8.沈黙は終わる
茶会会場になっている中庭は、いつもより人が多かった。
理由は簡単だ。
そこにマリエッタがいるから。
噴水のそばのベンチ。
本も持たず、ティーカップも持たず。
地面を見るように少し、下を見たまま座っている。
その周囲で、ひそひそ声が広がる。
「……あの人よ」
「沈黙の令嬢」
マリエッタは動かない。
「下級生いじめの……」
「たくさんの男性と……」
マリエッタは反応しない。
「今日はヘンリー様と参加するって聞いたわ」
マリエッタは目を伏せる。
「でも、ヘンリー様は一緒にいたくないって」
「マリエッタ様が無理やり誘ったらしい」
生徒同士の交流はさて置かれ、一人の令嬢の噂話に盛り上がっている。
「ヘンリー様はリズ様が好きなんじゃなかった?」
「リズ様への嫉妬なんじゃ」
「そもそもいじめる側の人が、自分とリズ様と比べるなんて」
そのとき。
「マリエッタ様!」
明るい声が響いた。
リズだった。
小柄な体にベージュ色の巻き髪。
守りたくなるような笑顔。
身振りで揺れる大きなリボン。
男子生徒の集団を引き連れている。
「こんなところにいらしたんですね。お一人ですか?」
「いいえ、人を待っています」
マリエッタの声色はいつもと変わらない。
返答に、リズは声を潜める。
「ヘンリー様ですか? でも……」
リズは見回すように首を振り、ヘンリーの姿がないことを強調する。
「来ないかもしれませんよ。お疲れだと聞きましたから」
リズの後ろに控えていた集団がひそひそし始める。
リズは止めない。
「マリエッタ様。心無いことを言われていませんか?」
「どういうことでしょう?」
「私、また聞いたんです。マリエッタ様の噂」
新しい噂か、はたまた広がっている噂か。
リズは明言しない。
「このままではマリエッタ様が独りになってしまう。どうしても放っておけなくて」
リズは胸に手を当てる。
「だから今日のお茶会も、一緒に参加しようと思って声をかけたんです」
その姿を見て、男子達が言う。
「リズ様は本当に優しいな」
「普通なら関わらないのに」
マリエッタはゆっくり立ち上がる。
「ありがとうございます、リズ様」
穏やかな声。
「ぜひご一緒しましょう。その前に、伺ってもよろしいですか?」
リズは首を傾げた。
「なんでしょう?」
「その噂」
マリエッタは静かに言う。
「どなたから聞いたのでしょう?」
一瞬。
リズの笑顔が固まる。
「え……?」
「下級生をいじめている、複数の男性と関係している。様々ありますが」
マリエッタは微笑む。
「最初に聞いた方のお名前を」
リズはすぐいつもの笑顔を作り、困ったように首を傾げた。
「たくさんの方から聞いたので、どなたかは覚えていないんです」
「そうですか。では、別の件をお聞きしますね」
マリエッタの目は、静かにリズを捉えている。
「ヘンリーが疲れているというのは、リズ様が直接お聞きになったのですか?」
リズはまだ笑顔を浮かべている。
マリエッタも変わらぬ微笑みで続ける。
「彼が今いないのは事実です。ならば、ヘンリー自身が『疲れた』と話したお相手がいるはずです」
「それで、なぜ私にと?」
「最近ヘンリーは、リズ様とよくお話しされていると、リズ様自身が言っていました」
それは噂ではない、事実。
実際にヘンリーとリズが話している場面は、マリエッタだけではなく周囲の生徒も見ている。
「いいえ、私ではありません」
「そうなのですね。では、どなたが?」
「それは……皆さんが」
「皆さん?」
「その『皆さん』は」
低い声がした。
人垣が割れる。
「俺が教えてやろう」
ヘンリー・バウマン。
横にはトマス・モーリスが控えている。
リズの目が揺れる。
「ヘンリー様……」
ヘンリーは周囲を見回す。
「俺はこのトマスに、『マリエッタに今日の茶会に誘われている』ことを言った。そうだな?」
トマスは黙って2度頷く。
「お前はその話を、誰に言った?」
「……リズ様に。あと、その場にいた男子達にです」
数舜、リズの瞳が濁ったように見えた。
それに気付いたのは、リズの様子をうかがっていたマリエッタだけ。
「トマス。俺は『断りたい』とは言ってなかったよな?」
「はい、言ってなかったと思います」
さざ波が生まれる。
「ですが、そのような噂になっているようですね」
マリエッタの補足で、周囲も違和感を覚えたようだ。
ヘンリー本人が言っていないことが、広まっている。
「そのとき、誰が『断る前提』で話していた?」
ヘンリーはトマスに問う。
「確か、『それは断りにくいでしょうね』とリズ様が言っていて」
トマスは「あっ」と漏らして目を見開き、はっきり思い出したようだった。
マリエッタの誘いをどうするか、ヘンリーは言っていない。
『断る前提で話した』のは——リズだ。
周囲の視線がリズに集まる。
リズは。
はらりと一粒、涙を流した。
「私……そんな、誤解させるつもりじゃ」
身を縮め、痛々しく泣くリズ。
「ただ、ヘンリー様が心配で……」
近くにいた男子生徒達が慰めようと声をかける。
それらに健気に頷きながら、リズは続ける。
「だって、マリエッタ様は今よくない噂があるから……公の場に二人でいたら、傷つくと思って」
噂があるからいけない。
噂のもとになる、マリエッタがいけない。
そう感じたであろう男子達は、リズをなだめつつ、マリエッタに厳しい目を送る。
(やはり、そうなりますか)
マリエッタは変わらず微笑んでいる。
予測できる事態だったから。
(私への心配は、いつの間にか無くなっているようですね)
「マリエッタの噂、ね」
ヘンリーが呟く。
「トマス。お前はマリエッタの噂を、誰から聞いたか覚えているな?」
トマスは戸惑いながらも、誤魔化さずに言葉を紡ぐ。
「……リズ様です」
「誤解です!」
リズの声を受けながらも、トマスは続けた。
「『本当か分からないけど』って。でも下級生いじめの話も、夜会で男性と会っていた話も、自分はリズ様から聞きました……」
ヘンリーは別の男子を見る。
「お前は?」
「お、俺はトマスから」
「なら、またリズまで戻るな。そっちのお前は?」
「僕はこいつと一緒にいたので、同じです」
ざわざわと声が広がる。
「そういえば俺も聞いた」
「俺はリズ様が言ってたって、又聞きした」
「直接リズ様から……」
証言が連鎖する。
まるで糸を引くように。
すべて同じ場所へ繋がる。
リズの顔が青くなる。
「ち、違います! 私はただ聞いた話を……!」
「本当に、そうでしょうか」
静かな声。
マリエッタだった。
周囲の目が、マリエッタに集まる。
「女子生徒の噂も調べました」
「え……?」
リズの顔が凍る。
「喫茶室で、温室で、廊下で。私は私の噂について、聞くことになりました」
マリエッタは淡々と言う。
「すべて同じなのです」
一歩、近づく。
「噂の最初は——」
「リズ様」
沈黙。
中庭が静まり返る。
「リズ様はいつも、私に教えてくださいました」
笑顔が消えたリズの目を、マリエッタが見つめる。
「私の悪い噂が広まっている、と」
ヘンリーは黙っている。
「その噂をリズ様にお伝えしたのはどなたか、覚えていますか?」
リズの唇が震える。
「……皆さんが……ですから誰が、と言われても」
「そうですか。周りの皆さんはリズ様から聞いたという方が多いようですが、リズ様はどなたから伺ったかわからない。
では、『最初にそう仰った方』はいない、ということですね」
場の沈黙が、再びさざめく。
「不思議ですね。誰も言い出していないのに、噂だけが存在しているなんて」
マリエッタの声色は変わらない。
責めても怒ってもいない。
ただ静かに、そこにいる。
スカートを握りしめたリズは、口を紡いでいる。
すると周りの声がよく聞こえてくる。
「実際にマリエッタ様が下級生をいじめているところを見たか?」
「いや……」
「泣いてる新入生を慰めているのは、見たことあるわ」
「夜会のことは……」
「同じ会に参加したことあるけど、女性のご友人と喋っていたような」
「噂はしょせん噂ってこと?」
「噂っていうか…」
「リズ様の作り話なんじゃ」
「どうしてそんな意地悪を言うんですか⁉」
リズが叫ぶ。
涙を振りまきながら。
マリエッタにではなく、周囲の生徒達に向かって。
「みんなだって信じてたのに! 私だけを悪者にするなんて!」
思うところがある生徒達は、一様に顔をそむける。
実態が何であろうと、マリエッタの噂を信じ、広めたのはリズだけではない。
「今だってマリエッタ様は、こうやって私を責めているんです! なのにどうして私が嘘をついているみたいに!」
リズはとうとう顔を覆って、声をあげる。
取り巻きの男子生徒達は、慰めない。
「リズ様は、嘘をついてはいません」
そこにマリエッタの穏やかな声が響く。
救いの手のようにも思える発言にリズは顔をあげる。
「ただ」
だが。
「『そう聞こえるように話していただけ』です」
「……違う」
小さな声。
「違うって言ってるでしょう!」
リズの声が尖る。
「私じゃない! 私は悪口なんて言ってない!」
「確かに直接は言っていない」
ヘンリーが口を挟み、話しながらマリエッタの隣へ向かう。
「『本当か分からないけど』、『聞いた話ですが』。自分が責任を取らなくていい、便利な言葉だな」
元々鋭い目は、より冷たくリズに向けて刺さる。
「でも全部、お前から始まってる」
リズの肩が震える。
周囲の視線が変わる。
それは今まで、マリエッタに向けられていた奇異の目。
今度は——リズに向けられていた。
「結局……あなたもマリエッタ側なんだ」
小さな、とても小さな呟き。
そして。
ついに。
「なんでよ‼」
叫び声が中庭に響いた。
リズの顔が歪む。
「なんで皆マリエッタなの⁉」
噴水の音もかき消すほどの叫び。
「私の方が可愛いって言うくせに! 守ってあげたいって言うくせに!」
涙がこぼれる。
「なのに……!」
リズはマリエッタを睨んだ。
「何もしてない顔して! 黙ってるだけでみんなに慕われて!
『沈黙の令嬢』なんて言われていい気になってるから……だからちょっと落としてやろうと思っただけ!」
絶えず訴え続けるリズが激しく頭を振ると、リボンが音もなく落ちる。
「噂を始めたときはみんな必ず『まさかあの人が』って言って、でも結局私の話を信じた!
そんなマリエッタに優しくする私を、優しい、天使だってみんなが言った!
相談されて、頼られて、愛されるようになった!
私の方があんたより、やっと上になったのに‼」
可憐な笑顔のリズ・フェルディナンドは。
いない。
「あんたばっかり、ずるいのよ‼」
完全な沈黙。
マリエッタは静かに言った。
「なるほど」
一歩近づく。
「私を下げればあなたが上がり、あなたは優しい人だと、周りが信頼してくれると」
リズは肩で息をするだけで、何も言わない。
マリエッタは微笑んだ。
「残念ですが」
その笑顔は冷たかった。
リズの表情が怒りから、恐怖に傾く。
「人の信頼は、そんなに簡単に奪えるものではありません」
そして最後に言う。
「リズ様。あの日お伝えしたことを、もう一度言いますね」
リズの瞳が揺れる。
「信頼とは、他人が守るものではありません。自分の振る舞いが積み重なってできるものです」
静かな声。
リズは崩れ落ちた。
誰も、助けない。
「リズ様はおっしゃいましたね。本当のことを知れば、皆様わかると」
周りを見るように、マリエッタの手が優雅に促す。
気力の尽きたリズは、緩慢な動きで顔を向ける。
囲む生徒達と、目が合う。
息を呑み震えるリズを見てから、マリエッタはヘンリーとともにその場を後にした。
「————その通りでしたね」
その日を境に、マリエッタがいじめや男遊びをしているという噂は消えた。
代わりに広まった、新しい噂。
——マリエッタ・アルヴェーンは、恐ろしい女だ。




