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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
医術覚醒編

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第1話 道具を作るところから始めるしかない

 梁が落ちた。


 ただそれだけで、男の一生が終わろうとしていた。


 足場から担ぎ出された男の腹部には、太い木の破片が刺さっていた。群衆が輪を作り、叫び声と嘆き声が交差した。白い長衣の治癒師が現れ、男に近づき——一瞥した。


 「費用が払えますか」


 作業員が「今すぐ助けてくれ、金のことは後で」と言った。


 「教会の規定ですので」と治癒師は答えた。「費用の確認ができない場合、治療はお受けできません。ご理解ください」


 それだけ言って、踵を返した。群衆の怒号を背中で受けながら、歩みを止めなかった。


 神の奇跡は、金のある者にしか届かない——アレクはそれを知っていた。この世界に来てから、もう何度も見てきた光景だった。


* * *


 アレクは群衆の中に入った。


 腹部の損傷。木の破片は直径二センチほど、腹の右側に深く刺さっている。刺入角度は約四十度——腸管への到達は微妙なラインだ。呼吸は浅いが規則的。瞳孔は正常。意識がある。体表出血はあるが致命的な量ではない。内出血の兆候は、今のところない。


 抜くな。それが最初の判断だった。破片が栓になっている。抜けば一気に出血する。


 視線を手に移した。右手の薬指だけ、動きが鈍い。指の動き方からすると、深指屈筋腱が部分的に損傷している可能性がある。縫合すれば回復する。しかし縫わなければ、この男は一生物をしっかり握れなくなるかもしれない。腹部の処置が先だが、それも頭に入れておく必要があった。


 「何者だ、お前は」と誰かが言った。


 「医者だ」とアレクは言った。


 「治癒師の認定を受けているか」


 「受けていない」


 「なら違法だ。手を引け——」


 「黙っていてくれ」


 アレクはしゃがんだ。男の目と視線を合わせた。意識がある。それだけで、まだ間に合う。


 「今から処置する。痛いが、我慢しろ」


 男が微かに頷いた。


 布を一枚もらった。人垣の中の女が差し出した。アレクは受け取り、木の破片の根元を丁寧に固定した——動かないように、腹腔内に振動が伝わらないように。板を調達し、男を慎重に乗せた。低く、水平に、ゆっくりと。


 板の上に乗せた後、男の目がアレクを見た。


 「死ぬか」と男が言った。声は掠れていたが、はっきりしていた。


 「今日は死なせない」とアレクは言った。「できることは全部やる」


 男の目が変わった。消えかけていた光が、戻ってくるのが分かった。


* * *


 搬送の途中で、若い作業員がついてきながら聞いた。


 「あんた、なんで治せるんだ。魔法も使ってないのに」


 「前の世界で医者だったから」とアレクは言った。


 「前の世界?」


 「転生した。この世界に来る前、別の世界にいた。そこで三十年間、医者をやっていた」


 若い作業員が口を開けたまま固まった。理解しきれない、という顔だった。それでも板の角を握る手は緩めない。質問は止めて、ただ歩調を合わせた。それでいい、とアレクは思った。理解より、運ぶことが先だ。


 前の世界での記憶は、今も鮮明だ。救えた患者の顔も、救えなかった患者の顔も、同じくらい覚えている。最後の手術は成功した。患者が麻酔から覚めるのを確認した。それから自分が倒れた——脳の血管が裂けた。気がついたらここにいた。


 知識だけが残った。


 この世界に生まれて十五年が経つ。農民の養子として育った。魔法はほぼ使えない。道具もない。金もない。あるのは、積み上げた三十年分の知識だけだ。


 その知識で、一人の命を今日まで繋いだ。


 しかし今日だけでは足りない。男の腹の破片は摘出しなければならない。腸管の損傷があれば縫合が必要だ。感染を防ぐための消毒液も、縫合糸も、麻酔の代わりになるものも——何一つ持っていない。


 道具を作るところから始めるしかない。次の患者が来る前に。


* * *


 男を診療所代わりに使われている古い倉庫まで運び込んだ。


 破片はまだ抜けない。今のアレクには、抜いた後の出血を止める手段がない。動脈が一本でも傷ついていれば、抜いた瞬間に男は死ぬ。今日は固定して、止血を続け、感染が進む前に明日の朝までに必要なものを集める——そう決めた。


 男の妻が駆け込んできた。三十前後の小柄な女で、息を切らしていた。アレクの顔を見て、それから夫の顔を見て、地面に膝をついた。


 「治癒師さまには、見ていただけなくて」


 「治癒師じゃない」とアレクは言った。「だが、今夜は俺が見る。明日まで、彼を死なせない」


 女は何も言わずに頭を下げた。涙が床の土に落ちた。


 破片の周囲に布を巻き直し、男の腰の下に古い毛布を当てがった。腹部を少しだけ高くして、内出血が体腔に溜まりにくくする。脈を確認する。さっきより落ち着いている。


 ここまでが今日できる限界だった。


 立ち上がった時、若い作業員がまだそこに立っていた。「先生、明日も来るのか」と聞いた。「来る」とアレクは答えた。「先生」という呼び方が、なぜか胸の奥に引っかかった。前の世界でも、患者にそう呼ばれていた。


 倉庫を出ると、外はもう夕方だった。


* * *


 帰り道の途中、橋の手前で立ち止まった。


 川の水が暗い。倉庫から漂ってきた血の匂いが、まだ手の指の付け根にこびりついている。手を川の水で洗った。冷たい。爪の間まで指でこすった。落ちきらない。それでもいいから、洗い続けた。


 破片の摘出に必要なもの。鉄製の刃物。煮沸できる釜。焼酎か蒸留酒の代わりになる消毒の液。亜麻糸。針——縫合用の細さで、折れない強度。それから、血が止まらない時に使う圧迫用の布。


 ない。何一つない。


 ある場所から、組んでいくしかない。鍛冶屋に話を通す。薬草屋の婆さんに灰汁の譲渡を頼む。孤児院の厨房から土鍋を一つ拝借する。順番がある。一晩で全部はそろわない。だが朝までに最低限の道具が三つそろえば、明日の処置は始められる。


 頭の中で工程を組み立てた。順序が見えると、迷いが少しだけ薄れた。


 ——道具を作るところから始めるしかない。だが明日、材料を手に入れられるかどうか——それはまだ分からなかった。


 孤児院に戻ると、エルダがランプを持って玄関に立っていた。アレクの服の血を見て、何も言わずに湯を沸かしに入った。井戸から水を汲み、鍋にかけ、塩を一摘み入れる。「飲みな」と湯を渡してきた。


 「現場で人が死にかけた」とアレクは言った。「明日まで生かした。明後日、抜く」


 「あんたが助けたのかい」


 「まだ助けていない。今夜は持たせただけだ」


 エルダは頷いた。それ以上聞かなかった。


 子供たちは寝静まっていた。コウルの寝顔だけ確認して、アレクは自分の寝床に戻った。眠れなかった。眠ろうともしなかった。明日の準備の段取りを、頭の中で何度も並べ直していた。


ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。

楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!

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― 新着の感想 ―
 え? もしかして作者様は本物のお医者さんですか? と思いたくなる細かな治療知識に驚かされました。  治癒師が医療独占。これからここと戦うのは大変でしょう。ストーリーがどうなっていくのか、医療知識がど…
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