040 大丈夫 - 詩帆 -
2026年8月4日(火)、章率いる魂狼のメンバーたち、そして誠と要はサンフランシスコ国際空港への直行便に搭乗するため羽田空港第二ターミナルのとある専用ラウンジにいた。彼らは安全管理上一般搭乗客との接触による混乱を避けるため、保安検査に向かうタイミングを判断するアテンドスタッフの指示を待っていた。そこには詩帆と、章の妻としてというよりはこの日は詩帆の保護者としてあゆみも見送りのために同伴していた。そのラウンジの片隅で、稑は詩帆といよいよ旅立つそのギリギリまで2人で話し込んでいた。
「早速使ってるんだね、そのバッグ。」
フード付きのスウェットの上下を着た稑の背中を覗き込むようなジェスチャーをしながら詩帆が言った。それは渡米中に19歳の誕生日を迎える稑が前倒しで詩帆にリクエストし、急遽3日前に一緒にショッピングをした時に購入したメッセンジャーバッグだった。
「うん。やっぱり容量大きめにしてよかった。」
「にしてもちょっと詰め込み過ぎじゃない?あんまりパンパンだと、ちょっとダサいよ?」
ファッションに関して詩帆に指摘をされるのは少し癪に障ったが、これには稑なりの理由があった。
「大丈夫。ホテル着いたらもうそこで休んでてもらうから。」
「へ??休んでてもらう?」
「うん。見る?」
「え、別にいいよ。」
「見る?」
「……分かったよ、見せたいんでしょ?何?」
ノーという選択肢は認められない稑の圧に観念した詩帆は若干面倒くさそうに言った。すると稑はひょいっとそのバッグを胸の前に反転させチャックを開けると詩帆に中を覗かせた。
「う、うぅ…。これって…。」
それは極限状態まで圧縮された例の詩帆型等身大抱き枕だった。
「帰国するまではこれで耐える。」
「そのもはや変態でしかない発言やめろ。つーか百歩譲って何でこれが手荷物なわけ?!どう考えたってスーツケースでいいでしょうがッ!?」
「え、それはねぇ、国際便は稀にロストバゲージっていうトラブルがあるって蓮が教えてくれて。だから僕も急遽手荷物で持って行くことにしたの。つまりそこからのリクエストッ。」
稑は若干ドヤ顔で嬉しそうにそのメッセンジャーバッグを両手の人差し指と親指をピストルのようにしてアピールしながら詩帆を見下ろした。
「ってことはアイツも手荷物かい!」
(ったくポンコツ重々男共めッ!もうほんとに大丈夫かこの人たち…。)
詩帆はいろいろな意味で不安になった。しかしまもなく臨月の美琴の見送りは蓮が辞退させ、早めに新潟の実家まで里帰りに同行していたところはすでに父親の自覚が芽生えているようで、一方は少しずつ落ち着いてきているのを感じていた。
「ところで詩帆さん、詩帆さんも僕からの誕生日プレゼントはちゃんと付けてね。」
「え、だってまだ誕生日来てないし。」
「付けてね?!もう明日から!」
「あーもぉ分かったよ!ちゃんとするよ…。」
再びの圧に詩帆は困惑した顔でそっぽを向いてしまった。
「でも…、」
「イチャイチャしてるね、あの2人。」(新)
「あん?あんなんはいつもの夫婦漫才だろ。」(勇)
新は少し離れたところから向かいに座っている優と話しているように見せかけて、その延長線上にいる稑と詩帆の様子を隈なく観察していた。
「あッ!今なんか稑が詩帆さんの首元に指で触れてるッ!」(新)
「あん??」(勇)
小声で逐一報告する新のリポートがどうにも気になり隣りに座っていた勇は読んでいた雑誌から目線だけを上にあげた。
「でも…、このネックレスはしてくれたんだね。」
そう言いながら稑は詩帆の首元のチェーンを掬い上げようと人差し指で鎖骨の辺りをなぞり、いよいよその中央にぶら下がるお目当てのものがボートネックTシャツの内側から姿を現そうとしたその時、詩帆が上目遣いで睨みながらその稑の手をガシッと掴みそれ以上のその手の動きを封じた。稑は一瞬驚いた顔をし途端に残念そうな顔をしていたが、やはり自身の目に間違いはないと確信し、あのネックレスをとうとうこの日詩帆が自ら身に付けて来てくれたことがただただ嬉しくて、稑はクスッと笑い愛おしそうに詩帆を見つめた。
「許すッ。」(勇)
なんだかんだでつい見入ってしまった勇だったがそのひと言を告げると再び雑誌に目を戻した。
「あ"ーーーッ!今度は稑が詩帆さんのほっぺにチューしたッ!!!」(新)
「あんッ?!?」(勇)
「えーーちょっともぉーー僕も見たいんだけどぉーー!!気になり過ぎて仕方がないぃーーッ。」(優)
稑と詩帆に背を向けて座っている優は気を遣って振り向かずにいてあげたが、いよいよ限界が来たのか半分泣きべそをかきながら2人に訴えかけた。しかしやはり目線だけ上げ状況を確認した勇はしれっと言った。
「してねーよ。」
「え?!なんで分かるの??」(新)
「もししてたら今頃稑の生存率は5%までダダ下がりだ。そしたら飛行機なんて乗ってる場合じゃねぇ。稑が乗るのは救急車だ。」
「なるほどね。だよね、詩帆さんが公然でそんなこと許すはずがないもんね。」(優)
「…その約束破ったらぶっ殺す。」
詩帆は俯きながら、今稑が自身の耳元で囁いた言葉に独り言のように、しかし語尾には本気を滲ませた声で呟いた。稑は再びクスッと笑った。
「おし、そろそろ移動だッ。」
突然誠の大きな掛け声が入り口付近からそのラウンジ内に響いた。必ず来ると分かっていても、やはり別れの瞬間は受け入れ難かった。
「じゃあ…、行くね。」
「うん…。」
しかし稑はすぐに思い改め突然被っていたキャップを手に取ると、その頭をずいっと詩帆の顔の前に突き出した。
「撫でて。たくさん。」
詩帆は少し困惑した。まだ稑の思いを知る前は、どちらかと言うと詩帆の方から積極的に撫でていたその行為は、今はもうなぜか今までのようなノリでは出来なかった。詩帆はぼぉっとその頭をしばらく見つめながら、あの日、カレーを作ってくれた日の夜もあの後結局稑から要求され、そのご褒美にたくさん撫でてあげた時のことを思い出していた。
「詩帆さんッ、早くッ。」
「……あッ、うん…。」
「あ"ーーーッ!!今度は詩帆さんが稑の頭を撫でくり回してるぅーーーッ。」(新)
席を立ちいよいよ入り口まで向かおうとしていた新はまだ小声でリポートを続けていた。
「あん?!そんなんは昔はしょっちゅうやってただろッ。むしろ最近してなかっただけで、ただ逆戻りしただけだ。許すッッ。」
そう言いながら、勇も遅れてようやく立ち上がると稑と詩帆のそんなやり取りを視界に捉えた。すると勇はその2人に一瞬で目を奪われた。
(え…。)
次の瞬間、勇は慌ててすぐ左隣りに突っ立っている新の目を頭の前後を両手で抑えるようにして塞いだ。
「えッ、ちょっと勇ッ?!突然何!?」
そんな勇の様子に違和感を覚えた優は、自身も立ち上がるとその流れに身を任せるようにしてようやく振り向くことが叶い、同じく勇の視線の先を捉えた。
(え…。)
すると優も思わず目を見張った。
(詩帆さんも…、あんな顔、するんだ…。)
2人は声に出さずとも、間違いなく同じことを思っていると確信した。
「もうやめてッ。」
そう言って新が勇の手を振り払う頃には、稑は今一度キャップを深く被り直した後だった。そして稑も詩帆の頭を軽く2回ポンポンッと撫でると、そこからはもう気持ちを切り替え誠の後に続くため歩き出していた。
「何で隠したの?!」
「いや、お前にはちょっと刺激が強過ぎる。」
「は?!どゆこと?!」
(…あれが、稑しか知らない詩帆さんってヤツか。)
勇は新がいつも力説していた2人の見えない絆をこの度初めて目の当たりにした気がした。
(参ったな…。なんかえれぇーもん見せつけられた。)
勇はその恥ずかしいとは少し異なるこそばゆい感情を自分の中に留めておくことができず歩きながら優に絡んだ。
「もう優くぅーん、ボクも早くあんな恋がしてみたぁーいッ。」(勇)
「はいはいそーですねー。でも勇のお相手は、案外海の向こうにいるのかもしれないね。」
「マジかッ?!そういうことかッ?!おしッ、俺今日からめちゃくちゃ頑張るわッ。」
「いやいやまずは普通にフェスを頑張ろうね?」
最初は打ちひしがれるように大袈裟にもたれ掛かる勇を優は若干気だるそうに引き摺りながら歩いていたが、俄然やる気スイッチが入った勇は今度は逆にぐいぐいと優を引っ張りながら2人は蓮と合流し稑の後に続いた。
「じゃ、詩帆さんッ、あゆみさんッ、行ってきますッ。」
「はぁーい行ってらっしゃいッ。」(あゆみ)
「向こうのご飯美味しいからって太って帰ってくんなよぉー。」(詩帆)
もたもたしていて結局最後になってしまった新は若干駆け足で勇たちを追いかけながら、そんな2人の見送りの言葉に背を向けたまま片方の手を思い切り高く突き上げ返事をした。しかし、何か魔が差した。理由はただそれだけだった。新は特に深く考えず、気付いたら無意識に再び詩帆たちの方に振り返っていた。すると、先ほどまで至っていつも通りだった詩帆がその時にはすでに自身の左手の甲で目から下ギリギリのところを隠し、眉を悲痛に歪ませ、口を固く結び、こちらを見つめる目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。新の時間は思わず止まった。
(え…、詩帆さん…ッ?)
新は動揺した。しかし次の瞬間だった。新は慌てて前に向き直り稑を探した。稑はもうあと5歩か6歩のところでそのラウンジから出る辺りを歩いていた。新は心の中で叫んだ。
(稑ッ!!振り向くなッ!そのまま進めッ!!稑は絶対に振り向いちゃダメだッ!!今振り向いたら、あんな詩帆さんを目の当たりにしたら、稑は絶対に正気じゃいられなくなるッ。絶対にまた駆けつけたくなる…。だからお願いだッ。どうかそのまま、振り返らずにそのまま行ってくれッ、頼む…ッ、稑ッ!!!)
新にはその僅か数秒が、とてつもなく長く感じられた。新は稑の後ろ姿を見つめながら、ただただ必死に心の中で念を飛ばし続けた。稑は振り返らなかった。そしてそのままドアの向こうまで進んで行った稑を見届け安心した新だったが、そこから先通路へ出て右に曲がって歩みを進める間に僅かに見えた稑の横顔に、新は再び心を撃ち抜かれた。深く被ったキャップの下に覗かせた稑の眼差しは、もはやゾーンに没入していた。
(稑…。)
そこには己の役割を全うする覚悟が漲っていた。
この日、新、勇、優は、その見えない絆が何よりも底深いところで繋がっている2人の本当の恋を見た気がした。新はこの渡米の間、もう2人をおちょくることは決してしないと心に誓った。
国際線のため、出発までにはそこからまたさらに時間を要したが、詩帆はあゆみと共に空港内で過ごしその時を待った。そしていよいよ2人は展望デッキに足を運び、彼らが乗る飛行機の離陸を見守った。
「もう…、絶対に離れないって決めたのに…。」
やっと思いが通じ合い、僅か4日前にようやく束の間の時間を共に過ごしそう心に誓った2人には、いきなり試練が待ち構えていた。
「はははッ!12年前の私もここで全くおんなじこと言ってたわッ。」
「へ?」
「あの人プロポーズするだけしてさ、専門学校卒業したらそのままアメリカ行っちゃって、それからしばらく武者修行ってなって、突然遠恋が始まっちゃってさ。たまぁに帰って来たりしてたけど、でもひと度また海を渡ると次はいつ帰ってくるのか分かんなくてさ。この世界は一期一会だからって、でもあゆみはいつも心の真ん中にいるからって…。」
あゆみは改めて隣りにいる詩帆を見て言った。
「稑だって絶対にそう。それに2ヶ月なんて、あっという間だよ!」
「……うん。」
詩帆もそれは分かっていた。心が一番近くにいる、それは自身の稑に対する思いを自覚する前からすでに確信があった。しかし触れて感じる温もりを、そこから得る安らぎを知ってしまった今、これからの2人の距離と時間は再び詩帆を不安に陥れた。あの言いようのない、すぐ傍にいない、確かな存在を感じる術がないこの2か月は、詩帆にとって新たな試練だった。
(真っ先に駆けつけられないし、傍で寄り添えない。でも…。これは稑も私も、お互いが望んで自ら選んだ道だから…。)
詩帆はボートネックのTシャツからネックレスを引っ張り出すと、それを両手で強く握りしめた。その手の中には、ゴールドの八分音符のアクセサリーと、そのチェーンに一緒に通されたピンクゴールドの指輪があった。
(どうか、どうか、稑を、稑のこの先の未来を、見守ってください…。)
するとその時、どこかで聞き覚えのある声が突然聞こえた。
"あの子は、大丈夫だから。"
「あ…。」
"大丈夫大丈夫ッ。"
(すいちゃんさん…。)
「ん?どした?あッ、詩帆!飛行機、動き出したよッ!」
章たちが乗ったその飛行機は、いよいよ離陸するために出力最大で加速を始めた。
("大丈夫ッ"、あんなふうに力強く信じてもらえる子は、きっとこの上なく幸せ者だ。うん、だから私も信じよう。すいちゃんさんのように…ッ。)
- あの子は大丈夫、稑は大丈夫ッ。 -
"必ず無事に帰ります。"
耳元でそう囁いた稑の声が蘇る中、詩帆は何度も何度もそう心の中で言い聞かせながら、空に消えていく飛行機を見えなくなるまで見つめていた。




