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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
医術覚醒編

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第9話 手を洗え

 孤児院の朝は、手を洗うところから始まるようになった。


 アレクが決めたことだった。朝起きたら手を洗う。食事の前に手を洗う。トイレの後に手を洗う。道具を触る前と後に手を洗う。石鹸を使う、なければ水だけでも構わない、とにかく流水で洗う——これだけのルールだった。


 最初は子供たちが文句を言った。「なんで何度も洗わないといけないの」「汚くないのに」「水が冷たい」。アレクは答えた。「目に見えない病原体が手につく。流水で洗えば大部分は落ちる。落ちなければ病気になる。病気になれば死ぬかもしれない。だから洗う」。


 子供たちは半信半疑だったが従った。エルダが「先生の言うことは聞きなさい」と念を押したのも大きかった。


 一週間後、アレクは近隣の住民にも同じことを伝え始めた。石鹸の作り方を教えた。煮沸消毒の手順を示した。食器は共用しない。生ものは加熱してから食べる。換気を忘れない——これらを一軒ずつ回って話した。


 ミアが一緒についてきた。「先生は毎日こうしているんですか」と言った。「夏前は特に」とアレクは答えた。「夏は病気が広まりやすい。今のうちに広めておく」


* * *


 教会はこれを嘲笑した。


「魔法なき浄化など無意味」と触れ回った神官がいた。「石鹸で病が防げるなら、神の存在意義はどこにある」と説教する者もいた。町の一部では「怪しいものを配られた」と警戒する家もあった。


 アレクは構わなかった。論理的に考えれば、一週間もすれば結果が出る。


 一週間後——孤児院だけ、夏の流行り病が出なかった。


 毎年この時期に必ず一人か二人は発熱し、ひどい年は三人が寝込む。今年は全員が元気だった。近隣の住民からも「子供が病気にならない」という話が出た。手洗いと換気を実践した家が増えていた。


「やっぱり効くじゃないですか」とミアが言った。手を洗いながら、誇らしそうにしていた。


「当然だ」とアレクは言った。「原理が正しければ結果は出る」


* * *


 問題は別のところから来た。


 ミアが医療記録の話を持ってきたのは、八日目の夕方だった。


「先生」とミアが言った。「教会が管理している町の医療記録、見せてもらえることはありますか」


「何故」


「衛生の効果を確認したくて、去年の病気の患者数と今年を比べたいんです。でも教会の分院に頼んだら、見せてもらえなくて。それどころか、記録係の人がすごく嫌な顔をして……」


「どんな顔だ」


「隠したいような、でも怖いような……うまく言えないんですけど」


 アレクは考えた。医療記録が教会の管理下にある。それはこの世界では当然のことだ。しかし見せられない理由があるとすれば、何かを隠している可能性がある。記録に操作が加わっているか、あるいは記録そのものが存在しないか。


「分院の者に名前を確認したか」


「はい。レミアスさんって言ってました。分院の記録係で」


「記録が見せられない理由は何と言っていた」


「『管理上の都合』としか」


 管理上の都合——それは理由になっていない。隠す必要がなければ、そんな言い方はしない。


「町の医療記録は、教会が管理している」とアレクは言った。「どの病気が、いつ、どこで、どれだけ発生したか。それが全部、教会の手の中にある」


 ミアが頷いた。


「そして」とアレクは続けた。「その記録に、不自然な空白がある」


 ミアが目を上げた。「……どういう意味ですか」


「分からない。まだ分からない。だが、隠す必要があるものが入っているかもしれない」


 アレクは窓の外を見た。日が落ちかけている。


* * *


 翌日、アレクは記録の話を後回しにして、衛生指導の続きをした。


 近隣の住民を一軒ずつ回り、井戸の使い方を見直した。井戸の縁を布で拭き、水を汲む桶を水中に直接落とさないように指導した。家の中の換気の取り方、糞尿の処理場所、食器の扱い——一つずつ、紙に書いて渡した。文字が読めない家には、ミアが絵で描いた。


 ミアの絵は意外と上手かった。


「絵が描けるんだな」とアレクは言った。


「教会で患者の体の様子を絵で記録していました」とミアは答えた。「文字より絵の方が、変化が分かりやすいって言われて」


 それは正確な記録法だった。アレクは前世で、外科の症例報告にスケッチを多用する医者を何人も知っていた。写真より早く、状況の本質を伝える。ミアの観察眼がここでも生きていた。


「先生」とミアが言った。「今日回った家、十二軒です。あと何軒くらいで、町の南半分は回り終えますか」


「五十軒くらいだ。一日十軒ずつなら、あと一週間」


「私一人でも回ります」


「無理はするな」


「無理じゃないです。先生は手術もありますから」


 アレクは頷いた。ミアの背中が伸びていた。最初に見つけた時の、丸まった肩はもうない。


* * *


 夜、孤児院に戻る道で、ミアが立ち止まった。


「先生」


「ん」


「私、教会にいた時は、患者を治せない自分が嫌でした。魔力が弱くて、何もできない自分が」


「うむ」


「でも今は、薬草を洗って、消毒液を作って、絵を描いて、それで誰かが死なずに済んでて。それが、なんていうか——」ミアは言葉を探した。「えっと、嬉しいです。すごく」


 ミアが両手を胸の前で握った。それから、ふっと気づいたように小走りで先に行った。


 アレクは、その背中を見て、自分の歩幅を変えなかった。前世でも、若い後輩がこういう瞬間に追いつかれるのを嫌うことを知っていた。数歩離れて、自分のペースで歩く。それが彼らへの礼儀だった。


* * *


 翌日の朝、孤児院の前に住民が一人立っていた。


 四十代の女で、エプロンの裾を握っていた。「先生、お願いがあるんです」


「中で聞こう」


 女は土間に通された。落ち着かない様子で、椅子に座った後も腰を浮かしていた。


「実は、近所のミセスが、今日も子供が熱を出したって。先生の言う通り手を洗っていたのに、なぜって」


「子供は何歳だ」


「五歳。三日前から熱が下がらないって」


「下痢は」


「あります、ひどく」


 アレクは立ち上がった。「ミア、薬草を選んで持ってこい。ドクダミとカモミール。それから煮沸した布」


 ミアが頷いて、奥に走った。


 女に案内されて、隣の家に向かった。子供は寝床で唸っていた。脱水が進みかけている。アレクは塩水を作らせて、ひと口ずつ飲ませる方法を教えた。下痢の原因は食中毒——ここの井戸ではなく、市場で買った肉だろう、と推測した。


 処置の後、子供の母親が「先生、お代は」と言った。


「要らない」


「でも——」


「子供が回復したら、近所の家にも手洗いを広めてくれ。それで十分だ」


 女は頷いた。母親が泣いた。


* * *


 帰り道、ミアが「先生、お代を取らないと、生活できないですよね」と言った。


「取れない人からは取らない」


「先生はそうでも、私たちの食費とか、道具とか」


「取れる人からは取る」とアレクは答えた。「シルヴィアのような大貴族から治療費を取ることになるかもしれない。その時、まとめて取る。それまでは、孤児院の蓄えと、肉屋から届く食料でしのぐ」


 ミアが笑った。「先生、計算してるんですね」


「計算しないと持続しない。慈善は持続しないと意味がない」


 ミアが頷いた。アレクは歩きながら、頭の中で予算を組み立てていた。


 分かることと、まだ分からないことがある。今は後者の方が多い。しかしこれは——確認しなければならない問題だった。


お読みいただきありがとうございます。

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