第11話 一万人の前夜
レヴァンが来たのは、手術の噂が広まって十日目だった。
孤児院の前に馬車が止まり、白と金の法衣を纏った男が降りてきた。四十代後半、黒髪に白髪が混じっている。目が鋭い。後ろに神官を二人連れていた。
アレクはエルダから「貫禄のある神官さんが来た」と聞いて玄関に出た。男を一目見て、先日の下級神官とは別格だと判断した。立ち方が違う。視線の動かし方が違う。権力に慣れた人間特有の静けさがある。
「ハルト・アレク殿」と男は言った。「神聖アスクレピオス教会・中枢神官のレヴァンだ。少し話をしたい」
「どうぞ」
* * *
孤児院の土間で向かい合った。子供たちはエルダが奥へ連れていった。ミアは部屋の端で壁際に立っている。
レヴァンは周囲を見回した。「ここが医療所か」
「孤児院だ」とアレクは言った。「医療もしているが」
「手術道具が見える。煮沸の痕もある。立派な設備だ」皮肉には聞こえなかった。純粋に評価しているようだった。
「本題を聞かせてくれ」とアレクは言った。
レヴァンが視線をアレクに向けた。「医術師認定制度への加入を勧めに来た。教会が運営する医療管理の枠組みだ。認定を受ければ、あなたの活動は合法になる。患者も安心できる」
「その制度の内容を教えてくれ」
レヴァンが説明した。教会に登録し、認定証を受ける。活動内容を年に一度報告する。使用する道具と薬草の仕入れ先を教会に申告する。治療費の設定は教会のガイドラインに準拠する——。
「患者に何のメリットがある」とアレクは言った。
レヴァンが止まった。
「今言った内容はすべて、教会側の管理のための条件だ。患者がより安く、より良い治療を受けられるようになるか。それを聞いている」
「教会の認定を受けた医術師は信頼性が高くなる。患者にとって——」
「信頼性の話をしていない。費用と質の話をしている。教会の認定を受けることで、今死にかけている患者が減るか。減らないなら、その制度に入る理由がない」
レヴァンの目が細くなった。「そういう言い方をするのか」
「事実を言っている。教会の治癒師が費用を理由に患者を見捨てる場面を何度も見た。その制度を作っている側に管理されることで、状況が改善するとは思えない」
「あなたの活動は今、違法だ。認定を受ければその問題が解決する」
「解決しない。違法かどうかより、患者が助かるかどうかの方が重要だ。俺はそちらを優先する」
沈黙があった。
レヴァンが腕を組んだ。初めて表情が変わった。困惑でも怒りでもない。何かを計算している顔だった。
この男は、反論してくる相手を想定していなかった。それが伝わってきた。アレクを単純な「扱いにくい無認可医者」として来たが、話が違う方向に進んでいると感じている。
「一つ聞いていいか」とレヴァンは言った。「あなたは何を目指している」
「患者が死なない制度を作ること」とアレクは言った。「それだけだ」
「……教会を敵に回すつもりか」
「敵にする必要がないなら、しない。しかし患者の邪魔をするなら、話が変わる」
レヴァンが立ち上がった。表情は静かだった。しかしその目の奥に、何かが動いた。
「認定を拒むなら、次は騎士を連れてくる」
「いつでもどうぞ」とアレクは言った。「用意して待っている」
* * *
レヴァンが去った後、孤児院は静まり返った。
子供たちが奥から戻ってきて、玄関先に立っているアレクを見た。コウルが「あの人、どんな人?」と聞いた。「教会の偉い人だ」とアレクは答えた。「悪い人?」「分からない」。
子供たちはそれ以上聞かなかった。アレクの口調から、これ以上聞いてはいけない種類の話だと察したらしい。
ミアが土間の端にまだ立っていた。両手をきつく握っている。指の関節が白くなっていた。
「ミア、座っていい」
「……はい」
ミアは椅子に座った。けれど指の力は緩まなかった。
「怖がっているか」
「少し」
「俺もだ」
ミアが顔を上げた。
「先生も」
「言っただろう。怖くないわけじゃない。怖いのを承知で動く——それが俺の仕事のやり方だ」
ミアが目を伏せた。それから言った。「先生、騎士が来たら、私はどうしたらいいですか」
「奥に下がれ」
「嫌です」
即答だった。
アレクは少し驚いた。ミアの声がはっきりしていた。震えていない。
「奥に下がるのが嫌なのか、一緒にいたいのか」
「両方です」とミアは言った。「先生が、一人で前に出るのが、嫌です」
アレクは少し考えた。それから言った。「分かった。考えておく」
* * *
夜、エルダがアレクの隣に座った。
「あの神官、また来るね」
「来る」
「次は騎士を連れて」
「そう言っていた」
エルダが煙草を吸わない女だが、何か口に運ぶ仕草をした。考え込んでいる時の癖らしい。「あんた、どこまでやるつもりだい」
「分からない」とアレクは正直に答えた。「ただ、止められる場所までは止まれない」
「子供たちは」
「子供たちは守る」
エルダが頷いた。「その言葉だけ聞ければ、私はもう何も言わない」
ランプが揺れた。外で犬が吠えた。それから静かになった。
アレクは机の上の記録帳を開いた。今日の処置——縫合一件、発熱の経過観察一件、手術後の確認一件。記録を書く。日付を書く。患者の名前を書く。文字が薄くなる前に、もう一度なぞる。
次に騎士が来る日、この記録帳が証拠になるかもしれない——その予感だけがあった。
* * *
翌朝、ミアが妙に早く起きてきた。
アレクが土間で湯を沸かしていると、寝室から「先生」と声がした。振り返ると、ミアが寝間着の上に毛布を巻いていた。寝癖がついていた。
「眠れなかったか」
「少し」
「何が気になる」
「えっと……」ミアが両手を毛布の縁で握った。「先生、もし騎士が来た時、私が前に立っちゃいけませんか」
「前」
「先生の代わりじゃないです。先生の隣で。一人じゃない方が、向こうも話を聞きやすいかもしれないと思って」
アレクは少し考えた。
ミアの提案は的外れではない。一人の男が玄関に立っているより、二人で立っている方が「組織として動いている」印象を与える。ただ、ミアを危険な場所に立たせることになる。
「考えておく」とアレクは言った。「騎士が来た時の動き方は、あらかじめ決めておく」
「はい」
ミアが頷いた。それから、台所の方に行って、湯を確認した。
* * *
アレクは記録帳を開いて、レヴァンとの会話の要点を書き留めた。
「医術師認定制度」「教会管理下への取り込み」「治療費は教会のガイドラインに準拠」——これらは後で、貴族や王権に説明する時に使える材料だ。レヴァン本人がそう発言した、という記録があれば、相手の出方を予測しやすくなる。
ミアが湯を運んできた。アレクの前に湯のみを置いて、自分も向かいに座った。
「先生、今書いているの、何ですか」
「レヴァンの言ったことだ。一字ずつ書いている」
「私も覚えてます。書きましょうか」
「頼む」
ミアが羽根ペンを取った。アレクが口頭で確認しながら、ミアが書いた。文字が走らない。一字ずつ、ゆっくり、正確に。
書き終わった時、外で子供たちが起きてきた声が聞こえた。コウルとベイが薪を運んでくる音、エルダが朝の挨拶をしている声。孤児院の朝が始まっていた。
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