それは譲れません」


「それは構わない」とアレクは言った。


 エレナが「分かりました、お嬢様」と頭を下げた。


 ミアが台所の入り口で立ったまま、二人の会話を聞いていた。記録帳を抱えた手が、強く握られていた。シルヴィアがミアに目を向けた。


「ミアさん」とシルヴィアは言った。「子供たちのことを、お願いします。何かあれば、すぐにハルトマン家に連絡をください」


「はい」とミアは答えた。声が硬かったが、揺れなかった。


 シルヴィアが帰った後、孤児院の中が一段、静かになった。


 ミアが棚の上の脅迫状を、もう一度見た。「先生」と言いかけて、止まった。


「言いたいことがあれば言っていい」とアレクは言った。


「先生は、いつから気付いていましたか」


「二日前から」


「二日も——」


「言うべき段階ではなかった」とアレクは言った。「ミアに言った時点で、ミアの行動が変わる。子供たちの前で平静を保てなくなる可能性があった。今日、現物が来てから言う方が、判断が揃う」


 ミアが頷いた。一度では足りなくて、二度頷いた。「分かりました」と言った。「分かったけど、次は——気付いた時点で言ってください」


「分かった」


「弟子が知らないのは、嫌です」


 アレクは頷いた。ミアが棚の方へ向かい、煮沸鍋に水を継ぎ足した。手は震えていなかった。


 深夜、アレクは起きて窓の外を見ていた。


 月のない夜だった。路地の暗がりが普段より濃い。気配が一つ、塀の影で動いていた——昨夜より近い場所に来ている。観察距離を詰めている、とアレクは見た。決行の前段階に近づいているか、あるいは決行を判断するための最終確認の段階か。


 アレクは灯を消した。土間に座って、扉の方を見ながら、湯を一杯沸かした。湯を飲み、また沸かした。眠らなかったが、構えなかった。構えれば、向こうの動きが変わる。普段通りでいる方が、向こうの判断材料が一つ減る。


 深夜から夜明け前まで、気配は塀の影に留まり続けた。動かなかった。アレクも動かなかった。


 夜明けの少し前、気配が動いた。塀の影から出て、孤児院の門の方へ近づいてきた。足音は出ていなかった。それでも空気の動き方で、距離は分かった。


 アレクは茶碗を一つ、棚から出した。客の分だ。湯はまだ熱かった。


 茶碗の縁を指で確認しながら、アレクは前世の手術台の感触を一瞬だけ思い出していた。患者の体を開く前の、最後の確認。今と同じ手の動きだった。職業も、立場も、世界も違う相手——しかし、向き合う時の姿勢は同じだった。


 扉の前に立った気配が、しばらく動かなかった。叩くか、戻るか、判断している間だった。アレクは座ったまま、湯をもう一度沸かし直した。湯気が立つ音だけが、土間に小さく響いた。それ以外の音は、孤児院全体から消えていた。


 翌朝、孤児院の扉を叩く音がした。


お読みいただきありがとうございます。

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