第10話 母と子
呼ばれたのは深夜だった。
「お産が止まらない。助産師が手に負えないと言っている」と隣の商人の息子が孤児院に駆け込んできた。「先生と呼ばれている人を呼んでこいと母親に言われた」
アレクは道具袋を掴んだ。ミアに声をかける。「来るか」「行きます」。コウルに「エルダに伝えておいてくれ」と言い、外に出た。
商人の家は庶民街の中ほどにある。石造りの中級住宅だった。中に入ると、女性の呻き声が聞こえた。産室に通される。ベッドに横たわる女性、三十代くらいで、汗をびっしょりかいている。傍に助産師の老婆がいた。「お手上げじゃ」と助産師は言った。「もう十二時間になる。子供が降りてこない」
アレクは素早く確認した。出血の量、女性の意識と呼吸、腹部の硬直。「ミア、中を見てくれ」
ミアがしゃがんで目を細めた。「……子供が、横向きに見えます。頭が出口の方を向いていない」
横位。これは自然分娩では無理だ。
「帝王切開をする」とアレクは言った。
助産師の老婆が悲鳴に近い声を上げた。「腹を切るだと?! そんなことをすれば母親が死ぬ!」
「切って縫えば閉じる」とアレクは言った。「このままでは母子ともに助からない。今、判断しろ」
「あんた正気か——」
「ミア、女性に説明してくれ。俺に麻酔代わりを作らせてくれ」
ミアが女性の手を握り、耳元で話し始めた。女性が頷いた。目が怖かったが、頷いた。
* * *
煮沸した布、道具の確認、消毒。一連の準備を終えて手術を始めた。
局所への圧迫と冷却で感覚を鈍らせる——完全な麻酔には程遠いが、それしかない。女性が声を殺して耐えた。ミアが「息を吐いてください、一緒に」と繰り返していた。
腹部を切開し、子宮を開く。出血を制御しながら、横位の子供を慎重に取り出した。
子供は泣いた。
生きている。
縫合は丁寧に行った。子宮、腹膜、脂肪層、皮膚。層ごとに確認しながら閉じた。ミアが「先生、お母さんの光が少し安定してきました」と言った。
「よし」とアレクは言った。
夜明け前に手術が終わった。女性は意識があった。ミアが子供を女性の腕に乗せた。
* * *
翌朝、教会の産婆が「あれは悪魔の術だ」と触れ回っていた。「腹を刃物で開けるなど、神への冒涜だ」と言ったらしい。
しかし商人の妻は言った。「悪魔なら結構です。私と子供は生きているから」
その言葉はアレクの耳にも届いた。ミアが「先生、聞きましたか」と言った。「聞いた」とアレクは言った。
母親の腕の中で子供が寝ていた。皺だらけで、赤くて、目を閉じている。小さな指が動いた。
アレクはそれを見ていた。
——これが見たかった。
何度命の現場に立っても、この光景だけは違う。生まれた命が生き続けていること。前世でも、この景色のために手術台に立ち続けた。この世界でも——変わらない。
* * *
商人の家を出ると、外はもう朝の光だった。
ミアがアレクの後ろを歩いていた。手術中ずっと女性の手を握っていた手は、まだ白く、震えている。
「ミア」とアレクは声をかけた。「無事に終わったから、もう力を抜いていい」
ミアが頷いた。けれど、震えは止まらなかった。
「初めての帝王切開で、よくやった」
「私、何もしてないです。先生が全部——」
「お前が女性に話し続けたから、女性は意識を保てた。意識のある妊婦は手術中の経過が違う。お前が支えていた」
ミアが立ち止まった。アレクも止まった。
通りの向こう、朝早い商人たちが屋台を出し始めていた。鳥の鳴き声がしている。子供を抱いた母親の家の、二階の窓から、まだ柔らかい泣き声が聞こえてきた。
ミアが目を伏せた。それから、両手を胸の前で握って、一度だけ深く息を吐いた。
「先生」
「何だ」
「私、もっとできるようになりたいです。次の患者の時、もっと役に立ちたい」
「順番に覚えていけ。今日できたことは、明日できる」
ミアが頷いて、アレクの斜め後ろを歩き始めた。
* * *
孤児院に戻る途中、教会の方角から鐘が鳴った。
朝の祈りの時間だ。アレクは鐘の音には反応しなかった。ミアも黙って歩いていた。教会の鐘が彼女を破門したのは、つい先日のことだ。耳に届いてもおかしくないだろう、という顔をアレクはしないで、ただ歩いた。
路地を曲がったところで、ミアが小声で言った。
「先生、今日の手術で、教会の人がまた怒りますよね」
「怒るだろう」
「悪魔の術って、また言われる」
「言わせておけばいい。今日助かった母親と子供は、悪魔の術で生き残ったわけじゃない。事実は変えられない」
ミアが少し笑った。「先生って、そういうとこ、強いですよね」
「強くはない。負ける議論をしないだけだ」
ミアが頷いて、それから足を速めた。孤児院の煙突の煙が見えてきていた。コウルとベイが朝食の薪を運んでいる声が、遠くから聞こえた。
アレクも歩幅を合わせた。
今日は子供と母親が生きている。それが今日の答えだった。明日のことは、明日になってから考える。それが医者の仕事だ。
* * *
孤児院に戻ると、エルダが朝食の支度を始めていた。
「徹夜だね」
「子供は生きている。母親もだ」
「そりゃよかった」
エルダがアレクとミアの前に粥の椀を置いた。ミアは粥を見ながら、しばらく動かなかった。
「食べないのかい」とエルダ。
「食べます」とミアは慌てて答えた。「ただ、まだ手の震えが止まらなくて、椀を持つのが」
ミアが両手を広げた。指が小刻みに震えていた。アレクは粥を一さじ口に運びながら、ミアの手を見て、言った。
「初めての帝王切開だ。震えるのは普通だ。前世の研修医も、最初の数件は同じだった」
「先生も震えました?」
「震えた。気づかれないように隠していたが」
ミアが目を丸くした。「先生でも」
「最初は誰でも震える。震えなくなったらむしろ危ない——患者の重さを軽く見ているということだから」
エルダが「うまいこと言うね」と笑った。
ミアが両手で椀を握った。震えながら、ゆっくり粥を口に運んだ。三さじ目で、震えが止まった。
* * *
食後、アレクは一度寝床に戻った。三時間だけ眠ると決めた。
目を閉じる前、ミアが「先生、私、起きてます。患者さんから連絡が来たら呼びに来ますから」と言った。
「お前も寝ろ」
「私は、まだ眠れないです」
アレクは反論しなかった。眠れない時は、無理に寝ようとしない方がいい。前世でもそうだった。
眠りに落ちる直前、ミアが台所で水を汲む音が聞こえた。それから、商人の家に様子を見に行く支度をしている気配がした。
寝かせるべきだ、とアレクは思いながら、それを言わなかった。今のミアには、自分で動くことが必要だった。動いて、自分の存在を確認する。それが医療従事者の最初の段階だった。
今日は子供と母親が生きている——もう一度、頭の中で繰り返した。それが今日の答えだ。
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