第2話 誰が決めた
翌朝、アレクは市場に出た。
昨日の夜から動いていた。薬草屋の婆さんから草木灰と動物性脂を分けてもらい、石鹸の試作を始めた。灰汁を濾す布、煮沸に使う土鍋、砕いた薬草を混ぜる木の棒——道具を作るところから始めるとはそういうことだった。一晩かけて出来上がったのは、泥のような塊が三つ。石鹸と呼べるかどうか怪しかったが、植物性の油脂と灰汁が混ざっていれば原理的には機能する。
問題は縫合糸だった。絹糸があれば理想だが、高い。亜麻の糸なら手に入る。煮沸消毒して使えるかどうかは試してみるしかない。今日の市場はその下見だった。
市場は朝から賑わっていた。野菜を売る女、魚を並べる男、色の鮮やかな布を広げた商人。怒鳴り声と値交渉の声が入り交じっている。アレクは糸屋を探しながら、人の流れに沿って歩いた。
角を曲がった時、声が上がった。
* * *
肉屋の前に人垣ができていた。
男が地面に座り込んでいた。三十代ほどで、右手を左手で押さえていた。血が指の間から流れ出ていた。枝肉を切る斧が近くに落ちていた——使い損なったらしかった。手の甲から手首の手前にかけて深く裂けている。腱に達している可能性がある。
白い長衣の治癒師が現れた。三十代の女で、傷を確認した。
「費用が払えますか」
男の妻らしき女が「今すぐお願いします、夫が」と言った。
「治療費は銀貨三枚です」と治癒師は言った。「これは応急処置のみの費用です。完治まで続けるなら、別途かかります。用意できなければ——」
「そんな、今すぐは。明日なら工面できるから——」
「明日では処置が遅れる場合があります」
それだけ言って、治癒師は立った。一秒だけ立ち止まったように見えたが、歩き始めた。群衆が道を空けた。
アレクは荷物を置いた。
「血が止まらない」と妻が言った。「どうすれば——」
「今から止める」とアレクは言った。「清潔な布を持っているか」
妻が前掛けを引き裂いた。アレクはそれを受け取り、傷口に当てて強く押さえた。男が痛みで呻いた。「動くな」とアレクは言った。「動けば出血量が増える」
出血が落ち着いてきた頃、傷の状態を改めて見た。腱の損傷を調べるために指を動かすよう言った。薬指だけ動きが悪い。完全に断裂してはいないが、部分的に切れている可能性がある。修復には縫合糸と針と、清潔な環境が必要だ。今日この場でできることはここまでだった。
「このまま押さえ続けろ。力を抜くな」と妻に言った。「俺が道具を持ってくる」
立ち上がった時、背後から声がかかった。
「そこの者、止まれ」
* * *
振り返ると、教会の紋章をつけた神官が立っていた。四十代ほどの男で、目つきが鋭かった。後ろに若い神官を一人連れていた。
「無認可の治療行為を見た。治癒師の認定証を提示しろ」
「持っていない」とアレクは言った。
神官が一歩近づいた。「この国では、魔法なしの治療は違法だ。認定証のない者が患者に触れることも、同様だ。それを理解した上でやっているのか」
「理解している」とアレクは言った。「その法律を、誰が決めたのかも知りたいと思っている」
神官が眉を上げた。
「教えてもらえるか」とアレクは続けた。「あの男を助けるために作られた法律なのかどうか。あの治癒師は費用が払えないからと言って立ち去った。あの法律は、あの場面のためにあるのか」
神官は黙っていた。何かを言いかけたが、言葉が続かなかった。
「答えられないなら、俺も答えなくていいか」
神官の目が細くなった。「名前を言え」
「アレク・ハルト」とアレクは言った。「この辺りに住んでいる。また来るなら同じ場所に来い」
神官が何かを言いかけた。しかしアレクはすでに傷の男の方を向いていた。
出血は落ち着いていた。今日一日なら、この状態を保てる。しかし問題は残っている。腱が部分断裂なのか、深部まで達しているのか——今の視診だけでは断定できない。明日、縫合糸と針を持って戻ってくる。それまでに悪化するか、しないか。そこは見てからだ。
「明日また来る」と男に言った。「その間、布を外すな。押さえ続けろ」
男が頷いた。妻が「ありがとうございます」と言った。
アレクは荷物を拾い、市場を出た。神官の視線が背中にあるのが分かった。
* * *
糸屋には結局寄れた。
亜麻糸を一巻き、銅貨十二枚で買った。婆さんが「あんた、傷を縫うのかい」と細い目で見た。「縫うこともある」と答えると、「煮ておきな」と婆さんが小声で言った。「亜麻は煮ると毛羽が落ちる。縫いやすくなるよ」。
昔、傷を縫う婆さんがこの町にいたのかもしれない。今は治癒師が幅を利かせている。誰も口に出さないだけで、知っている人間は知っている——魔法なしで縫うやり方を。
アレクは礼を言って糸を懐に入れた。
帰り道、肉屋の前を通った。男はまだ妻に支えられて座っていた。布の押さえはずれていない。出血は止まっている。アレクは目だけで頷き、声はかけずに通り過ぎた。今ここで会話を交わせば、また神官に絡まれる。それで失うのは男の処置の時間だ。
路地に入ったところで、足音が後ろからついてきた。
振り返ると、若い神官だった。さっきの中堅神官の連れだ。二十代前半。緊張した顔で、こちらを真っ直ぐ見ていた。
「ハルト殿」と若い神官が言った。「あの……あなたが処置した男、本当に明日まで持ちますか」
アレクは止まった。「持つ。布を外さなければ」
「上の神官は、あなたを止めると言っています。でも私は——」若い神官は言葉を切った。「父が去年、似た傷で死にました。費用が払えなくて」
声が小さくなった。
アレクは神官を見た。教会の白い襟元に、まだ若い喉仏が動いていた。
「分かった」とだけ言った。「明日、また来る」
若い神官が頭を下げて、走り去った。神官服の裾が翻った。あれは命令で来たのではなかった——アレクは確信した。あの男は、たぶん、自分の仕事に疑問を持ち始めている一人だ。
* * *
孤児院の前まで戻った時、空はもう暗くなりかけていた。
子供が二人、玄関で待っていた。コウルとベイ。「先生、今日も誰かを治した?」とコウルが聞いた。
「治したというより、明日まで生かしただけだ」とアレクは答えた。
「同じじゃないの」
「違う。生かすのは時間稼ぎだ。治すのはもっと先のことだ」
コウルが首を傾げた。子供には分からない言い回しだったかもしれない。それでもアレクの足元についてきて、土間まで一緒に入った。
糸の束をエルダの作業台に置く。煮沸用の鍋を確認する。明日、市場の男のところに行く前に、糸を煮ておく必要がある。それから亜麻の毛羽を確認する。それから——
頭の中で工程を組み立てた。
——この国では、魔法なしの治療は違法だ。
そうか。ならば、俺はあの神官の問いへの答えをまだ持っていない。「誰が決めた」——その先に、何があるのか。それを知った時、次に何をすべきかが見えてくる。
その時、知っておかなければならないことが、もう一つあった。あの中堅神官は名前を聞いた。アレク・ハルト——もう登録された。次に同じ場で処置をすれば、向こうは前回と違う準備をして来る。
それまでに、こちらも準備を変える。
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