第12話 救えなかった命
「先生はなぜ、そんなに患者を救いたいんですか」
ミアが聞いたのは、レヴァンが来た翌日の夜遅く、二人で記録をつけていた時だった。
教会の中枢神官が「次は騎士を連れてくる」と言い捨てた。アレクは気にしていない——とミアは見ていたが、それが本当かどうか確かめたかったのかもしれない。
ランプの光の下で、ミアは羽根ペンを持ったまま顔を上げていた。最近は毎晩こうして、その日の治療内容と観察記録を書くようになっていた。ミアの文字は細かく丁寧で、アレクが口頭で言ったことを的確に書き取る。
「なぜ、か」とアレクは言った。
「先生はいつも当たり前みたいに言いますよね。見捨てる理由がないから、って。でも理由がなくても、動かない人の方が多いと思って」
アレクは記録帳を置いた。
* * *
「前の世界の話だ」と言った。
「聞いていいですか」
「聞いていい」
アレクは天井を見た。前世の記憶はいつも鮮明だ。手術室の匂い、モニターの音、麻酔科医との連携、執刀前の緊張——全部残っている。
「三十年間、救急外科医をやっていた。外科というのは、体を切って治す医者だ。救急というのは、今死にそうな患者を先に診る場所だ。毎日のように、助からないかもしれない患者が来た」
「助けられましたか」
「全員は無理だ。助けられた人間の方が多いが、助けられなかった人間もいる。子供も大人も関係なく」
ミアが黙って聞いていた。
「一人だけ、今も忘れられないのがいる。七歳の子だった。交通事故——馬車にはねられた、と思えば分かりやすい。内臓が複数損傷していた。手術は六時間かかった。俺は全力を尽くした。それでも助からなかった」
「……」
「その時、思ったことがある。もし魔法があれば助かったかもしれない、って。傷を瞬時に塞ぐ力があれば、あの子は死ななかったかもしれない、って」
ミアが頷いた。「……先生でもそう思うんですね」
「ここに来て、分かった」とアレクは言った。「この世界には魔法がある。しかし同じことが起きている。金がなければ治療を受けられない。命に値段がついている。そしてその値段を決めているのは神でも魔法でもなく、人間が作った制度だ」
アレクはランプの光を見ながら続けた。「俺が前の世界でできなかったことは、魔法がないからじゃなかった。この世界で起きていることも、魔法がないからじゃない」
「じゃあ——何のせいですか」
「意志の問題だ」とアレクは言った。「助けたいと思うか。そのためなら制度を変えることも辞さないと思うか。魔法があってもなくても、それができない人間は患者を見捨てる。それができる人間はどんな状況でも動く」
ミアが手の中のペンを強く握った。
「じゃあ先生がいつも動くのは」
「助けたいから、それだけだ」
「……私も、そうなりたいです」とミアは言った。「先生みたいに、理由もなく動ける人に」
「理由はある」とアレクは言った。「患者が死ぬのが嫌だ。それが理由だ。理由がなくて動いているわけじゃない」
ミアが少し笑った。「先生って、自分のことをすごく正直に言いますよね」
「嘘をつく必要がない」
ランプが揺れた。外で風が吹いていた。
アレクは記録帳を手に取り直した。今日の治療内容の続きを確認する。三件。縫合一件、骨折の固定一件、発熱の処置一件。全員、費用は取っていない。取れる状況ではなかった。
* * *
ミアが羽根ペンを置いた。
「先生」
「ん」
「私のことも、教えてください」
「お前のこと?」
「先生は、前の世界のこと教えてくれました。私のことは聞いてくれてないです」
アレクは記録帳を閉じた。「聞いていいか」
「はい」
「両親は」
「病気で死にました」とミアは言った。「父が先で、母が三月後で。父の時、治癒師さまが来てくれて、見て、『費用が払えますか』って聞いて、母が払えませんって答えて、それで帰っていきました」
ミアの声は淡々としていた。記憶が古いのか、何度も話してきた話なのか。それでも視線は手元のランプから動かなかった。
「母の時は、もう、治癒師さまを呼ばずに、家で看取りました。母が、最後に、お前は治癒師になりなさい、って言って。それで、教会に入って、そしたら——魔力が弱くて、見習いから上がれなくて、最後に破門されて」
「破門は、どういう形だった」
「『お前は治癒魔法が使えない、見習いの席を埋めるだけだ』って言われて、徽章を取られて、町外れに置いていかれました」
アレクは黙っていた。
「先生」とミアは続けた。「私、教会が嫌いです。でも、嫌いなだけだと、何も変わらないって、最近は思うんです」
「変えたいか」
「先生がやろうとしていることが、変えることだと思って」
ミアが顔を上げた。目が赤くなっていた。けれど涙は出ていなかった。
「だから、私、先生の役に立ちたいんです。先生のためじゃなくて——私のためにも」
アレクは少し考えてから、言った。「それでいい」
「それでいいんですか」
「自分のためにやれ。俺も、自分のためにやっている」
* * *
夜が更けた。
ミアが先に寝に行った。アレクは記録帳をもう一度開いて、今日の最後の項目を書き直した。
ミアの両親について。父の死亡時期、母の死亡時期、教会の対応——後で参照できるよう、簡潔に。これは個人の記録ではなく、教会の制度がどう機能していなかったかの記録だ。一件ずつ積み上げれば、いずれ意味を持つ。
ランプの油が少なくなってきた。窓の外、夜の風が静かになっていた。
* * *
翌朝、ミアが朝食の前に「先生」と声をかけてきた。
「昨日の話、もう一つ聞いていいですか」
「ん」
「前の世界で、先生は、誰かと一緒にやってましたか。手術とか、診察とか」
アレクは粥の椀を置いた。
「いた。手術は一人ではできない。麻酔科医がいて、看護師が複数いて、外科助手がいて、計六人から十人くらいで一つの手術をする」
「十人」
「大きな手術はもっと多い。臓器移植だと十五人を超える時もある」
「先生、その人たちのこと、覚えてますか」
「全員覚えている」
ミアが頷いた。それから、「私は、その人たちの代わりにはなれないですよね」と小声で言った。
アレクは少し考えた。
「代わりにはならない」と答えた。「だが、それは悪いことじゃない。お前はお前の役割を持っている。前の世界の人間と比べる必要はない」
「私の役割」
「魔力感知。記録。薬草の知識。患者への声かけ——お前ができることは、前世の麻酔科医や看護師にはできない。逆にお前にできないこともある。役割が違うだけだ」
ミアが頷いて、椀を取った。粥を一口、食べた。
「先生、私、ずっと先生についていきたいです」
「それは、お前が決めることだ」
「決めました」
ミアが言った。声が、いつもより低かった。けれど、はっきりしていた。
アレクは少し驚いて、ミアの顔を見た。ミアは粥を見ていて、目を合わせなかった。耳の先が少しだけ赤かった。
* * *
朝食の後、ミアが「先生、薬草を取りに行ってきます」と言って、外に出た。
アレクは記録帳を開いた。昨日書いた、ミアの両親についての記録の隣に、もう一行加えた。「ミア——本人の意志で、医術師見習いとして従事する」。
書きながら、自分の手が止まらないことに気づいた。
前世で、研修医が「先生についていきたい」と言ってきた時、自分は何と答えていたか——思い出せなかった。たぶん、軽く受け流していた。重く受け止めると、相手の人生に責任を持つことになる。だから受け流してきた。
今は、受け流せなかった。
魔法があれば、じゃなかった。意志の問題だったんだ——この世界に来るまで、気づかなかった答えがそこにあった。
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